4章:夢の続きを



カーテンを思い切り勢いよく開く。
朝の陽光がベッドの白いシーツやら布団やらに跳ね返り、それまで薄暗かった部屋は突然明るい別世界になる。
「・・・んん。」
ベッドにいつものように潜り込んだ男は、僅かに赤い頭髪を布団から覗かせている。
近寄って、俺は上からそれを覗き込む。布団を無理やり引っ剥がしたら怒号が飛ぶ。ので、いつもは大きな声で上から名を呼ぶのだが・・・それはそれで、効率が悪いこと極まりない。
俺は、顔だけでも布団から出させることに成功すれば、瞼が焼けて、少しは目が覚めるはずだが・・・と、
「オスカー様!起きて下さいっっ!!」
声をかけながら、布団の縁をぐっと、首元に向かって押し下げる。
「うぅ・・・。」
男は唸り声を上げ、これ以上ないくらいに眉を不機嫌そうに寄せる。顔が窓からの光をよけて、こちらを向いた。耳につけられたピアスが、身体の動きに合わせて揺れる。
目を開いてないと、この男は別人だな、と思う。少なくとも見た目は俺より年下なその男は、目を瞑って、髪を乱していると、より幼く見えて。これがあの鋭い眼光を放って不敵に笑う、あの生物とはとても思えない。
そこらの顔が良いだけが取り柄のストリートキッズを拾ってきて、ここに寝かせても、大した違いは見出せないだろう。

俺はベッドの縁に両手を沿えて、その脇にしゃがみこむと、自分の顔をその顔の正面に近づけて、
「お・き・て・く・だ・さ・い!!」
と腹の底からデカイ声を出し、剣呑な口調で言ってやった。
ぐぐっ、と一度瞼が強く閉じられて皺が寄る。あーあ。目許に皺寄せると早く老けるぜ・・・と俺はため息をつく。
そのまま暫く待つと、やっと、じわ、と極薄く。その重たすぎる瞼が開き、中の薄い色の瞳が顔を覗かせる。
「ん・・・。」
ごそごそと、手が布団の中から伸ばされて、俺の肩にかけられた。鼻先を擦り寄せるようにして、その寝ぼけ眼の顔がずりずりと俺の身体に近づいてくる。
ふーん、もう効果が出てるのか。
と、俺は思った。が、今ここでそれに気づかれるのも不味い。
「オスカー様?」
俺は鼻を擽る赤い髪の攻撃に耐えながら、再び態とらしく大きな声を上げる。
寝ぼけ眼の男は、
「んー・・・。」
と声を上げながら、どこに鼻を擦り付けているのか、ようやっと気づいたらしく、突然。
「ぬあ!?」
と、大きすぎる悲鳴を上げて、飛びのいた。勢い余って飛びのき過ぎ、身体に巻き付けていた布団ごと、ベッドの向こう側に転落する。
俺はそれを視界の端で捉えつつ、苦笑しながら、
「どなたかとお間違いじゃないですか?」
と声をかけ、男の視線がこちらを向くのを待って、朝食の毒味を始める。目はすっかり覚めたらしい。これは便利だ。いつもなら、身体が起きていても頭が寝ている、ということがしょっちゅうだからな。
そんなんで戦場では大丈夫なんですか、と尋ねたことがあるが、状況によって別の回路が働くらしい。どうにも野生動物じみた性質だが、どうやらそれは周囲の話からもはったりではなく、本当らしい。
しかし、ということは。この男にとっては、安心できるテリトリーに、俺は含まれているという訳だ。少なくとも、あの風呂の一件のように、俺が殺意を剥き出しにしない限りにおいては。
「なんで寝室(ここ)に朝食(メシ)が・・・。」
男は、乱れた頭髪を更に引っ掻き回して乱しながら、ベッドの向こう側で隠れるようにして枕元に用意してあったガウンを身につけ、朝食の席についた。
「オスカー様が『明日はいつもより早いから部屋で摂る』とおっしゃったんですよ?」
俺はフレッシュジュースを注ぎながら、やれやれ、と溜め息をついた。
「だっけか。・・・スケジュール。」
言語になりきってないコマンドに、俺は、
「本日0800(マルハチマルマル)、銀砂の惑星の使節と事前面談。0900、朝の定例会議、0930、・・・」
と、順番に諳じている今日の午前のスケジュールを告げた。
「銀砂の惑星の資料は目を通したんだが、プリントしたやつ、俺どうした?」
俺どうした?には、最初のうちは「そんなの知りませんよ」と返していたのだが。
「プリントされていた資料は、同じものを俺も出力して持ってます。今確認なさいますか。」
最近は、いちいちプリント履歴や閲覧履歴をフォローしてから上がる癖をつけている。
「いや、あるならいい。」
手早く、ぞんざいな手つきでサラダを口に運びながら、男は目を瞑る。食堂では、行儀が際立って良いとまではいかないが、少なくともこんな態度で食事をすることはない。おそらく、地が出ているのだろう。軍人の家系と聞いたから、さぞ躾は厳しかったはずだが。いや、意識しないと、食事を短い時間で取る癖は、士官学校生活で身についたモノかもしれない。
「使節の奴らのプロファイル、洗ったか?」
「ええ。手に入る情報の範囲では、問題点はありません。敢えて言えば、少しアポが突然過ぎたのが気になってます。立ち会いは、通常警備体制ですから、会議室の中はオスカー様、先方、俺だけになります。気を付けて下さい。」
俺が少しだけ声のトーンを落として言うと、それまで目を瞑ったままに顎を動かしていた男は、くい、と片眉と口の端を器用にあげて、俺を見上げ、
「俺を・・・。」
と、フォークの先をこちらに向けながら言いかけて、何かを思い出したかのように、途中で固まった。
「いや・・・分かった。気を付ける。」
フォークの先をくるり、と回してまた前を向き直って食事を続ける。
『俺を誰だと思ってる?』・・・だろ?
と俺は内心肩を竦める。
「・・・カプチーノと眠気覚ましの、アレ。」
内心で竦めた俺の肩が見えたはずはないが、男は憮然とした声で、まるで拗ねた子供のように、どこか他所を向いて言い。俺は苦笑しながらポケットから例のドロップを出してテーブルに置くと、カプチーノメーカに牛乳を注ぐため、その傍らを離れた。

