長すぎる雨



・・・・熱い・・・・熱い・・・・熱い・・・・
下腹が?・・・違う。せ、背中が・・・・燃えてるみたいに・・・ア、ツ、イッッ!!

「ア゛ァアァァァアアアアアァアァァッッッ!!」

オスカーッッ!!背中がッッ!!突然の背中が燃えているような痛みに、ブラックアウトから引きずり戻されるようにして堪らず飛び起き、両腕で身体をかき抱く・・・が、そんなことで背中の猛烈な熱は収まる気配がない。いつの間に、アタシから離れたのか。アタシの叫び声で起きたらしいオスカーが、暗闇の中、ジッとアタシを見ていた。銀色に瞳が光っている。な、に、ボーーーーッッと見てンのよッ!?助けなさいよ!!・・・・背中が・・・裂け、るッッ!!
「アァァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!」
痛みを通り越して、アタシは素っ裸のままに、地面に倒れ込む。狭まっていく視界の中、此方をじぃっと魅入るケダモノの銀色の二つ眼が、瞬く・・・それは瞼の裏にしっかりと焼き付いて、視界が完全にブラックアウトしても消えない。
―・・・クソッタレ。
意識を失う、その瞬間。どこかの誰かの汚い言葉が、脳裏をよぎった。

・・・で、目が覚めて・・・
「おい、起きろ。オリヴィエ。」
弾むような、嬉しげな声。
「起きとるわ。」
不機嫌な低い声が出る。アタシにあるまじき台詞、あるまじき低い声は、・・・・まぁこの場合、しょうがない。事態が事態だ。
「聞いてないっつーの。」
片膝立てて、その膝頭の上に額をくっつけて項垂れるアタシの横で。パタパタと尻尾を振る大型犬宜しく、キラキラと瞳を輝かせるオスカーの気配をヒシヒシと感じる。こんなときばっかし、かーぃらしぃ(可愛らしい)オーラ出してんじゃないよ・・・。まったく。
「・・・聞いてない。」
もう一度、呻く・・・けど、全ッッ然相手には堪えている気配がない。くっ、と脱力ざま、ヴァサッッと自分の背中から、信じたくない音がする。サワサワと、ソレを嬉しげに目を細めて触るオスカー。
「・・・・ッッ!!美しくなーいッッ!純白の天使の羽ならともかく、なんなの、このコウモリ羽というか!トカゲ羽というか!!」
アタシは頭を抱えて叫ぶ。
「なんでだ。十分、美しいだろう!」
ムッ、と若干口をとがらせ気味に、サスサスと、アタシの背中に生えたコウモリの羽のような黒いソレをさすりながら、オスカーが言う。
「あーのーねぇ・・・・!それになんなのよ、この鱗はぁッッ!」
大きく片手を振って抗議する。そう、「契約」とやらが済んだのはいいけど、こんなオプションが付いて来るだなんて聞いていない。世にもオソロシイ激痛の後、気がつけば・・・・身体は一回り大きくなってるし(信じたくないことに、腕や足も「若干」太いし・・・!!)、背中に真っ黒い羽生えてるし、挙げ句、顔の輪郭の辺りと、二の腕の途中から手の甲にかけて、同じく、ふくらはぎの途中から足の先にかけて、金色の鱗が少々・・・、っつーか、爪も根本から真っ黒になって、やたら伸びてるし?!
「だってお前、ヴィルムだろう?・・・やっと『らしい』ぞ。それに金の鱗だぞっ!やはり俺が思った通り、お前は特別なヴィルムだ。」
ウムウムと一人横で腕を組んで納得する男を、アタシはベシリと思わず腕を振るって壁に叩きつけたい欲求に駆られる・・・ってなんか、見た目どころか、本能までケダモノに近づいて来たみたいで、イヤァ〜〜〜〜ッッ!!心中、涙が滂沱。
「ヒトに戻りたい・・・。」
ぼそりと言った台詞に、
「ヒト型にって意味か?戻ればいいじゃないか。」
と眉間に皺を寄せ、疑問符を顔に浮かべて返される。・・・ってこっちが疑問だっつの。
「戻れんの?どうやって?」
思わず正座してそっちを向き直る。
「どうって・・・言われてもな。まぁ、ヒト型をイメージして。普通に、だ。」
頼りない説明に、「普通にぃ??」と、疑わしく思いつつも、ヒト型・・・本来の自分の姿を賢明に瞼の裏に描き、精神統一しようと試みる・・・と。
・・・・。
「な?」
「すごいじゃん、アタシ!」
スルスルと身体が元のサイズに戻り、羽のサイズが小さくなり、背中に戻る。・・・完全になくなったかどうかは自分じゃ確認できないけど、ひとまず背中の違和感は無くなった。それになにより、爪と、腕や足の鱗が消えている。
「で、今度は、さっきの身体をイメージして・・・。」
言われるまま、さっきの身体をイメージする。たしか肩の辺りがもう少しもこっとしてて、手足の爪が険しくて、背中からでかい羽・・・知らず、肩がいかって、背が丸まる。ズズズズと、身体がまた大きくなる。
なんと、これは便利!
「おぉーー!」
思わず感動してしまう。・・・そう、感動してしまって。
「あぁ、やっぱり綺麗だ。」
こうなってしまうと、ヒト型のオスカーはアタシより一回り小さい。横から、アタシの顔を満足そうに、眼を細めて見上げるオスカーをちらっと一瞥してから、あーぁーぁ、と、もう一度。胸中で盛大に溜息をついた。

