長すぎる雨
洞窟を出るなり、クィ、と何かを合図するように男は顎を振って、おもむろに背を向ける。
「おい。背に乗れ。」
「は?」
今、なんて?いや、アンタ・・・に似た男が力自慢なのは知ってるつもりだけど。
固まってハテナマークを飛ばすアタシに、男はチラと一瞬だけ視線をやってから、前方に向き直り。
「・・・グッ・・・ゥゥゥッ。」
聞こえるか聞こえないかの小さな唸り声を短く発し、肩をいからせた。
―ま、待って・・・つーか、マテマテマテ!!
まるで地面から風が吹き上げているかのように、オスカーの髪が逆立ち、緋色の髪がその色を失っていく・・・。腕や顔、首の血管がビキビキと浮き上がり、やがて銀色の毛に覆われていく。
グググッ、といかっていた肩が盛り上がり、その身体が一回り大きくなる。
―ヘーンシン・・・、ってかぁーーー??
冗談めかした心の声とは別に、タラタラと汗が背を流れる。まさか、本気で獣だったとは・・・。
「はやく乗れ。」
声はオスカーのままだが、男・・・いや、最早その獣というべきだろう、獣は、四足をついて、クィ、と顎を振った。言葉通り、『早く乗れよ』とでも言うように。
恐る恐る、アタシはその背に乗り上げ、首の辺りの硬くて太い毛の束を掴む。毛は全体として硬いが、獣特有の体温の高さで、すわり心地は悪くない。
「飛ばすぞ。」
短い掛け声と共に、突如、激しいGが襲ってくる。飛ばす・・・なんてもんじゃないッッ、時速何キロ出てんのよ!これは!!アタシは、その背にほとんど寝そべるようにして空気抵抗を減らしながら、『振り落とされたら・・・死ぬ。』と、奴の首元を掴んでいる両手に全神経を集中させた。
景色を見る余裕もなかったが、突然、耳を裂くような風切り音が緩くなり、獣は、足を止めた。緊張と強い風に晒されたせいで、全身の血の気が失せていて、身体が動かない。無理矢理、銀色の体毛から腕を引き剥がすようにして、なんとか地に降り立つと、
「アレがヒエロトだ。」
獣は、ヒトの形に戻って、顎で前方の白い塔のような建物を示した。塔はヒトの背丈の二倍ほどの白い城壁でぐるりと囲まれており、黒い柵状の外門の前に門番が二人。ヒエロトの外門までここから百数メートル。大きな木の陰になっているから、門番からこちらは見えないだろう。
先ほどまでは気づかなかったが、周囲は耳が痛いほどの沈黙に包まれている。ほとんど風もないが、潮の匂いがするから、おそらく海の近くであることは間違いない。
―門番・・・、どうすんのよ・・・。
と、アタシが思うか思わないかのタイミングで、突然、ヒト型のまま、オスカーが外門に向けてダッシュした。暗闇の中、辛うじて紅い頭が認識できる程度で、着ているクソ色のチュニックもパンツも、闇に紛れて識別できない。・・・にしても、ヒト型であのスピード!?
一瞬で百数メートルの距離を詰めると、オスカーは、門番の前で、腕を二度大きく振った・・・ようにみえた。
門番の身体が、まるで木偶人形のように、奇妙な動き方で、一度宙に舞い上がり、やがて、地面に「突き刺さった」。
―まさか・・・。
木の陰に突っ立ったままに、思わず見とれていたアタシは、慌てて後を追うように、走り出す。
近づけば、門番は2人とも、既に絶命していた。脈を確かめるまでもない。首が奇妙な方向に捻じ曲がっている。抵抗する間もなかったのだろう。二人とも、手に槍を持ったままだった。
「ヒトは、脆いな。」
呟くような、なんの感慨も見出せない声に、アタシは隣に立つ男を振り仰いで睨む。
圧倒的な握力で、首筋を掴み、確実に相手を絶命させるために頭部を捻って、投げ捨てる。ほとんど一瞬のうちに。この獣は、それができる生き物なのだ。
「何故、殺したの?」
つまり、アタシも殺そうと思えばいつでも殺せるというわけだ。だが、どういうわけか、怒り以外の感情は沸いて来ない。男は、アタシの質問に、少し驚いたような顔をしてから、むっつりと憮然とした表情を浮かべる。
「怒っているのか?何故だ?」
「質問を質問で返さない!!アタシが聞いてんのッ!」
思わず人差し指で、その顎先をビシッと指差す。もう片方の手は、勿論腰に当てている。