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この執務室を私が訪れるのは、かなり珍しいことだと自分でも思う。土の曜日に特に何もなければ会うことが決まっており、こちらの都合で時間が取れない場合は、屋敷の裏口を閉めておくので、わざわざ事前に連絡はしない。
通信の類いは足がつくので利用したくないし、その為だけにここに顔を出すのも面倒だからだ。何か公務で必要があれば、私の執務室に呼び出してついでに私用を済ますことはあるが。
翻って、オスカーはと言えば、大体その曜日に予定が入っている場合は事前に私の執務室に顔を出す。尤も、それというのも、何も連絡せずに来なかった時に、酷い目に合ったのを気にしての行動かもしれない。
兎に角、自然、向こうがこちらの執務室に顔を出すことはあっても、こちらがこの執務室に顔を出すことはほとんどなくなる、という訳だ。

コツコツ、と素早くノックをして、返事を待たずに中に入った。
扉を開くと同時に、例の香りが鼻を刺す。
どんどん、酷くなっている・・・。私は嫌な予感に追い立てられるようにして、素早く執務机までの距離を詰める。
男はちら、と携帯端末(※A5版程度の軽量端末)にやっていた視線を上げて、訪問者が私であることを認めると、無言でディスプレイに視線を戻した。
「秘書は?」
と、見当たらない男の居場所を、ディスプレイを注視したまま一向にこちらの用事を聞く気配のない男に、私は短く、唐突に聞いた。
「次からは、返事を待ってから入れ。今仕事中だ。急ぎか?」
ディスプレイに目を落としたままに、男はこちらの質問を無視して憮然と聞く。急ぎの公務があるらしいその男の間の悪さに、私は些か苛ついた。
「急ぎです。秘書は?」
もう一度聞くと、私の固い声に少しだけ意外そうな表情をして、男はやっと視線をこちらのそれと絡ませた。
かち合った瞳が、彼が微睡んでいる時のように鈍く光った気がして、私はクラヴィス様に気付かされた胸の詰まりが、なんだかやけに、大きな痼になったような感覚を覚える。
馬鹿な・・・情報端末を長時間見つめれば、この男の眼光も、多少は鈍るというものだ。
「・・・。リュウなら今は研究院に行かせてる。図書館に寄って戻ってくるはずだが。それが??」
公務を邪魔されている苛立ちを隠さずに男はほとんど噛み付くようにして言う。
「暫くは帰って来ないのですね?会話を、彼に聞かれたくない。・・・この、酷い香りの正体は分かりましたか?」
オスカーは、少しだけ眉を寄せ、困ったような、拗ねたような、微妙な顔をして、ふい、と視線を逸らした。
「この距離でも香るのか?それについては分かってない。」
・・・『それについては』?
「えぇ、この部屋中にね。どんどん酷くなってます。で?何については分かってるんです?」
腕を組んで、苛立ちから私も明後日を向いて言った。「秘書に聞かれたくない」という私の台詞に異議を唱えない時点で、秘書の行動をオスカーも疑問視している、ということを認めたも同然だ。
何故、そんな事態を放って置いている?この仕事虫が、そんな事態を快く思うはずもあるまいに。
「まだ、よくわからん。最近少しずつ、身体がだるくなっているような気がする。だがそれも関係あることかどうかわからんしな。」