--

数日後。
「さて、行くか。」
夕食後、男は事もなげに言った。
まぁ、ここ数日のトレーニングで、すっかり火炎魔法とやらの使い方にも、翼の使い方にも慣れたし。トレーニング中に何回か出した知恵熱(!!)も、こさえた怪我(!!)もすっかり落ち着いたし。そろそろ言い出すんじゃないかとは思ったけど。
「何処に?」
こちらもスープの残りを器に口をつけ(仕方ないでしょ!スプーンなんてないんだから!!)ズズズ、と殊更ゆっくり飲みつつ、事もなげに聞く。
アタシの台詞に、なんだと?とばかり、片眉を跳ね上げつつ、オスカーが口を開こうとしたところで、
「なぁんて、聞かないけどね。」
それを遮るように言ってやって、器をゆっくりと火の前に戻し、肩を竦める。

―アタシは、本当はどうしたいんだろう。

らしくもなく、直感的に納得できてないのに、動こうとしてる。
オスカーの味方をするのは良い。でも、相手はリュミエールだ。本当にリュミエールに向かって、アタシが火炎魔法を放てるのか。本気で命のやりとりをしようとしているオスカーとリュミエールの間で、アタシは何か・・・出来るンだろうか。
「行くぞ。」
オスカーは立ち上がって、アタシを振り返って見下ろす。
意志の強い、薄い色の瞳が、炎を受けて揺れている。
心は、決まっていないのに。なのに、何故かこの視線には、抗えない気がして。アタシは自分にまた苦笑する。
「オッケー。それじゃ、いこっかぁ♪」
アタシも勢いよく立ち上がって、手をパンパンと払う。その様子を見て、オスカーが目を細める。

―あぁ、認めたくないけど。

「オスカー。」
呼び止めて、ドン、と背中からほとんどぶつかるようにして、肩を抱く。そのまま、腕を伸ばして顔を両手でぐいとこちらに向けさせる。なんだ?とばかり、アタシに視線を下げるオスカー。無理やり下に引き寄せて唇を合わせる。上唇を柔らかく吸って、下唇を吸って、舌を潜り込ませる。すると、今までの噛み付くような反応じゃなく、ねっとりと舌が絡んできた。学習しちゃったってかぁ?ちょっとセンスよすぎじゃぁないの?時に口腔全体を蹂躙するように、かと思うと舌先をチロチロと弄び、甘噛みしてくるオスカーに、あたしは酸欠による甘い痺れと、下腹部の疼きを同時に覚える。火をつけられて思わず本気モードになって、まぁ負けじとやり返すけど。
「ふっ・・・んぅ・・・。」
「はっ・・・あぁ・・・。」
絡んだ舌の感覚が鈍くなった頃合いにようやく唇は糸を引いて離れる。つーか既にこっちはこれじゃこのまま終われないってくらい煽られてたりして。
オスカーの熱い吐息を、唇に感じる距離を保ったまま、
「ねぇ。行く前に・・・。」
吐息に混ぜて言えば。僅かばかり瞳が見開かれ、やがて、その男に実に相応しい底意地の悪そうな笑みが口の端に上る。
「期待して、いいんだろうな?」
氷のように薄い色の瞳は、伏せられた睫の向こうで誘っているように光る。
いったい、「何を」期待させちまったのかねぇ?この後の働き?それとも・・・気持ち良さ・・・かな?
「期待してンのは、こっちだったりして。」
アタシの往生際の悪い理性とは反対に、潔く観念してしまった心は、この関係を早くも楽しもうとしているらしい。反論させる間も与えずに、相手の口を塞ぎにかかる。呼気の一つも逃さぬとばかりに、咥内を貪りながら。ふと、アタシは自分の口の端にも、男と同じような底意地の悪そうな笑みが浮かんでいるような気がした。