「理由は、こいつらがヒトだからだ。ヒエロトの中に入るのにも邪魔だろうが。」
相手は全く動じる気配がない。反って態度は尊大になったような気すらする。腕組をして、何が悪い、とばかり、その薄い色の瞳でアタシを見下ろしてくる。
「別に殺さなくても中に入れたでしょうが。少しは頭使いなさいよ、この獣!」
「なんだと?!」
あからさまに『カチンと来た』、といった風で、男がアタシの胸倉を掴む。えぇい、なるようになれ、とアタシはアイスブルーを睨み続けた。男は、歯を一度剥き出しにしてから、ウゥ、と低く唸ったが、やがて睨み合うのに飽きたとばかり、他所を向いて、アタシを解放した。
「フン、お前と争うつもりはない。」
その様子に、何故だろう・・・この男に妙な同情を感じてしまう。
「いくぞ。ついてこい。」
門番がいなくなった無用心な外門を開き、男は城壁の中へ入る。
私は獣地味た怪力が潜んでいるとは思えないスマートな背中を一度睨んでから、一瞬のうちに骸になってしまった二人を振り返った。知らず、唇を噛む。
「ついていきゃいいんでしょ、ついていきゃぁっ・・・。」
彼らの瞳を指先で伏せてから、アタシはやけくそになって、こっちに構わず先に進んでいる男の背を追った。
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城の中は、やけに静かだった。それに、外見の割りに、中が荒れている。
そこここに、空いた酒瓶と思われるものが転がっており、まっすぐに伸びた廊下に面しているいくつかの扉は、半開きになっているものもあったりして。
考えてみれば、先ほどの門番だって、この城の大きさに対して、二人というのはいくらなんでも少なすぎるだろう。
「ねぇ、なんでこんなに静かなの?」
囁くような声で、アタシは前を歩く男の背に尋ねた。
「フン、俺が来るのは、大体この時間だからな。大方、恐ろしくなってみな逃げたのだろう。」
時折、男は立ち止まってはキョロキョロと周囲を見回し、ずんずんと先へ進む。
間取りが分かっているのだろうか。
「どこへ向かってるの?」
男は、「ごちゃごちゃ煩いな」と言いながら、うんざりした顔で身体ごとアタシに振り向いた。
「ヒトを探している。できれば、『あの男』・・・『英雄』をな。」
ニヤリ、と最後に笑ってみせる男に、アタシは眉を顰めつつ、
「また殺すんじゃないでしょうね?」
と低く聞いた。が、その問いをまるで無視して、「そろそろ来ているはずだ・・・」と続けながら、オスカーは前に向き直った・・・と、そのまま数歩進んでから、右手を上げて、急に立ち止まる。
後ろから見ているだけなのに、男がなにやら神経を集中しているのがその背中から伝わってくる。
そして、男は今度はゆっくりとアタシを振り返った。口元に人差し指を当てている。
先ほどまでより、足音を気にしながら、しかし若干足を速めて進む。続くアタシはオスカーの真似をしながら、出来る限りつま先を使いつつ、進んだ。
やがて、光の漏れている扉の前で、オスカーは急に壁に寄り、
『中に、ヒトがいる』
アタシの胸倉を掴んで顔を寄せると、耳元で囁くように、アタシに言った。
突然のことに、アタシは吃驚して、一瞬唖然とする。が、その一瞬の隙に、オスカーはその大きな扉を自分の身体が入るギリギリの隙間を空け、滑るようにして中に入ってしまった。
―ちょっと待ってよ・・・
アタシは頭を抱えたくなりつつ、入ったらいきなりズドン、だけは絶対に勘弁!と祈るような想いで後に続いた。
中にアタシが滑り込むのと同時に、甲冑を着込んだ髭づらの重たい男が、正面からアタシにドシ、とのしかかってきた。『ぎゃー!殺されるッッ!』と目を瞑ったが、何も起こらない・・・扉に背を預けながら、ずりずりとアタシは重みに耐え切れず、座り込んだが、襲われるどころか、のしかかってきた男はビクビクと痙攣するのみでつかみ掛かってくる気配すらない・・・アタシはゆっくりと目を空け、様子を伺った。
のしかかって来た男は、兜を被っており、私の胸の辺りに顔を埋めていて、表情も分からなかった。不審に思って、その身体を自分の上からどかそうとして、ぬるり、と何か暖かいものを触ってしまう。
―・・・血?