まるでどうでもいい他人事のように、淡泊な声で男は言った。
「命を狙われている可能性は?動機なら十分あるでしょう。」
私は半ば呆れ返って、もう一度その緋色の頭を視界に収め、吐き出すようにして言った。わからん?少なくとも、わからんで済ませられる状況かどうかは分かっているという意味だろうな?という思いで。
「その可能性もある。だが、あまり疑いたくない。」
・・・っ?!
「何を寝惚けた事を・・・。」
私は軽い目眩を覚え、額を指先で押さえた。
「賭けるか?」
男はフッ、と面白げに笑ってから、こちらを悪戯っぽく見上げてくる。
「賭代(かけしろ)は、貴方の命ですか?随分と安くなったものですね。」
その不敵な視線を上から眺め、額にかけた指を下ろし、忌ま忌ましく言い捨てた。
「・・・怒ってるのか?」
男は不敵な笑いをひっこめて、不満そうに視線を下ろした。
怒ってるのか、だと?
何を訳の分からないことを。そんな話をしているのでは・・・と苛立ちが沸点に達するかと思ったところで、
『お前なら・・・大丈夫だと、思うが。』
という闇の守護聖の声が胸に響いた。
・・・確かに、らしくもなく熱くなっているな・・・。と一度息をはっ、と一気に吐き出し、ゆっくりと髪を掻き上げる。ばさばさと後ろ髪まで乱暴に揉んでから、
「いつから・・・、そんなに私に甘えるようになったんです?」
と厭味にせせら嗤ってやる。
「お前に甘えてるだと?俺が?」
案の定、鋭い光を一瞬にして取り戻し、冷徹な響きで男が唸るのを聞き流し、
「いいですか?だるさの件は知りませんが、香りの正体は必ず突き止めて下さい。私も調べます。」
私も真剣さを取り戻して、その視線の鋭さを突き返すつもりで瞳の奥を見下ろす。
「なんでもいい。身に付けているものをよこして下さい。」
掌を上にむけて、ぞんざいに男に向けて差し出す。香りの成分を調べたかった。たしか香り関係はオリヴィエが強いのではなかったか。
「なんでもいいと言ったって、なんにでもその香りがついてる訳じゃあるまい。」
男は面食らったような顔で言ったが、本人が気づいていないだけだ。
私はこれだから、とばかりに、片手を執務机について、差し出した腕を更にデスク越しに伸ばし、ほとんどくっつけるつもりで、その鼻先に指先を突き出す。
「なんでもいいと言ってるでしょう。時間がないと言う割に手間をとらせる人ですね?」
男はその指の先を胡散臭そうな顔でじっと見てから、ごそごそと、ハンカチーフを取り出して、私の手の上に置いた。
「頂いていきます。」
私はそれを握り込んで、その顔の前に自分の顔を突き出すようにしていってやってから、一気に身体を翻す。頭髪が身体の動きに合わせて撓った。
「おい・・・待て、よ。」
後ろから、珍しく、声を発しながらも未だに声をかけるか迷っているような、中途半端な勢いで声がかかる。私は振り返らずに足を止めた。
「次の時には・・・アレ。いい加減外せ・・・。」
聞き取れるギリギリの声でオスカーは呟いた。振り向いて置けばよかったな、さぞかし珍しい顔をしているに違いないのに、と私は小さく苦笑して、
「外しますよ。約束して差し上げます。ただし、件のホームワークが終わったら・・・ですが。」
私は後ろを向いたまま、片手を軽くあげて言い、今度こそ部屋を出た。