--


自分の翼を使ってアタシは地上を駆けるオスカーを追い、ヒエロトの外門の前で動きを止めたオスカーに合わせ、地に降りた。既に腰を抜かしそうな門番の二人に、ゆっくりと獣化を解いたオスカーは、
「殺さん。コイツがウルサイからな。ベーオウルフを呼べ。」
斜め後ろに立つアタシを小さく顎で指し示しながら、尊大だが自然な口調で、低く命じた。門番の一人が、不自然な動きで、まろびそうになりながら、門の中へと駆け込んでいく。
長時間の単調な動きで、翼に違和感を感じていた私は、大きくヴァサ、と両翼で3メートルほどにはなる翼を最大限広げる。・・・が、この翼の大きさは思った以上に門番の彼らを吃驚させたらしい。残った2人の門番は、「ひっ・・・!」と、同時にのけぞった。
「・・・お前が怯えさせて、どうする。」
ニヤリと器用に片眉を上げ、人の悪い笑みをつくりながら、こちらに視線を投げるオスカーに、
「驚かせるくらいはいいでしょ。」
両肩を竦めながら獣化を解く。自分勝手なヤツだな、と少し驚いたように言うオスカーに、アンタほどじゃないですぅ、と軽口を叩く内、外門の内側が俄に騒がしくなる。
その物音に自然、軽口を止め、身体が外門に対峙する。
「開門〜〜〜!!」
どこか間抜けな号令と共に、鉄格子の外門が開き、中からどこか洗練さを欠いた動きでワラワラと兵士達が出てくる。50・・・いや、100・・・200くらいか。
目視で数を把握しながら、アタシとオスカーは構えもせずに、その兵士達が二列横隊できっちりと整列するまでを待っていた。
「200は居るぞ。一人も殺しちゃイカンのか。」
こっちを一瞥もせずに、ボソボソと唇を尖らせながらオスカーが問う。
「トーゼン。ひっとりも殺さな〜い。」
アタシも両腕を組みながら、前を見据えたまま、唇の先で答える。答えつつ、1列目がボーガンを構え始めたのを見て、獣化する。
「発射ッッ!!」
号令と同時に、素早く、翼を広げてオスカーをその内に匿う。
ダダダダダダダダダダッッッ
矢が翼に当たる・・・が刺さらずにバラバラと翼に弾かれて地面へと落下する。
「フン、便利だな。・・・で、どうする?」
翼の内で微動だにしないままに、またもボソリと問うオスカーに。
「決まってンでしょーが。地道にヤるしかないっつぅーの!」
アタシは天に右腕を伸ばし、掌を開く。コォォォッと周囲の空気を歪めながら、掌に熱が集まって。やがて、無数の小さな火の玉が円上にアタシの掌の上で回り出す。
「お前は飛び道具があるからいいがな。俺が地道にヤるとなると、手加減が難しいんだが。」
バリバリと頭髪をかき乱しながら、オスカーもゆっくりと獣化する。オスカーが完全に獣化したのを目の端で確認しつつ、翼の囲いを解いて、アタシは右腕を前へ振り出す。
ドドドドドゥッッ!!
と、小さな・・・拳半分ほどの大きさの火の玉が、前列に並ぶ彼ら一人一人の足下に放たれ、布製のブーツを焼く。ワァワァとあっという間に、隊列は乱れ、パニック状態になる。後列で盾を構えていた連中は、その様子に戸惑うように、勝手にジリジリと後退し始める。隊列の乱れに乗じて、オスカーがお得意のスピードで一気に100M以上はある間合いを詰め、腕を滅茶苦茶に(少なくともアタシには滅茶苦茶に見える)振り回して、前列、後列の彼らを問わず、手当たり次第に倒し始める。「殺さない」という約束は覚えているらしく、以前のように木偶のように兵士達は吹っ飛ばされることはなく、膝を折ってバタバタと倒れていく。
「上等じゃ〜〜ん☆」
その様子に目を細めながら、アタシは第二弾を放つべく、再び天に向けて掌を伸ばす。再び空気を振動させる音が高く響き始め、掌が熱くなったところで、
「退けっ!退けぇッ〜!」
やや遅すぎる号令が、既にジリジリと後ろ足に後退し始めていた彼らの中で起こる。そんな様子に構わず暴れ続けているオスカーに、
「オスカー!」
窘めるような声音を使って、その名を大きく呼び、それを止める。低く這うようにして、腕を振るっていたオスカーは、ピタリと突然動きを止め、グルルルルと低く喉をならしながら、トン、トン、トンッと跳躍してアタシの下に戻った。その動きは狼というよりは、まるで虎かなにかを思わせる、しなやかでエロティックな動き。銀色の体毛は月光を照り返して白く光る。近づいて来た眩しく光る生き物が、すらりと四つ足で立つ様子に、馬上からアタシを見下ろす瞳に覚えた、胸のざわつきを思い出す。
