2章:出征
「カーマイン!」
サビーナは抱えていた鉄製の兜を乱暴にカーマインに向かって投げ付けた。その衝撃を吸収するように手首を引きつつ、それをキャッチしたカーマインは、
「危ない奴だな!細工が壊れたらどうする。気に入っているんだぞ。」
眉間に皺を寄せて抗議した。
「あら、ごめんなさい。いよいよ敵地に赴くのかと思うと気が高ぶってしまって。」
にやり、とサビーナは不敵な笑みを返して、高く結い上げた髪を、馬の尾のように揺らせた。
「よせよ、お前がそんな殊勝なタマか。」
ハンッと艶っぽい笑い顔を作って、カーマインは笑い飛ばす。隣で若干興奮気味に、蹄を地面になすりつけていた彼の愛馬も、それに合わせて彼女を笑うかのように低く嘶いた。
「カーマイン。貴方のお気に入りは貴方に似て性格が悪いみたいよ。私に貸してくれたら1週間とたたずに、それはそれは可愛らしく柔順な馬にしてみせるわ。今度貸してごらんなさいな。」
眉を片方あげて、サビーナは瞳をいやらしく細めた。
それを見て、カーマインはそれまでの馴れ合いの空気を捨てさり、少し寂しげな視線を地面に落とした。
「お前は、母上に似ているな。それも、少し、似過ぎている・・・。」
後半は、呟くように小さな声だったので、風に流されてサビーナの耳にはとても届かなかっただろう。
「私が母様に?カーマインまでそんなことを。冗談はやめてよ。」
今度はサビーナが、ハハン、と鼻で笑う番だった。
「おい、お前達。じゃれ合うのも結構だが、そろそろ出るぞ。」
馬に乗り、兜だけをはずしたセンドールが二人に声をかけた。風に煽られて、その赤く長い髪が曇天の空を背景に鮮やかにはためく。
その未来を見通す漆黒の瞳をじっと見上げて、
「兄さん。俺達は、勝ちますか。」
風にかき消されないように、声に張りを持たせて、ゆっくりとカーマインは聞いた。
「でなければ、俺はとっくに逃げ出しているさ。」
優しい微笑をセンドールは返した。そして、カーマインの瑠璃色の瞳をじっと見返して、
「だが・・・。」
少しだけ、瞳の色を鈍らす。
「何か心配事が?」
カーマインは先回りして聞いたが、
「いや、いいんだ。行こう。」
どこか諦めるような表情で、長兄は遠くへ視線を飛ばした。
「私達は勝つわ。兄さんじゃなくても分かる。私達が負けたことなどないのだから。それに、こんなに戦で心が踊るのは久々よ。」
サビーナは馬に身体を乗り上げながら、瞳を輝かせた。
「嘘つけ。お前は戦の度に元気になるじゃないか!」
呆れたように言いながら、カーマインもひらりと馬上に身を移した。
「私が先頭を!」
といって、駆け出したサビーナの動きに合わせて、センドールが手を上げ、数え切れないほどの馬と人が、まるで一つの生き物であるかのように、ぐわり、一斉に動き始める。
「兄さんは、何を言いかけたのだろう。」
自分の隊に移動しながら、もう聞けなくなってしまった兄への問いかけをカーマインは口の中でそっと呟き、鎧の脇をぐいっと、きつく締め直した。
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シャワーの音が部屋に響いていた。いつもの、寝室の光景。アタシは、奴がシャワーから出るのをこうしてボーッと待って、出てきたアイツにタオルを投げ付ける。
いつもの、お役目。
「なにをアンニュイになってんだか、アタシも・・・。」
はは、とベッドの上に、靴を履いたまま、ばすっと、背中から上半身を落とす。と、その時。
「うぉぉぉぉぉぉっぉぉおっぉぉぉぉっっっ!!」
人のものとも思えないような、雄叫びがシャワールームから上がった。
「今度は、何ッッ?!」
なんであんなトラブルメーカーのオトモダチやってんのよ、アンタ馬鹿なんじゃない?オリヴィエ・・・
とは思いながら、あわてて跳び起きて、シャワールームに駆け込む我が身が恨めしい。