執務室前の廊下を歩きながら、私は憤っている自分を止められずにいた。
なんなんだ、あの腑抜けっぷりは。
いつの間に、あんな風になった?土の曜日に会っている時は気付かなかった。少なくとも香り以外のことで気になることは何もなかったというのに。
窓から差し込む陽光と大きな窓枠が、廊下の赤絨毯に平行四辺形のチェック模様を作っていた。私はその十字の上で立ち止まる。
「みて、いないということか。」
唇に指の感触がして、知らず、指先を口元に当てたことに気付く。なんとはなしに、もう片方の腕が、自分の腰をそっと抱く。
脳裏に、あの秘書がヒステリックな嗤い声を上げ、嘲っているイメージが閃いて。奥歯を、一度。
ぐ・・・と噛み締めた。

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床には、何もなかった。ただ、俺は席を立って、執務室の外に出ようとした。それだけだった。が。

がたん!!

大げさな音が鳴って、俺はうまく席を立てずに、バランスを崩し、こけかける。
たまたま執務机の前にいたリュウは、
「あぶないっ!」
とその長い腕を机越しに伸ばして俺の腕を掴み、支える。
「あ?・・・す、すまん。」
一瞬、身体が重たくなるような違和感があって、今の無様な事態を呼んだ訳だが、今この瞬間は、身体はなんともなかった。なんだったんだ。今の・・・。
「疲れてらっしゃるのでは?ここのところ、朝早いお仕事が続いています。」
と、リュウが俺の身体の前に回って、俺の両腕をやんわりと掴み直し、イスに座らせる。確かに朝早いのが続いた。・・・続いたが。
目を、俺の目の高さまで落とされて、俺はなんだか居心地が悪くなり、視線をそらした。
「なんでもない。一瞬、ちょっと身体に違和感が。今はホントに、なんでもないんだ。」
俺は小さく息をついた。が、不意に。リュウの身体から、何かが立ち上るような気配を感じて、そちらを振り返った。
「どうしました?」
どこかとぼけたような顔が、首を傾げて、俺を見る。顔が、近い。俺の目の下に、立ち襟の制服から僅かに除く、首筋があった。
「オスカー様?」
少しだけ、震えたような声音に、はっと我に返る。
俺は、いつの間にか、ほとんどリュウの首筋に埋めていた頭を上げて、両腕を使ってリュウを遠ざけた。
「な、なんでもないっ。」
声が掠れて、若干裏返り。「なんでもな」くないと、相手に知られる気がして、俺は羞恥にかっと頭に血を上らせる。
なんだなんだ?今のはなんだ?
俺は自分自身の脳みそが混乱して明後日の方向にブンブン回るのを感じた。
リュウは、クス、と鼻で小さく笑ってから、
「お疲れなんですよ。眠いのでは?」
と、いつものドロップを執務机の上に置いた。俺は、それをじっと見つめて。
「あ、あぁ。もらっとく。」
と、それをいつものようにすぐには口に運ばず、ポケットにしまった。