―アタシのコンプレックスとアタシの理想を混ぜたらきっとこんな・・・
思わずぼぅっとしていたらしく、いつの間にか、先ほどの四分の一程の長さに、こぢんまりと三列横隊でまとまった兵士達にやっと気づく。その後ろから、のそのそと、白い毛で縁取られた、赤く分厚いガウンを羽織った、老人が出でた。「王、危険ですッ!」「王様!」と口々に止めようとする兵士達を小さく片手を上げることで制しながら、その王は長い眉の下から、だがしっかりとオスカーを見据えて、口を開いた。
「お前が、グレンデル。」
問うているわけではなかった。だが、獣化を解いて、オスカーは答えた。
「そうだ。デネの王よ。」
見窄らしいチュニックに身を包みながら、けれど、オスカーの銀色の瞳は、きっとデネの王と対等な高貴さを含んで、真っ直ぐに狂いなく注がれているだろう。
「デネの王よ。ヒトは脆いな・・・。脆すぎる。」
誠実さの滲む声で言ってから、オスカーは右手を大きく振るって、いつもの偽悪的な声音を取り戻して続けた。
「なぜ、こんなにも脆弱な生き物が、我が物顔で中津国を支配しているんだ?我々を差し置いて。俺達は海や沼、泉の奥まったところで静かに暮らしているだけで、満足していたというのに・・・?何故、「より多く」を求める。何故それが、自分たちだけに許されていると信じて疑わない?」
フッ、ハハ、と態とらしく高く笑い上げ、問う。
「自分たちがアベルの息子で、俺達がカインの息子だから?・・・自分たちが神々に祝福されていて、俺達が異形だからか?」
黙ったまま、身じろぎもしない王の後ろから、
「そうだ、・・・と言ったら?」
と、突如、凜と響く声が応じた。
その声に、オスカーがギリリッと歯をかみしめる音を聞いた気がした。
スゥと兵士達の狭間から、歩み出たのは、以前会ったときと変わらぬ姿の、リュミエール。全身が、知らず強ばる。
「ここは、どうぞ私にお任せ下さい。王よ。」
まるで、アタシ達の存在など意に介さぬ様に、リュミエールは、長身を折り曲げて、王に囁いた。王が、
「しかし・・・。」
と戸惑う様子を見せると、更に、
「私はこう見えて、英雄と呼ばれる男です。お忘れですか?」
と言い募る。
「・・・。う、うむ。ベーオウルフよ、頼んだぞ。」
王はほんの一瞬、逡巡してから、兵達に、
「下がれ。ここはベーオウルフとあの者達だけにし、我らは朗報を待とうぞ。」
響かぬ声ながらも、しっかりとした口調で告げた。
リュミエールは一度、にっこりと健全を絵に描いたような笑顔で、王に笑ってみせてから、右手を胸に付け、膝を折って礼を取った。
「お任せ下さい。」
そのやり取りに合わせ、出でた時と同じ、いまいち統制に欠ける雰囲気で、ぞろぞろと兵士達が外門の内に引き返す。兵士達が引ききったことを確認して、やっとリュミエールはアタシ達に視線を合わせた。そして、「さて、先ほどの続きですが」と前置きして、先ほどの台詞を繰り返した。
「そうだ、・・・と言ったら?」
相変わらずの完成度の高い笑みに、オスカーは顎を引いて声を低める。
「すべてお前達の勝手な言い草だ。」
オスカーの唸るような応えに、リュミエールは、眉を下げて・・・あの印象的な、笑みを見せた。今回はその意味がはっきりと知れた。
『そう、私達は、勝手なのだ。』
と・・・、肯定しているのだ。この男は。
「そうですね、お前の言い分は確かにこの耳で聞き、心に留めておきましょう。ただ、お前達はやはり、駆逐される運命にある。それはもう変わりようの無いこと。」
深い蒼がアタシを初めて、真正面から捉えた。ゾク、と背筋を駆けたのは、悪寒か、それともその美しさに対する戦慄か。
「ヴィルムまで連れてきて、ご苦労な事です。」
リュミエールは、ほんの少し、眉根を寄せ、右腕を身体から少し離し、その指先にまで力を込めて見せた。例の白い靄(もや)がその腕の周囲をうっすらと取り囲む。
ビキ、と音がしたような気がした。彼の白く細い腕に、青い血管が次々と浮き上がり、筋肉が段々と隆起していく。
「結末は、変わらないのに。」
仕方なさそうに、眉を下げて笑う男の瞳は、奥底が知れず。アタシはただ、呆然とそれを見つめていた。
彼の右腕が、その左腕とは全く不釣り合いに、その二倍の太さになろうかという様を。
一通り、右腕の変形が落ちつくと、彼はいつも通りの涼やかな声で、
「さぁ。さっさと終わらせましょうか?」
と、今度はにっこりと邪気のない笑みを見せて言った。