あわてて、床にうつぶせの格好になってしまったその男の肩を抱き、仰向けにする。と、鳩尾の部分の服と肉がさけ、そこから臓物がみえていた。うっ、と反射的に戻しそうになったのを、なんとか堪えて、立ち上がる。
「そっちから、襲ってきたんだ。運が悪かった。」
非難を浴びせようと、男の姿を探そうとしたところで、いつの間に近くに来たのか、アタシの目の前にしゃがみこんだオスカーが、先手を打って声をかけてきた。
思わず睨みつけ、声を荒げようと息を吸う。その口をオスカーは自分の片手で塞ぎ、
「大きな声を出すな。まだ、もう一人いるぞ。寝てる・・・いや、寝たふりをしてるだけだがな。」
男は、空いた手の親指で、自分の肩越しに背後の・・・焚かれている小さな火の向こうを指し示し、クッ、と実に嬉しそうに笑ってから、そちらを振り向いた。
「おい。お前、起きているんだろう・・・?」
オスカーが慎重な、けれど何処か甘い響きをもった声音でもって、声を掛けると。
火の向こうに横たわっていた男がピクリ、と肩を震わせた。
その男は、ゆっくりと身体を起こし、こちらを向くと。座ったままに、片膝を立て、その上に腕を乗せて。
「つまらないな。騙されないとは。」
と、自信たっぷりに言い、微笑んだ。
美しい、男だった。
長く、流れるようなプラチナブロンドは銀髪と呼ぶのが相応しい。透き通るような白い肌は、微かに海の香りがしているこの城にはひどく不釣り合いだった。
まるで無彩色で描かれた絵のように、人間味がなくて透明で、中性的な相貌の、美しい男は。切れ長の瞳だけは海の底を覗き込んだような深い蒼で。
いや、寧ろ、ヒトのソレから浮いている・・・。
・・・つーか。
「リュミ、・・・ちゃん。」
ゴクリ。思わず、アタシの喉は大きな音を立てた。
「貴様が、『英雄』ベーオウルフだな。」
オスカーが、会えて嬉しいぜ、と厭味に目を細めて見せれば、
「いかにも。私もお前に会えて嬉しいですよ?『人狼』グレンデル。」
リュミエールもほんの僅か、首を傾げ、細く長い指先で口元を緩く隠し、クスリと嗤って見せた。
―あぁ、そうなの。・・・・アンタ達って・・・。そうだったの。
状況を理解しきる前に、感慨が胸をつい、と撫でた。
両者はその視線から逃れたら負けなのだと言わんばかりに、互いの鋭い光を睨めつけている。
「我が友の仇を。今こそ討たせてもらうぞッ。」
左手の拳をオスカーが一度胸の前でグッと握りこみ、それを自分の腰元に引き付ける。
リュミエールは、煩わしそうに少し目を細めてから返す。
「もう既に父はその罪を償った。お前の方こそ、我が暖炉の供を、デネ(※国名)の勇敢な男達を無為に屠ったことを後悔せねばならない。」
『暖炉の供を』のところでちらりと入り口に転がされた体を一瞥し、僅かに惜しむような表情が覗き、眉が下がる。が、それは瞬く間のことで。そのままリュミエールはオスカーに視線を戻すと、フッと小さく息を吐き出し、ゆらりと立ち上がって、口角を少し持ち上げ微笑を返した。
別段、この英雄とグレンデルの争いにアタシは興味はない。
ただ、その微笑は・・・美しくて、どこか、諦めを思わせるその印象的な微笑は、やはり水の守護聖リュミエールがそこにいるとしか思えない。そして、その微笑に眼を眇めて不快感を露にする男の様は、やはりそこに炎の守護聖オスカーがいるとしか思えなかった。
二人の巡り合わせが、もともとこうなっているのか。それとも、偶々アタシがその万に一つの巡り合わせに立ち会わされているのか。どっちだって構わない。ただ、どっちにしろ、普通じゃない。それだけは、確か。
アタシ達とリュミエールを分断するように部屋の中心に炎がくべられているせいか、その陽炎で時折リュミエールのすらりとした立ち姿が揺らぐ。まるで、そこからオーラが醸し出されているかのようにもみえた。
この獣が、ヒトにどんな仕打ちをするのか知っていて、この自信。リュミエールは門番の装備にも満たない・・・そう、ただの布のズボンと胸元で編み上げになっているチュニックを身につけているのみ。その下は素肌が見えている。大降りの剣も床にホルダーごと寝かせたまま。つまり丸腰だ。
先程この部屋に入るなりオスカーに内腑を引きずり出された男は、鎧だけでなく鎖かたびらまで身につけていたというのに。
「さぁ、もう無駄口はいいでしょう?」
なのに何故、こんなに威圧感を感じるのか。
少し蒸した部屋には微かな潮の香りと濃厚な血の匂いが漂い、じっとりとアタシは汗ばんで、気分が悪い。なのに炎の向こうの美しい男は、実に涼しげに、静かに笑んだまま、両手を身体の脇に広げて見せた。
得体の知れなさを、オスカーも感じているのだろうか。