今のは、流石に、おかしい。
考えられるのは・・・「コレ」ぐらいだ。
俺は、惚けたようにイスに座り込んで。立ち上がって背を向けた長身の男の、大きな背中を見てから、ゆっくりと目を瞑った。
コレから、何か出たら。
俺は一体、此奴をどうしようというのだろう。

・・・分からん。

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「エルンスト。突然すまないな。」
在室中は大方開けっ放しにされている戸を軽く叩いて、俺はエルンストの仕事部屋に踏み居る。
「これは!オスカー様。どうしました?」
エルンストは、仕事に夢中になっていたらしい頭を俺の声にびく、と跳ね上げ、俺の姿を認めるやいなや、勢いよく席を立った。
「慌てるこたぁない。ちょっとした、オネガイがあってな。」
と、俺は扉を後ろ手に閉める。
エルンストは片手をデスクに付きながら、デスクの脇に回った。
「お願い・・・ですか?」
困ったような瞳が、眼鏡の奥で曇る。エルンストにはそんなに無茶な冗談とかやってないと思うのだが。どうも、俺の「オネガイ」は評判がよくないらしいな、と俺はその顔に失笑してから、顔を引き締め直して、エルンストに近づいた。
ほとんど、身体をくっつけるようにして、例のドロップの袋を奴の胸に当てる。
「極秘に。こいつを調べてくれ。」
エルンストの肩に顔を突き出して、囁くように、出来る限り小さな声で言う。
「は、はぁ。」
と、エルンストは「事態がよく飲み込めませんね」というような間抜けな声を出しながら、それをぎこちない手つきで受け取る。
「成分だけで良い。これが普通の飴玉なら、それでいいんだが。」
と、俺はその体勢のまま、小さな声で言い。身体を離して、少し笑った。エルンストは、「普通の飴玉」でない可能性があると知らされて、
「分かりました。」
と、眼鏡の奥にいつもの頑ななまでに生真面目な光りを宿らせる。
「原型を止めておく必要はありますか?」
「破壊検査(「ブツを割ったり砕いたり、溶解させたりして行う検査」の意)か?問題ない。好きにしてくれ。」
それだけを確認し、出所などを、聞く気配もなく、エルンストはデスクの後ろの大きな書棚から小さなクリアパックをひとつ取り出し、まるで何かの証拠品か遺留品のように、それを丁寧にしまって、デスクの上に置いた。