--

ハァ、ハァ、ハァ・・・と、自分の胸の音が五月蠅い。オスカーの片腕を掴んだまま、アタシは滞空飛行で、なんとか休む暇を作り出していた。地上では、リュミエールが暇そうに上を見上げている。オスカーとリュミエールのスピードはほぼ互角。遠隔攻撃ができ、空中からも攻撃できるアタシがいる分、オスカーの方が圧倒的に有利なはずだった。けど、アタシの火炎は、あの右腕にかかると、ほとんど攻撃に用を足さず、かといって、オスカーが接近戦に持ち込むと、あの右腕の圧倒的な握力で腕や肩を潰されてしまう。オスカーは既に左腕の二の腕と、上腕筋を握りつぶされ、利き腕しか使い物にならない状態に陥っていた。
「・・・下ろせ。オリヴィエ。獣化して片付ける。」
低くオスカーの喉が鳴った。
「前のときは、獣化したときの方が惨憺たる結果だったでしょうが。」
アタシは嫌な汗が背中に伝うのを感じながら、吐き捨てるように言う。そう、きっとあの「英雄」は、獣化した者相手に、最も効率よく働く力を持っているのだ。でなければ、あの時のオスカーとリュミエールのやりとりの説明がつかない。獣化する以前は同等の力関係だったのに、獣化してからは、リュミエールが圧倒的優位に立った。
「オリヴィエ。」
オスカーが、アタシを振り仰いで見上げる。アタシは、その硝子玉の光りに、『嫌だ。』と心中で抵抗する。知らず、オスカーの右腕を掴んでいる手に力が籠もる。
「オリヴィエ。分かるだろう。」
―嫌だ。
たとえ、あの時とは違ってヒト型で戦っても、オスカーとリュミエールの間に、圧倒的な力の差があると分かっていても。アタシの火炎や翼が役に立たなくても。・・・いや、だからこそ。
逸らすことを許さない瞳は、人より高い地位にいる人間特有の、自信に満ちて安定した色を宿していて。否応なしに、アタシを従わせようとする。
―嫌だ。
オスカーは、仕方なさそうに苦笑する。アタシは、その顔に、耐えられなくなって。オスカーを支えている腕を獣じみた腕力で持って引き上げて、もう使い物にならないオスカーの左肩の下に自分の腕を入れ、抱きしめて支える。ぶらりと力なく、垂れている手を掴んで、自分の頬に当てた。骨張った手の感触に、何故か泣きそうになる。仕方なさそうに苦笑したままに、男は器用に首を曲げて、アタシの唇の上に軽くキスする。子どもを宥めるようなソレに、アタシはほとんど胸中で絶叫し、強くその身体を抱きしめる。だけど。
「・・・オリヴィエ。」
胸に響く、男の決然とした声を聞く。
「分かってる。」
何も分かっちゃいない。だけど、その言葉しかアタシには返せない。リュミエールと十分に間合いを取った位置に、ゆっくりと、翼を大きく使って、舞い降りる。離したくないと抗う本能をねじ伏せて、オスカーの身体を解放する。頭半個分、見下ろすことになったアイスブルーは、猫の目のように細められて。
「俺の、ヴィルム。」
使える利き手がアタシの後頭部に伸ばされ、するりと髪を撫でる。何の感情か分からない気分が、胸に押し寄せてきて、圧迫感に息が詰まる。やがて、くるりと向けられた、背を睨みつけるようにしながら、アタシは、徐に天に両手を伸ばし、熱を集め始めた。コォォォォォ・・・と周囲の空気が歪む音。

―アタシ、・・・知ってた。

ありったけ集めてやる・・・と、心に決め、オスカーの背の向こう、白銀の長髪を睨み付ける。
「休憩は・・・・終わりですか?」
腹から声を張って、けれど、いつもの柔らかな印象を崩さぬ口調でリュミちゃんが、笑顔で問う。すらりと立ち、両腕で自分の身を緩く抱くようにする、その様は。その右手が化け物じみて太くなければ、吹けば飛ぶような頼りない存在に見える。見えるのに。
「あぁ。待たせたな。」
歩きながら応ずるのは、やはり腹の底から出されたニヒルな声。オスカーが口の片端をクィィ、と上げる様が脳裏にはっきりと浮かぶ。自身の真横にある何かを掴むかのような仕草で、右腕がまっすぐに伸ばされ、指の先から、ザワリ、ザワリとゆっくり獣化する。リュミちゃんの今の状態と同じく、獣化せずに、腕力だけを得ることが可能かどうか、試すつもりだ。ドキン、ドキン、と心臓が内側から、胸板を乱暴に叩く。ヴァサリ、と大きく翼を使って、1M程身体を浮かす。そのままゆっくりとした羽ばたきに切り替えて滞空する。掌の上のどでかい火の玉は、直径2Mは優に越えた。
見えるのは、構える様子もないリュミエール。まるで友人との待ち合わせに行くような気軽な歩き方で近づきながら、けど距離が縮むにつれ、確実に速度を上げるオスカー。掌が、溜め込んだことのない熱量を受けて、猛烈に痛い。だけど、まだ放つ訳にはいかない。もっと・・・そう、もっと。
グォォォォォ・・・
火炎は、周囲の空気を最早ちょっとした竜巻のような吸引力で巻き込み、けたたましい音を立てる。その音に被さるように、獣の右腕を前に振り出しながら、オスカーが走り始める。
「・・・・ァァァアアアアアアアアアッッッ!!」
疾駆するオスカーの攻撃が到達する直前を狙い、アタシは、リュミちゃんに向かって火炎を放つ!でかすぎる火炎を放った反動で、ドゥッと、掌から自分に向けて爆風が吹き上げる。
リュミちゃんは、右腕をやっと顔の前で構えると・・・全身を包み込む炎をその腕で防ぐ。信じられないことに、超度級の火炎攻撃を受けても、リュミちゃんの腕も身体も焼け焦げている様子は全く無い。が、当然、その勢いは防ぎきれず、火炎を受け止めながら、踏ん張っている身体ごと、後ろへ後ろへと、リュミちゃんの身体が後退していく。そこに、オスカーが炎の上から被さるように、右腕を繰り出す。狙ったのは、喉。炎が邪魔になって、オスカーの攻撃が見えなかったのだろう、リュミちゃんの細い首は、オスカーの銀色の右腕にあっけなく捕まる。アタシは、火炎の第二破を準備しながら、オスカーの右後ろに移動する。いつでも、オスカーの身体をかっさらって上空に待避できるように、1Mも地上から離れてはいない。上げた右手の掌は、さっきの爆風で火傷したように、腫れぼったいが、気にしている暇はない。
「グッ・・・クッ・・・。」
気道を塞がれ、リュミちゃんの眉根が苦しげに寄る。時間切れの火炎は急速に収まって、二人は視線を至近で絡ませていた。オスカーはリュミちゃんの首を乱暴に引き寄せると、
「やっと・・・。やっと、お前のそういう表情が見られたな。」
唇が付くような至近距離で、濃紺の瞳を覗き込むようにしながら、実に嬉しげに言った。
リュミちゃんの右腕が、震えながら、弱々しく、オスカーの右腕を剥がそうと伸ばされる。・・・と、その時。
「ガッァァアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
喉が引き攣れるような、絶叫は、オスカー。リュミちゃんの腕がオスカーの身体から離れる、と同時に、見たこともない勢いでオスカーの右肩から噴出する、赤い液体。
リュミエールが触った・・・いや、引き千切ったのは、オスカーの獣化した右腕。その場に頽れるオスカーの前で、ゲホゲホと噎せ込みながら、もぎ取った右腕を地面に捨て、両膝をつくリュミエール。ハァ、ハァ、と乱した息を整えつつ、オスカーに視線を戻し、
「ねぇ?」
噎せ返るような血の臭いに似合わない、涼やかな声を放つ。呼吸はたったの数秒で、すっかり整っていた。
観念したように、オスカーはごろりと仰向けになる。美しい男は、オスカーに近づくと、片膝をついて、顔を近づけた。銀髪が、さらりとオスカーの顔の脇に落ちて、周囲の血に染まる。アタシは呆然となっていた自分に気づき、慌てて地上に降りて、オスカーに駆け寄る。これでは完全にリュミエールの間合いの中だが、もうなんだか、何もかもがどうでも良いような気がして。アタシはリュミエールから取り上げるように、オスカーの上半身を抱え上げた。
「お前達も、英雄と呼ばれる私も、確かに、異形には違いない。お前も、そうは、思いませんか?」
アタシにじゃない。伏せられつつあるオスカーの瞳から、視線をそらさずにリュミエールは問うが、聞こえるわけがない。腕の中で、オスカーは荒い息で短い呼吸を繰り返すのが、やっと。
「ねぇ?可哀想に。」
リュミエールは構わず、オスカーの首に、その太い右腕を伸ばす。オスカーを胸の内に隠すようにしながら、アタシはリュミエールに背を晒す。
可哀想なのは、リュミちゃん、本当は、アンタなんでしょ?ヒトの世界で、ヒトの為に使われる、化け物と・・・。ヒトに駆逐される化け物と・・・。どっちがどれだけ不遇なのかなんて、アタシには、分からないけど。
「・・・可哀想に。」
なんの抑揚も見いだせない、悲しい声が、アタシの首筋を撫でる。リュミちゃんの細い左腕が、アタシを抱きしめ、もう一方の手が、アタシの首に巻き付く。やわりと優しく。けれど、段々と強く。