ジャッと音を立てて、乱暴にバスのドアを開くと、オスカーはシャワーを浴びたまま床にへたり込んでいた。服を着たままオスカーの肩越しにシャワーコックに手を伸ばす。
キュッとシャワーをとめて、振り返る。服も頭もお陰でべしょべしょ。
「一体な・・・〜〜っ!」
全裸で(当たり前だ)、頭からずぶ濡れになった(これも当たり前)のオスカーが居た。しかも、こっちをみて、得意気に笑っている。少しだけ眇められた目が、うっとりとこっちを見ていた。
ごくっと、自分の喉がなるのが分かった。まずい。何かがまずい。どれぐらいまずいかって言うと・・・
「ククッ!ハハッ!!」
急に、喉の奥で笑ってから、オスカーは快活に笑い始めた。
どうやら誘っている訳ではないらしいことが分かって、些かほっとする。そういや色気の片鱗もない叫び声を上げた馬鹿がいたから、アタシはここに来たんだった、と思い出して、やっと平常心がアタシの胸に戻ってくる。
「一体、なに。」
呆れて、うんざりした声が出た。
「できた。」
「は?」
「一人で、できた!!」
言ってから、ふふ、と口の先で笑い、また楽しくてしょうがない、とでも言うように、口を開けて笑い始める。
そういうことね、とアタシは心臓を縮めて駆け込んで来た自分を嗤った。ようは、オスカーがこれまで散々苦しめられて来た「あのへんてこなビョーキ」が治ったってことで。
「これで、このイベントともやっとおさらばだ。」
心底嬉しげに、けれど今までの忌ま忌ましさを思ってか、若干陰のある笑みを浮かべて、オスカーは言った。自分の唇を指先でなぞって、そのまま手をアタシの腰の辺りに延ばして来た。なにやってんの?と思ってみていたら、
「手を貸せよ、オリヴィエ?」
なにボーッとしてんだ、とばかりに、ため息まじりでオスカーが言う。
「はあ?自分で起きなさいよ。」
と、その手を払い、
「それとも、久々の放出に腰でも抜けたの?」
馬鹿にした笑みをくれてやる。あたしが一緒になって、よかったわねー!なんて喜ぶと思ったら大間違い。
「誰がっっ!」
と、オスカーは自分で起き上がった。寝室につけた簡易シャワールームは、男二人で立つには狭すぎる。圧迫感にうげっとなって、アタシはオスカーの身体の向きをぐるり、と変えさせて、背中を押して外に追い出した。
ついでにアタシもシャワーを浴びて、髪を拭きながら寝室に戻った。そろそろ夕飯もできる頃だ。化粧をし直すのが面倒だけど、仕方がない。
「お前、そうしてると普通に男だな。」
髪を乾かすのが面倒だったのか、濡れた髪をそのまま後ろになでつけたオスカーが、勝手にベッドの上でくつろいで居た。
「わるぅござんしたね。そういうアンタはそうしてると5歳は老けて見えるよ!」
べぇと舌をだしてやり、使っていたタオルを投げ付ける。言われてむっとしたのか、投げ付けられたタオルで掻き毟るように頭を拭いて、髪を乱す。手櫛で大ざっぱに髪形を整えて、これでどうだ、とばかりにタオルを投げ付け返してくる。
「そうしてると、今度はガキみたい。」
すっかり前に落ちている髪で、本当にそう見えて、思わず笑いが漏れる。ドレッサーの前に座りながら、髪をいちど上にまとめて、鏡を見ると、憮然としたオスカーの眼がこちらを見ていた。
そんなに、簡単に行くとは思えないけどね、と根拠もなく、思う。勿論、リュミちゃんとオスカーの関係の話だ。
自分でできるようになりました、はいサヨーナラー、の関係な訳?今のアンタ達って。土の曜日の行事がなくなること自体は、アタシの精神状態の問題からいったら賛成なんだけど・・・ねぇ。
「で?人のシャワールームを穢してくれたオスカー君?アンタ、一体何をオカズにした訳?」
下地をパスして、簡単に粉を叩きながら、ちらりと鏡のオスカーを盗み見る。カッと、耳まで一気にのぼせた男が見えた。あれは羞恥心じゃなく、怒りから赤くなっている。と、するなら、だ。
オスカーがこっちを睨む前に、眼をつぶって、目の回りにもはたき込んだ。
と、するなら。
それって、根本的解決にはほど遠いんじゃあないの?