隅々まで、徹底的に調べてくれるはずだ。此奴なら。
俺は、果たしてそれを期待しているのだろうか?
いや。おそらく、口の堅さでこいつを選んだだけだ。

何も、出るなよ・・・・。
何に祈ったのかは、自分でもよく分からなかったが。
俺は何者かに祈った。

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「なぁに?怖い顔しちゃって。」
んふふ、と艶やかに笑いながら、オリヴィエは私を迎えた。
「執務室ではマズイと思ったので、私邸(こちら)に来ました。少し、聞きたいことがあるのです。・・・すみませんが、人払いをしてもらえませんか。」
呟くような声で早口に告げながら、私はオリヴィエの瞳をまっすぐにみた。視線が絡み合うと同時に、オリヴィエの纏っているいつもの柔らかな空気が、些か緊張したものにかわる。
「ん。わかった。」
短く答えて、オリヴィエは応接室に私を迎え入れながら、家人に人払いを頼んだ。
派手なヒョウ柄のソファに腰を下ろしながら、
「それで?どしたの?」
と、緊張した雰囲気を和らげるためか、もう一度笑みを浮かべて、こちらに視線を投げる。私は、オスカーのハンカチーフを、ソファに対して低すぎるガラス張りのテーブルの上に乗せ、つい、と指先でオリヴィエの方に押し出した。
怪訝そうに、眉を上げるオリヴィエに、
「貴方は、香水などに詳しかったでしょう?私も香り関係の知識は自信があるのですが、今回ばかりはどうも私の守備範囲外のようで。」
話の邪魔をするかのように、前に落ちてきた髪を耳にかけて、一度息を付いてから、一気に本題に入った。
「この香りの正体を知りたいのです。研究院の成分分析用のブースを一つ借りて、色々と試しましたし、図書館のマルチメディア辞典でも嗅覚検索したのですが、どうも植物の香りを模したケミカル系(「人為的に合成された物質」程度の意味)のもののようなのです。」
私は、苛ついた気持ちを隠せないままに、早口に言った。オリヴィエは、怪訝そうな顔のままに、それを指先でつまみ上げて、香りを確かめるように、一度もう片方の手で軽く仰ぐ。
まるで化学者のようだな、と私はその仕草を意外に思った。
と、怪訝そうに寄せられた眉が、その香りを確かめるや否や、驚きのそれに代わる。
「ちょ・・・・っと、リュミちゃん。アンタこんな物騒なモノ、どうしたの?」
物騒な、モノ?
私は、自分の喉が勝手に一度ごくり、と鳴るのを聞いた。チリ、と緊張がこめかみを抜ける。
「物騒な?どういう意味です?」
意味がわからず、ぐっと膝の上の拳を握りしめて聞き返す私に、一瞬逡巡するような表情をしてから、オリヴィエはハンカチーフを、テーブルの上に放りだし、髪を乱暴に掻き上げた。
「『薔薇の夢』・・・って知るわけ、ないよね。主星で一時期流行ったドラッグよ。その、香り。正確にはドラッグそのものの香りじゃなくて、それに冒された人間から、この香りがするんだけど。」
オスカーの微睡んだような瞳が、不意に眼前にフラッシュバックする。
「ドラッグ・・・。中毒性は、高いのですか。致死性は?」
「それが、このドラッグって普通のと違って、ストレス発散に効くって言われてるだけで、摂取しても、最初のうちはちょっとした眠気覚ましくらいの効果しかないのよ。バッドトリップもハイもなし。だから、結構な量を摂取してもそんなに実害は出ないんだけど・・・。」
オリヴィエは、口を噤んで、どこか明後日の方向を見てから、続けた。
「中毒性は、高いわ。すごく。短い期間でも、それを断つと、一気に禁断症状が吹き出す。アタシもあんまり詳しくないけど。身体に倦怠感がでたりとか。禁断症状があんまりひどいと、まあ、自殺とか、半狂乱になって事故死、とかもありえるとは思うけど、薬そのものの作用で死ぬってのはあんまり聞いたことがないわ。」
「・・・・。」
「・・・で?『コレ』は、『ダレ』が身につけていた訳?」
およそ、普段の彼に似合わない、刺すような真剣な眼差し。勘の良い彼に相談することを決心した時点で、私はこのことを打ち明ける心づもりで来た。
「オスカーです。」
オリヴィエは、「最悪な予想が的中したわ」とでも言うように、大して驚いた様子もなく、苦虫をかみつぶしたような表情で自分の華奢な両肩を抱いた。
「あんの、・・・すっとこどっこい。」
綺麗にルージュを引かれた唇が、吐き捨てるように低く呟く。
「問題は、どこで摂取しているか、ですね。」
私もため息をつきながら、思わず吐き捨てるような、乱暴な口調になる。ここにオリヴィエが居なかったら「あの馬鹿が、」と主語を付けてやりたいくらいだ。
「心当たりは?」