―アタシ、知ってた。
―アタシ、知ってた。

胸に抱く男をぎゅうと、抱え直す。

―この男に近づいたら、ろくなことないって。



―・・・知ってたわ。



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―・・・エ、・・・い。

「おい、起きろ。オリヴィエ。」
肩をやや乱暴に揺すられる。
瞼がやけに重たい。
当たり前か、死にかけてるんだから。ここが天国なら純白の美しい翼を生やした天使に優しく起こして欲しい。そう、甘い声で。
「おいっ!!いつまで寝てるつもりだっ!!」
「ッッ!?!?」
突然、アタシの微睡みを支えてくれていた、暖かな何かをはぎとられ、アタシは覚醒した。
視界に飛び込んで来たのは、苛ついた顔のオスカー。そして、厭味なくらいに透き通ったアイスブルー。
「やっと起きたか。この状況を説明しろ。」
鼻先がくっつくほどの距離で、ドアップになっていた顔を遠ざけながら、オスカーは唸った。『この状況』ですって?『どの状況』よ?と、アタシは寝ぼけている頭を起こすつもりで頭髪を掻き乱しながら、周囲を見回した。
大ぶりのベッドが二つ並んでいて、その間に立っているオスカー。オスカーの手にはおそらくアタシから剥ぎ取ったのであろう、羽毛布団。アタシはベッドの一つの上に座っていて。
その姿が、ベッドの足元方向にある、大鏡に映し出されていた。
普通のヒト型で、肩を包帯で巻いているほか、怪我らしい怪我は見えない。服はきていたが、頭や衣類は寝乱れていた。
ぽかん、とコチラを見ているのは、いつものアタシ。
「帰って来た・・・。」
思わず、アタシは小さく漏らす。
「?」
「帰って来た・・・・ィヤッホゥッッ!帰って来たァッ!!」
バッ、とオスカーを振り返るが、返された視線は『お前?大丈夫か??』で。そんなのはお構いなしに、アタシはオスカーの腰の辺りに奴が持っていた布団ごと、ギュッ!!と思い切り抱き付いた。
抱き付かれた勢いを器用に殺しながら、男は頭をバリバリと掻き、
「何を寝ぼけてるんだ、お前は・・・。」
と、ため息交じりに漏らした。