胃の底から、沸き上がって来たのは何故か、怒りとか、焦りに似た、暑苦しくて鬱陶しい感情だった。何を今更、と自分で嗤う。
「あの子が納得するとは思えないけどね。」
と、呟いて、アタシは化粧に集中し始めた。
「そんなこと、俺の知ったことかよ。」
思春期の男の子が親に反抗する時みたいな、やる気のない表情で、オスカーは窓の外に視線をやって、小さく吐き出した。
本気で言ってるわけじゃないだろうけど。
それじゃ済まないから、大変なのよねぇ。
人ごとのように、心で思って。
それは、アタシも同じか、と軽くため息。あーヤダヤダ!「難儀なことだ」なーんて辛気くさい誰かさんの口癖が移っちゃいそう。
何か嫌なものを内から追い出すつもりで、アタシは頬を軽く抑えた。
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「こっちも暇じゃないんだ。用もないのに、呼び付けないでくれるか?」
俺は高圧的に、見下ろしてやった。執務机に座った奴の頭を。
奴は書類から視線を上げることもせず、
「用ならありますよ。本当に。」
と、淡泊に言って、書類を見ていた視線を最低限の動きで横にやり、ケースにまとめてあった資料を、すっと、こちらに滑らせてよこした。
俺が以前ジュリアス様に提出した資料だ。勿論、関係者全員に公開している代物だが、こんなもんにまで、お前が眼を通しているなんて意外以外の何物でもない。知らないうちに仕事熱心になったもんだ。
「で?これがどうした。」
何も言おうとしない奴の頭に上からせいぜい嫌みっぽく聞いてやる。
「数値データがでたらめです。」
ため息交じりに言って、リュミエールはそれまで目を通していた書類をぱさっと手放した。そして、目を細めながら、俺を見上げた。
「なんだと?」
そんな馬鹿な、と俺は資料を開いた。
「シミュレーションの項ですが。算定基準期間が狂ってますね。」
奴はやれやれだ、といった風で指先を額に当てた。確認すると、確かに少し不自然なデータのような気もした。しかし、元データなしの今の状況では具体的にどこが狂っているのかまでは分からない。
それにしても、何故気づかなかったんだ?と思って、作成年月日を見ると、例のスランプ時期に作成した代物だった。いつまでも、後をひいてくれるぜ、と俺はため息をついた。
「元データまで当たったのか?」
憮然とだが、一応確認してみる。
「ええ、まあ。おもしろいミスもあるもんだ、と思って好奇心で。」
クスッと嫌らしい笑いが漏れる。
どういう経緯でこのミスを見つけたのかは知らないが、本来ならば礼を言うところだった。それは俺にもよく分かる。実際こいつ以外の人間から指摘されていたら、素直に礼の言葉を口にしていただろう。だがな。
「何故わかった?」
俺は何故か座った視線で奴の視線を跳ね返している。
「暇つぶしに、あら捜しをしていて見つけたんです。」
にこり、と俺には滅多に見せない優しげな笑い顔で奴は言った。
そしてそのまま続けた。
「誰かが、土の曜日の約束をすっぽかすものですから。」
どうせそんなことだろうと思ったぜ、と俺は心中で呟く。お前が公務に精を出すなんて、だいたいが異様すぎるんだよ。
俺は書類だけ頂いて、さっさとここを去ろうと思った。
「なるほど、それでか。水の守護聖様がお嫌いなデスクワークに精を出す理由は、大方そんなところじゃないかと思ってたんだ。すぐに更新して周知する。これはもらって行くぜ。」
苦笑交じりに言ってやって、俺はケースごと書類を丸めて、ちょっと上に持ち上げると、くるっと、身を翻して、ドアに向かおうとした。
「オスカー、貴方。私が何のためにそんなつまらないあら捜しに興じたと思ってるんですか?」
振り返ると、リュミエールは執務机に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。それだけで、全身の毛が逆立つ。