その言葉に、反射的に、ふ、と場に不釣り合いな笑いが漏れてしまった。それに呼応するかのように、くい、と片方の眉を上げて、
「なによ?」
と、ふてくされたような声がかかる。
「いえ、本当にオリヴィエは律儀な人だと、そう思っただけです。」
と、にこ、と軽く笑いかけると、オリヴィエは、そんな褒められ方されてもね、と他所を向いて乾いた笑いを発した。
「おそらく、オスカーの秘書が彼に、なんらかの方法で摂取させているんだと思います。」
真面目な顔へと引き締めて、私はテーブルの上のハンカチーフを睨んだ。オリヴィエは、ちょっとだけ意外そうに目を丸くして、自分の肩を抱いていた腕を、組んだ膝の上で緩く組み直して言う。
「そりゃ、兄の敵・・・とかって逆恨みすれば、動機は彼にはあるでしょうけど。証拠は?」
「そんなもの、ありません。ただの勘です。」
私は、挑戦的に笑って少しだけ前傾になった体勢から、オリヴィエの瞳を見上げた。
ただの、勘。
私も大概、あの男に影響されているのかもしれない。闇の方の予報でもない限り、勘などあまり信じたくはないが。
「勘・・・ねぇ。とりあえず、秘書がもし、そんなことをやってるにしろ、なんにしろ。証拠がないと、こっちも動きようがないわね。闇雲に動いて、証拠隠滅されても困るし。まずは、言い逃れようのない証拠探し・・・かな。あるいは・・・現行犯逮捕。」
面倒なことに巻き込まれちゃったわね、とどこか諦めたような顔つきで、深いため息をつきながら、オリヴィエは豊かな頭髪を揺らし、頭を振った。
私は、その提案に頷き返しながら、顎に指先を当ててテーブルを突き抜けたどこか遠くを眺めて。ふと、わき上がってきた疑問を問いかけてみることにした。
「もし彼が犯人だとして。狙いは、なんだと思いますか?」
「リュミちゃんの中では、犯人は彼で決定してる訳ね。」
と、オリヴィエは仕方なさそうに苦笑して、肩を小さく竦めながら、
「そうねぇ。「オスカーを薬で釣ってコントロールしようとしてる」とかかな。」
首を傾げるようにして言って、自分で言った台詞にげんなりしたように、舌を出す。
だが、それでは・・・傷つくのはオスカーのプライドや、身体だろう。秘書の狙いは本当にオスカーなのだろうか。クラヴィス様は、傷つくのは本人とは限らない、と仰った。オスカーは傷ついても、すぐに立ち直ってしまう。それこそ、本気で殺してしまえば、立ち直ることなどできはしないが。秘書はそれを狙っている?
あるいは・・・。
「リュミちゃんなら、オスカーをぶっ殺したいほど憎かったら、どんなことするの?実際に、ぶっ殺す以外でさ。」
あんまり気が進まないけど、という口調で、機械的に聞かれ。
オスカーを貶めるのは、意外と難しい。力で支配しても、精神で支配しても、彼はそのうち、立ち直ってしまうだろう。秘書がオスカーの性格を知っていれば、それに気づくはずだ。で、あるなら・・・だ。
「私なら、彼の周りの人間を、傷つけます。それも、その人が一生立ち直れないような。そういう・・・傷を付けます。」
淡々と、出てきた結論をほとんど無意識に紡いでから、おっとしまった。オリヴィエの前だというのに、少し油断しすぎたな、と脳裏を自戒の念が過ぎる。
「そうでしょうね。アタシでも、そうする。」
オリヴィエは、私の発言を全く気にした様子もなく、明るく「ハッ」と一度高く笑い上げて、クス、と自嘲気味に笑いなおし、目を伏せた。
「だとするなら。狙いは、ジュリアスかな?」
なるほど。ジュリアス様のプライドを再起不能に手折ることなら、できるかもしれない。少なくとも、オスカー自身を叩きのめすよりはいくらか可能性があるし、もしそれを出来たなら、オスカーを潰したも同然だ。
方法は・・・考えればいくつか思いつきそうだ。オスカーの行動がある程度、手の内にあるならば。
「では、オリヴィエ。ジュリアス様の警護をお願いします。」
「は!?アタシが!?なんでよ!!」
「さりげなく、ですよ。くれぐれも、秘書や他の守護聖にばれないように。証拠も私と一緒に探してくださいね。」
にこ、と軽く笑って、またも落ちてきた髪をすくい上げて耳にかける。
「だ・か・らっ!ジュリアス苦手なのはアタシも一緒だっつーの!」
オリヴィエは自分の身体の両脇で拳をそれぞれ作ると、ほとんど悲鳴を上げるようにして、力一杯に言った。
「オリヴィエ・・・私たち、お友達ではなかったのですか?」
私は「心の底から悲しげ」な顔を作って、オリヴィエを見た。
「ねぇ・・・なんでこんなんばっかなの、聖地の人間は!!」
額に手を当てて、頭が痛いわ、とばかりに呻かれて。
「思うに。貧乏性というやつなのですよ、貴方は。」
と。
願い事を快諾してくれた律儀な友人を笑って、私は席を立った。