--

オスカーの話によると、オスカーにはアタシと「外」で出会って、一緒に飲んだまでの記憶があるらしい。よくは分からないが、そのまま二人で酔い潰れ、ホテルでツイン取って、一夜を明かしたのではないか、というのが、まぁ状況から推測される、尤も妥当と思われる線で。
結局今日の朝の会議に二人して遅刻する羽目になり、勿論、首座の守護聖殿からきっちりと説教を食らい。
あんだけ一所懸命に熱弁をふるわせておいて、ホント申し訳ないんだけど。生憎『守護聖としての自覚』も『宇宙の支柱たる者の行動規範』も、やっぱ水が合わなそうなアタシは、聞くだけ聞いて、聞き流してしまっていた。

ジュリアスの説教部屋から帰りがてら。そーだ☆良いこと考えた!と思いつき、そのままルヴァの執務室に進路を変える。私邸に帰ったら謹慎するんだし、私邸に帰るついでに寄り道するくらい、いいわよね、とアタシは自分の思いつきに、うんうん、と頷く。

ノックを二回。
「・・・どうぞぉ。」
やや間があってから、ルヴァの寝ぼけた・・・うーん、言い直すなら、ほんわかした返事が返ってきた。アタシは小さくその執務室のドアを開き、擦り抜けるようにして中に入る。
「おや、オリヴィエ。どうしました?」
ルヴァは読んでいたらしい本をデスクの上に積み上げて、ニコニコとこちらに穏やかな視線をよこす。あー、なんだろう、この安心感。妙に癒されるわ。特に今日は。
「あのさ、例の狼の発禁本の件だけど。」
なんとなしに、視線を落としつつ、切り出すと。
「あぁ、今まさに読んでいたところです。貴方も興味があるんですかぁ?」
おや、奇遇、とばかりに、先程まで手にしていた本を取って、ルヴァは軽く持ち上げてみせた。小さく首を傾げられ、
「うん。ちょっと貸して。」
とアタシもにっこり笑ってみせる。
その分厚い、題名のない革本をぺらり、とめくると、翼の生えた大蛇のような挿絵が描かれていた。中をパラパラと適当にめくる。やはり英雄と怪物との争いについて、書かれていた。
ヒエロトを襲う人狼グレンデルと、ヴィルムという名の、翼の生えたドラゴン。グレンデルの死と、英雄ベーオウルフの活躍。最後は数々の活躍の後、ヴィルムとの死闘によって訪れる英雄の死で、物語は閉じられていた。
「ありがと。」
アタシはものの2、3分だけそれを立ち読みして閉じ、軽く吐息をついてから、ルヴァに返す。
「もういいんですか?」
少し驚いたように、ルヴァは言った。
「えぇ。結末だけ知りたかったの。ありがと。」
これで彼奴を慰める理屈もできた。

慰めるってーと・・・あーぁ、しまった。謹慎なんだっけ・・・。とは思いつつも、アタシは自分の私邸に向かいながら、今夜持参するワインの銘柄を考え始めていた。

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オスカーの私邸に到着すると、応接間に通された。そういや、この家を訪ねるのって初めてだわ、と調度品を見回す。
ちゃらちゃらしている割に、家の中は随分質素に纏められている。もっと言えば、地味すぎる。仕事虫とか忠犬ってこと考えれば、まぁ普通と言えば普通なんだろうけど。
程なくして、応接間の扉が開いた。
訪問者が誰であるかは、事前に聞いていただろうに、男はちょっと吃驚したように、一瞬目を見開き。それから、フッ、と伏し目がちにして、笑ってみせた。
よく見る私服姿より、ほんの少しラフな感じがするのは、おそらく焦げ茶のスラックスの上に白シャツ一枚で、アクセサリーも、例のピアス以外、何も身につけていないから。あえて言えば、黒い細革のベルトが二重に腰に巻かれているのがアクセサリーと言えば、言えないこともない。
着こなしは、いつも通りの「ざっくり」だったが、今日のシャツはウェストラインが少し絞られていて、胸元が開いているだけでなく、胸板から腰のラインが強調されている。これじゃ女だけじゃなく、男まで射程に入ってしまうンじゃないの、とからかってやりたくなる。勿論、本人にそのつもりはないだろうが。
向かいのソファに向かって、大股で移動するオスカーに、持ってきた包みをわずかに持ち上げて、
「お酒があるんだけど?」
とウィンクしてみせる。
「ハッ、お前も懲りないな、昨日の今日で。」
笑いながら、側に控えた家人を振り返る。何も聞かずに、家人は一礼して下がった。
「別に嫌ならアタシだけで飲むけど?」
瞳を眇めながら、片眉を上げてみせると、
「付き合うぜ?一本だけならな。」
と、向こうもソファに身体を預けながら意地悪く笑う。
塩気の濃いチーズやクラッカー、キャビアなんかをつまみながら、お酒メインで飲む。あっちのオスカーと過ごしたのと、なんら変わらなかった。時折、突き刺すような獣じみた視線を放つ瞳。それが細められた時の、妙なアンバランスも。食べてるものと、着ているものの水準が、エライ違いではあるけれど。
こっちのオスカーと二人で飲むのは、初めてなはず・・・にも関わらず、まるで随分前から、二人で過ごしてきたような気がする。どうやらアタシの中のこの男は、あの野獣と境目が曖昧みたいで。
一本だけ、という約束がどうなったか知らないが、オスカーの持ち出しで追加された酒が一本、二本、と空になり。やがて、オスカーはソファで眠たそうに、そのアイスブルーを瞼の奥にしまった。