足音もさせず、静かにひたひたと、奴はそのまま近寄ってきて。
「何故、この間は来なかったのか、と聞いているのですが。」
頬を、右手の爪がすいと、撫でた。一体、俺をなんだと思ってやがる。
「触るな。」
俺はその手を払って低く、短く言った。
「お前、言ったよな?俺達は互いの便所だ、とかなんとか。」
精一杯、挑戦的に。やつの目を捉える。すっと、知らず、息を口から小さく吸った。
「俺には、もう必要ない。」
奴の細められた目が、少しだけ、驚いたように開かれた。そしてすぐに、愉快そうに笑った。最近よく見せるようになった、なんだか奴の女顔には不釣り合いな、少年のような笑い方だ。
「ハハッ。そんなもの、とっくに。ただの方便だ。そうでしょう?でも、自分で処理できるようになったんですね。それはそれは・・・おめでとうございます。」
奴は笑い過ぎて出た涙を指の先で軽く拭った。俺は羞恥で気が狂いそうになるのを感じて。
「っっっ〜〜〜っ!!!」
言葉にならず、ただ拳を強く握り締める。やっと出た言葉は。
「方便だと?それが方便なら、本当はなんだというんだっっ!」
だった。これ以上こいつとしゃべるな、何もない。そこには「何もない!」と、胸の中で誰かの叫び声がする。
なのに。
やつの瞳は一瞬傷ついたように、俺を見て揺れる。そして、毎週決まって見せる、あの熱っぽい色がそれに加わっていった。ぞわっと、背筋を何かが走り抜け、俺は、たまらず目を逸らした。今は、それを見返す気にはなれない。
『逃げろ!』
突然、誰かの声がする。俺の声だ。俺は弾かれたように、奴を突き飛ばした。そのまま一気に扉を出る。と、
どんっと、
出てすぐのところで誰かとぶつかってしまった。執務服が、赴任してきたばかりの教官、ヴィクトールのものと分かると、すぐさま謝って、俺はそのまま、自分の執務室に向かった。すぐだ。自分の執務室に入って、扉を閉めてしまえば。
「逃げるんですか?オスカー。」
背中に冷水を浴びせるような冷たい声がかかる。俺の歩みは、反射的にとまった。「逃げる」と言われなかったら、多分歩みを止めずに済んだはずだった。
振り返らずに、
「お前に、卑怯者呼ばれする覚えはないな。少なくとも、俺はお前より卑怯者じゃない。そうだろ?」
とだけ言う。そう、俺は確かにいまこの瞬間お前から逃げているかもしれない。だが、お前みたいに思いどおりにならないからといって、脅したり暴力で言うこと聞かせたりしたことなんか、俺はないんだ。
小気味言い沈黙を数えて、俺は歩みを再び進めた。今度は、自信を持って。だが、それに水を差すきつい声が再びかかる。
「今までは、そうだったかもしれません。でもだからといって、これからはどうだかわかりませんよ?少なくとも、今この瞬間は、私より貴方の方が卑怯な臆病者ですから。」
これから?これからなぞ、ないさ。俺は思った。だから、俺は今を臆病と言われようが、卑怯者と言われようが、甘んじて受けてやる。
執務室はもう目の前だ。拳をギュッと握りなおして、俺はやっと言った。
「どうだかな。」
扉を開いて、部屋に入る。背中に突き刺さるような視線を感じなくなって、俺はホゥ、とため息をついた。こんなのは、俺じゃない。
気合が抜けて、扉に体重をかけたまま、ずるずると、地面に腰を降ろす。しまった。マントが、皺になったかもしれん。
「オスカー様?!具合でも悪いんですか?」
誰も居ないと思ったのだが、秘書が居たらしい。こんなところ、見られる訳に行かない、と、いつもなら、勢いよく立ち上がって、なんでもない、というところだった。だが、この男には、どう思われてもいいような気がして、俺は立ち上がらなかった。
そのまま、頭をだらりと下に垂れる。一体、あいつは、俺のなんだ。あいつの何が、俺をこんな風にしやがる。俺は疲れた。あんなアブネー奴に関わりたくない。考えたくもない。あんなのに関わるから・・・やっと、解放されたんだ。そうだろ?