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例のオネガイをした、次の日の朝一番。
わざわざ結果を告げに、執務室にエルンストが直接来て、俺はリュウを口実を付けて部屋から追い出す。
追い出してから、
「随分早かったな。」
と、感心したように言うと、
「研究院には一通り機材が揃ってますから。私の権限なら、どれもすぐに利用できますし。おそらく、急ぎだろうと思いましたので。」
なんでもないことです、といった様子で、エルンストは淡泊に言い、広げた手のひらの中指で眼鏡のブリッジを一度くい、と持ち上げた。
窓から刺す光が、眼鏡のレンズを反射して、まるで漫画のように「彼は賢い人間であるぞ」と主張する。
「で?」
俺は腕を組んで、覚悟を決め、目を瞑った。
「結論から言いますと、これは、ほぼ間違いなく・・・タダのハッカの飴玉です。」
エルンストは、先ほどの淡泊な調子をそのまま引きずって、言った。俺は拍子抜けして、
「へっ?!」
と、思わず間抜けな声を上げる。
「・・・。オスカー様の口ぶりから、何かあるのだろう、とは思ったのですが。使える機材を総て用いて、外装も含めて調べましたが。何も変わったところはありません。タダの、飴玉のようでした。・・・もっと調べろとおっしゃるなら、調べることは出来ますが・・・。」
だめ押しされて、俺はそれでもまだ、自分のあんぐりと開けてしまった口を塞ぐことが出来ない。
「・・・。」
かなり念入りに調べたのだろう、エルンストが、そんな顔されてもな・・・と困ったように頬を人差し指で小さく掻き、所在なさげにする。
「ぷっ、・・・・ははっ、・・・そうか。」
俺は自分の取り越し苦労を知って、
「・・・・そうかっっ!!」
腹を抱えて笑い始めてしまう。
「??」
どこか、それを異様なものでも見るみたいな顔で、眉を顰めたエルンストを、にじみ出た涙でぼんやりする視界に納めて。俺は「いや、済まない。」と笑いに乱れつつもなんとか口にして、彼を宥めるように、手をひらひらと振って見せた。
「いや、いいんだ。・・・何もなかったなら、本当にいいんだ。」
やっと落ち着いてきて、俺は目尻の涙を拭いながら、エルンストに言って、
「手間を掛けさせて済まない。」
と、勢いよく頭を下げる。
「つまらないことで時間を使わせて悪かったな。今度、何か埋め合わせをさせてくれ。」
俺は笑いかけたが。
「守護聖様から個人的な贈答品を受け取るなどは、あまり好ましいとは思いませんので・・・」
と、なにやら難しい理屈が始まりそうな気配がした。
「あああ、いや。いいんだ。そうだよな。仕事に早く戻るのが、お前にとっては一番だな。済まなかった。」
俺はもう一度謝罪し、
「・・・ありがとう。」
照れくさいが、言ってみた。エルンストは、鉄面皮にほんの一瞬、驚いたような表情を乗せてから、にこ、と控えめな笑顔を見せて。
「いえ。お役に立てて光栄です。」
といって、一度頭をさげ、踵を返した。
俺は、その背中を見送りながら、自分の取り越し苦労をもう一度、大きなため息に混ぜて笑い。締め付けられるように緊張していた額をほぐしてから、やれやれ、とゆっくり振った。


終。
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