アタシはその隣に移動して、その瞼の上に掌を翳す。
「・・・居るんでしょ?オスカー・・・。」
呼びかけに返事があるかどうかは、賭けだった。
「どうして、こんなトコに迷い込んじゃったの、アンタ。」
ねぇ?あの本に、くっついて来ちゃったの?
問いかけに、
『グ、ルル・・・。』
と、人狼の微かな呻きが返る。
『カタキ、ヲ・・・。ウタナ、ケ、レバ・・・。』
掌の下で、眉間に、これ以上ないくらいの深い皺が刻まれる。
またアタシが襲われた夜のように、獣人化するかもしれない、とアタシは内心で、同程度の傷を負う覚悟を決める。
「ベーオウルフなら、もう随分前に死んだわよ?」
『嘘ダッッ!!俺ハ・・・俺ガ・・・ッッ。』
ソファの上で脱力していたはずのオスカーの両腕の血管が浮き上がり、ブルブルと、細かく痙攣し始める。
悔しかったでしょう、長いこと。思念の固まりになってまで、忘れられない屈辱を受けて。
「アタシが、殺ったわ。確かに。この手で。」
『オ前・・・ガッッ?』
「えぇ、アンタのヴィルムが。」
アンタと過ごした時間、短かったけど悪くなかったわよ。
痙攣が収まり、オスカーの表情が段々と安らかな寝顔になっていく。
『・・・・・・オリヴィエ。』
あら。名前、覚えててくれたの。
「だから。もう、・・・おやすみ。」
しゃらりと、鮮やかな前髪を指先で梳く。
良い夢を永遠に見続けられるよう、祈ってるわ。

掌に、一瞬。あの堅い毛が触れた感触がして。やがて、耳の奥に遠吠えが小さく木霊する。

「もう二度と、目を覚ましちゃ駄目よ・・・。」
翼でも火炎魔法でも夢のサクリアでも。アタシが使える力は、あげるから。
・・・ふと、オスカーの前髪を弄んでいた手を、むんずと掴まれる。
「・・・縁起でもないことを言ってくれるじゃないか・・・。」
さっきの安らかな寝顔はどこへやら、下から凶暴な視線で私を睨み上げ、額に青筋たてた男は、握り込んだアタシの掌に、更に握力を加えた。
「ちょっっ!!ィタダダダダダダッッッ!!なんっって事すんのよっ!!!今のはアンタに言ったんじゃないってばっっ!!」
信じられない痛みに悲鳴を上げる。
「ほぅ、二人きりで飲んで、この至近距離で俺以外のいったい誰に向かって言ったというんだ?ゆっくり聞かせてもらおうじゃないかっ!」
更にそれを捻り上げられ。アタシはほんの僅か、目頭に涙が滲むのを感じた。
「何、涙目になってんだ?お前。」
硝子玉は、興ざめしちまった、とばかりに細められる。ぽい、と掴まれた手がぞんざいに捨てられて。
「痛いからでしょうがっ!!」
捨てられた掌を、やや大袈裟にふうふうと吐息で冷ましながら、アタシは胸の奥深く、遠雷を聞いた。
ザァザァと耳に痛いのは、湖面に叩きつける、大粒のスコール。
「寝たら覚めてきた。もう一本だけ空けて、今日は終わりにするか。」
「はぁっ?!まだ飲むの?!」
呆れて振り返るアタシに、隣でソファに身体を預け、ほとんど寝転がったままに、まるでフォトグラファー相手にポージングでもして見せるかの如く、気障な態度で、男は節くれだった長い人差し指を自分の頬の辺りにかけて言う。
「要は明日に響かなけりゃ良いんだ。嫌ならいいぜ?締めだから良いヤツを開けたいしな。お前には勿体ないってヤツだ。・・・だろ?」
台詞の終わり際、ニヤッ、と器用に片眉を吊り上げて笑ってみせる。
挑戦的に光るのは。

あの、飢えたケダモノの、瞳。



雨はまだ・・・止む気配がない。


終。


参考文献(タイトル順)
『古英語叙事詩 ベーオウルフ 対訳版』苅部恒徳&小山良一(編著), 研究社, 2007, 東京.
『サトクリフ・オリジナル7 ベーオウルフ 妖怪と竜と英雄の物語』ローズマリ・サトクリフ, 井辻朱美訳, 原書房, 2002, 東京.
『中世イギリス英雄叙事詩 ベーオウルフ』作者不詳, 忍足欣四郎訳, 岩波書店, 1990, 東京.
『ベーオウルフ』作者不詳, 小川和彦訳, 武蔵野書房, 1993, 東京.
『ベーオウルフ 附 フィンネスブルグ争乱断章』作者不詳, 長埜盛訳, 吾妻書房, 1977, 東京.
『ベーオウルフ -Beowulf- Dragon Slayer』ローズマリー・サトクリフ, 井辻朱美訳, 沖積舎, 1990, 東京.
『ベオウルフ -呪われし勇者-』ケイトリン・R・キアナン, 倉田真木訳, 小学館文庫, 2007, 東京.
『機械としての王』ジャン=マリー・アポストリデス, 水林章(訳), みすず書房, 1996, 東京.


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