「オスカー様?」
長身の男が目の前に立つ気配がした。そのまま、膝を折って、しゃがみこむ。
「なんでもない。用件はなんだ。」
俺は顔をあげずに言った。
「あ。はい。明日のスケジュールの確認と、俺の弟のことで相談が。」
ピク、と俺の眉間が反応した。
「お前の弟?」
「ええ、はい。俺がこっちに来たときについてきてしまって。ブラブラさせておくのも勿体ないので・・・」
「雇わないぞ。」
苛ついて、先回りした。妹なら別の話だがな。しかし、秘書は苦笑を返してくる。
「ええ。リシア姉さんからもきつく言われてます。ですから、ただで働かせようかと・・・。」
「無料で?お前が養うのか?」
「ええ。与えて頂いた部屋で二人、十分暮らせて居ますし、食事代くらいですよ。俺の負担は。」
仲の良い兄弟もいたものだ。俺なら男で二人暮らしなぞ、真っ平御免被るが。俺は無気力ながらも顔をあげた。そこには、人懐こい彼の苦笑があった。黒い前髪が、さらっと落ちる。ふっと、息を吐いて。
「いいぞ。別に。タダならな。あまり俺の目につく所はごめんだが。今度飯でも誘ってやれ。顔合わせくらいしておこう。」
誘ってやると、困ったように男は眉を寄せた。
「それは・・・少し心配ですね。弟はあまり口の聞き方を知らないので・・・」
歯切れが悪い。
「俺がそんなことを気にすると思うか?いいから一度連れて来い。」
「わ、分かりました。でも、悪い奴じゃないんですが、本当に口が悪いんです。気を、悪くされないでくださいね。」
根負けした、というように男は諦めた顔を作って、自分が先に立ち上がると、俺の腕を上に引っ張った。
「オスカー様、お疲れ気味ですね。」
なされるままに、立ち上がると、秘書はそう言った。
「そうか?」
元気に見せるふりもせず、聞くと、
「ええ。女王試験のこともありますし、執務の量が増えたせいかもしれません。俺も頑張ります!」
秘書は右手に力こぶを作って見せた。服に隠れて、実際には見えなかったが、俺はその明るさに少しだけ元気づけられる。疲れている理由は、他にある気がしたが、今は考えないことにした。
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パシャンッッ!
軽快な水音がする。何か生き物がいるのだろうか。
泉の水面を俺は凝視した。
ちらり、と何か、白く長いものが水面下で光った気がした。
なんだろう、あれは。
俺は吸い寄せられるように、泉に近づく。
泉は、俺の動きに呼応するように、水面を毛羽だたせている。
それに臆さず、ずんずんと歩みを進めると。
どぉっと突然、風が俺の後ろから吹き付けてくる。たたきつけられるようにして、俺は泉の中に落ちた。
と。
泉の中央から、
クォォォォーーーーーーーーーーーーーーッッ
聞いたこともない鳴き声を上げて、白い竜のような生き物が、その中央から天に向かって駆け上がっていく。
一度天に駆け上がった竜は、トグロを巻くようにして、こちらを見下ろした。顔だけ出して辛うじて泉に浮いている俺は、それを呆然と見上げる。その大きな瞳は、深い瑠璃色。銀にも見えるその鱗と同じように、湖面から反射する光を跳ね返して、艶やかに光っている。
轟くような重低音が胸に響いた。
『お前の・・・・望みを、叶えよう。』
これは、お前の声か?
『知っているぞ、お前の望みは・・・』
竜の目が、少し眇められたように見えた。
俺の・・・望み?
「・・・・っっ。」
息苦しさに、突然。目が覚めた。嫌な汗をかいていた。妙にリアルな夢だった。
いや、巨大な竜と会話する夢だ、リアルな訳はないか。
神々しいが、どこか禍々しい。
竜が上る夢は、確か吉夢のはずだがな、と俺はルヴァの受け売りを思い出して苦笑した。
疲れているから、とらしくもなく、早くベッドに入ったからこんな夢を見るんだ。眠りが浅かったらしく、疲れが取れていない。
窓の外を見れば、まだ夜だ。
月光で、部屋の中は十分明るかったが。満月だろうか?すごい光だ。
散歩でも、するかな・・・
このまま寝ても、あの夢の続きを見てしまいそうだ。思い切って、俺はベッドから抜け出した。
簡単に、シャツだけ羽織って、パンツを乱暴に履くと、護身用のナイフ以外、なにも持たずに部屋を出る。厩舎の前で、一度だけ、声をかけられた。
「お出掛けですか?」
男の声だ。ということは。
「リョウか?すぐに戻る。散歩してくるだけだ。」
「お気をつけて。」
陰になって、姿は確認できなかったが、確かにリョウの声のようだった。だが、少し、声がいつもより暗い気がして、気になった。
「リョウ?」
不審に思って、俺がそちらに一歩進むと、困ったように、一瞬たじろぐ気配がして、男が一人、暗闇から姿を現した。
月光に明るく照らし出されたその男はリョウにそっくりな鳶色の瞳、黒髪で、だが髪が長いのとあご先に縫ったような傷があることだけが、違っていた。
「すみません。驚かせてしまって。リョウ・ムライの弟です。リュウと言います。」
気に食わない。
「お前も無駄にでかいんだな。早速働いているのか。」
リョウと同じくらい背が高いように見えた。
「ええ。働かせていただいてます。」
俺の嫌みは無視して、ぺこり、と頭を下げる。その頭の下げ方や言葉遣いから、あまり人に仕えるのに慣れてないのはわかったが、リョウの心配していたような無礼さは微塵も感じなかった。
「何故ここへ?里に恋人とか居なかったのか?」
ふと、昼間なんとなく思ったことを聞いてみた。兄が聖地に召されたといって、それについていきたがる弟の心境がよくわからなかったからだ。
「さあ。俺にもよくわかりません。強いて言えば、俺はよく、ブラコンだって。周りに言われますがね。」
男は自重気味に笑った。俺は一瞬面食らった。が、
「それは奇遇だ。俺の弟も、ブラコンだって地元じゃ評判だったんだ。俺がここに来るって決まった時は、あいつもついて来るってきかなくて。置いてくるのが大変だった。」
急に、実家でのヒトコマを思い出して、笑ってしまった。俺が喉で笑う声の中、リュウが低く小さく呟いた。
「弟さんは、さぞオスカー様を恨めしく思ったでしょうね。」
なんだって?俺はその声の真剣さに笑いを止める。
「いえ。俺も、置いていかれるところだったのを、無理やりついてきた口だったので。ここと、外は、流れる時間があまりにも違う。普通に離れて暮らすのとは、訳が違う。」
俺は、周囲の空気が冷えたような気がして、両腕を組んだ。
「そうだな。」
短く言って、目を逸らす。そんなことは、よく知っている。
「望んで、生き別れになるようなものです。何故、そんなことが出来ると?」
「恨み事なら、リョウに言ってくれ。俺に言うのはお門違いだ。」
前言撤回、やはり無礼な男のようだ。
「俺達の話ではありません。オスカー様と、弟さんの話です。」
男は意外にも不敵な笑顔を滲ませて、言った。姿形は似ていても、最早リョウの生真面目さをこの男から感じることはできない。
「俺だって、望んでここに来た訳じゃない。弟を望んで置いていった訳でもない。仕方のないことだってあるだろう?それに、なにより。俺の弟はお前じゃない。」
俺は苛ついて、人差し指で奴の胸を指し、瞳を見上げて、かみつくように言ってやった。男は、目を逸らすふうでもなく、自然に、ゆっくりと月を見上げた。そして、今思い出した、というように、俺の瞳にゆっくりと視線を戻す。
「すみません。俺はただ。『そうすべきだ』という理由で、切り捨てられる側の理屈は、それはそれであるんだってことを言いたくて。正直オスカー様の弟さんの気持ちは分かりません。俺なら・・・諦めないから。」
言ってることがよく分からない。
「よくわからんが、お前がブラコンなのはよく分かったよ。俺は、男は嫌いだ。特に、無礼な男と俺よりでかい男はな!!」
言い捨てて、俺は森に向かった。
全く、異常だ。なんなんだ彼奴は!
弟が仮に守護聖に召されたとして、俺なら一緒についていくなどと、駄々を捏ねたりしないからな。と、ふと、弟の今にも泣き出しそうな顔を思い出した。
たしか、あいつは最後の日、えらく憮然とした表情で、俺の前に立っていた。俺は、あいつの肩に手を置いて、その瞳を覗き込むようにして、言った。
『笑顔で見送ってくれよ。ん?』
その時、あいつは何といったんだったか。いや、泣きそうな顔をして、何も言わず、俺を見上げていただけだったかもしれない。
フフ、と笑いが漏れる。俺に懐くあいつは可愛かった。あいつも、きっといい嫁さんをもらっただろう。家を継いで、幸せな家庭を築いて。俺より背もでかくなったかもしれない。そして、もう・・・。
久々に、寒い風が胸にさす。
やっぱり俺が選ばれて良かった。弟が選ばれていたら、心配でしょうがなかっただろう。一緒についていくとまでは言わなくとも。
乱暴に足を運んでいるうち、ふいに、森が切れた。
泉だ。夢で見たような。しかも、ここは来たことがある。
その日も夜だった。たしか、その時は、リュミエールがここで水浴びをしていて・・・
『さすが水の守護聖殿、泳ぐ姿はさながら魚人だ!』
その時言った、嫌みを思い出して、苦笑する。
その後のことは・・・。あまり思い出したくない。
湖面は夢とは違い、凪いでいる。風が湖面の表面を撫ぜて、映りこんだ月光をもてあそんでいるだけだ。
その風景に、寝物語に奴から聴いた歌を思い出した。
カーマインが、泉に近づくと、泉で水浴びしていたセリーンに出くわして、それから・・・なんだったか。メロディはこうだ。
「タララ〜タララ〜タラッタラッタ〜・・・」
俺は座り込んで、そのまま、仰向けに寝転び、空を見上げた。月光が強すぎて、あまり星は見えないが、星が沢山輝いていそうな気配がした。
空が明るい。細かい雲の形まで、はっきりと見える。
このまま、ここで、寝てしまいたいな、と思った時だった。
パキッ!
物音がした。反射的に、身を起こす。動物か何かだろう。だが、なんとなく、確かめずにおられず、音のした方向にじっと目をこらす。何かが、光を反射して金色に光っている。何だろう?
思った時には、もう足が動いていた。近づいて、確かめようと、枝を払う。
ガサガサガサッ
と、周囲の草木をなぎ倒す音がして、月光に思ったより、大きな動物がさらされる。
人間の男が二人。
「ご、誤解です。オスカー様。」
絞り出すような、ヴィクトールの声がした。
全裸のリュミエールと、それに覆いかぶさられている、ヴィクトール。
俺は、今、何を見てる?
「邪魔・・・、したな。」
俺の声らしき声がした。気が付いた時には、森のただ中をさっきのように、乱暴に歩いていた。闇雲な方向に向かって。
なんだ?今のはなんだ?邪魔した?一体何を??
その答えを見つける前に、執務室の前の廊下で楽しげに話す二人の姿を思い出していた。彼奴と最初に打ち解けるなんて、変わった奴だな、と思ったんだった。
歩みを止めた。
なんのことはない。そういうことだろ?
と、俺は深呼吸した。俺が、どうして動揺しなきゃならないんだ?動揺するべきは彼奴らの方だ。
この前の土の曜日、いかなかったからか?だとしたら、俺の性欲がどうこうなんて言える立場じゃないだろ。違う。そんなことどうだっていい。俺が行こうが行くまいが、関係なんか無い。
俺は、混乱なんかしてない。ただの一秒もだ。
あんな、イカレ野郎のことは、もう二度と考えるなよ、オスカー。
それが、お前の、身のためだ。
そう言い聞かせながら、俺は暗闇の中、奴の瞳を思い出していた。
奈落の底を覗き込んだような、コバルトブルーが、熱を帯びるところを。
ゾクっと、足元から、何かが這い上がってくる。這い上がって来たものに、搦め捕られる感覚が俺を襲う。
『どうすれば、いい』
いつだったかの、彼奴の台詞が耳に木霊する。
俺が聞きたい。
「どうすれば、いいんだよッ!!」
闇雲に作った拳を、俺は木に叩きつけた。
終
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