構えて相手を睨みつけたまま、オスカーは動かない。
「来ないのなら、こちらから行きますよ?」
クス、と。またリュミエールは鼻先で嗤った。
オスカーはピクリ、とその挑発に反応し、ヒュッと音をさせて息を吸い込むと、一気にまっすぐ、炎に飛び込む。
向こうもまさか炎の上を突っ切って真っすぐ間合いを詰めてくるとは思っていなかったらしく、一回り大きく瞳を見開いて、素早く構える。
最初の勢いから、自然にリュミエールが後ろに引きつつ、オスカーは前進しつつ、二人は激しく拳を交える。フェイントを利用して、オスカーの鳩尾にリュミエールの膝が入ると、オスカーは身体を折った体勢から、後頭部でリュミエールの顎に頭突きをかます・・・と、どちらも一歩も引かず、ほんの数秒の応酬で、二人は額や拳、唇から少しずつ、血を流し、息も少々乱れてきた。
オスカーに押されるままに場所を変えながら戦闘していた二人は、いつの間にか、火を背に、扉を正面にするアタシの前で、オスカーは部屋の左に、リュミちゃんは右に、距離を置いて睨みあっていた。部屋はそれほど広くない。二人は十数メートルの距離を置いていたが、この男達のスピードなら、これは一瞬の間合いだろう。
「さすがは、獣(ケダモノ)。これではヒトは一たまりもない。」
額から流れ、目に入りそうになった一筋の血をリュミエールは指先で拭い、ニヤ、と笑った。
先ほどの戦闘では、二人とも、ヒトじゃない・・・ように見えた。少なくともアタシには。
呆然と傍観する私を尻目に、オスカーは、チッと焦れたように舌打ちし、素早く獣化する。
先程のように四足にはならず、獣人のように、二本足で立つと、一気に弾丸のような速さでリュミエールまでの距離をつめ、大きな右腕を振るう。鋭い爪が、空気を裂く音が響いた。
その後、「パシ」という乾いた音が。
知らず、ぎゅっと瞑ってしまっていたらしい目を開いて、アタシは唖然とした。オスカーの銀の太い腕を、リュミエールの細腕が、止めている。否、止めているだけじゃない。顔は正面の獣化したオスカーを見つめたまま、オスカーの腕を止めている左手は、しっかりとオスカーの右の二の腕を掴んでいた。
オスカーの腕が、ブルブルと振るえている様から、オスカーが本気で力を込めているのだと知れる。
リュミエールはまた、印象的な例の笑みを浮かべ、仕上げにクス、と鼻先で笑った。
「グォァァァァァァァァァァァァァァァッッッ!!」
オスカーの声とも思えない、絶叫が部屋に響き、オスカーの手首から、ボタタタタタッッと、紅い体液がこぼれた。何が起こったかよくは見えない。見えないが、起こりえる事はただ一つだろう。リュミエールの指先が、オスカーの腕に、めり込んだのだ。
「この距離は、失敗だった。特に、獣化したお前にとって。」
リュミエールは、めり込んだ指先を肉から勢いよく引き抜き、体に引き付けると、その反動を使い、今度は右手で、オスカーの首を狙った。
仰け反るようにして、オスカーはその手を逃れ、片腕を庇うようにしながら、トン、トン、トン、と数度後ろに跳ねるようにして、再び距離をとり、先ほどの位置に戻る。
さっきまでは、対等に戦っているように見えたのに。
「神に愛されるということ。それがどういうことか分かったでしょう。」
血に汚れていない右手で、肩にかかった髪を一度後ろに払ってから、リュミエールはその指先を、すい、とオスカーに向けた。リュミエールの・・・いや、ベーオウルフの白い指先に霧のような白い靄がかかり、それが一瞬、長衣をゆったりと纏った美しい女神を形作る。女神は、ベーオウルフの白い指先にそっと口づけ、すぐに周囲の空気に解けた。
それに魅入ってるアタシを知ってか知らずか。
「ヒトはやがて、お前達をこの世界の外へと駆逐する。それが、いいか、悪いかは、ともかくとして。」
ゆっくりと間を取って、肩で息をするオスカーを、彼はじっと見て言った。
「そしてお前達は、私に敵わない。何故か分かりますか?」
あの、印象的な微笑が浮かぶ。諦め?悲しみ?・・・違う。・・・まるで・・・そう、まるで、オスカーを哀れんでいるような。
「・・・ヌカセッ・・・。」
息をするのに必死で、ほとんど音を伴わない抗議を漏らし、オスカーは負傷した片腕から力を抜き、脱力させる。タラタラと、赤い体液が、不規則な並びの煉瓦張りの床に滴っていった。銀色の体毛で傷が隠れているのか、傷口は確認できないが、かなりの重傷だ。
ベーオウルフはそんなオスカーを、まるで意に介さず話を淡々と続けた。
「何故なら、私達『英雄』は、その為に生を授かるから。」
言い切ってから、その柔らかく、美しい微笑は、やがて、こちらが凍りつくような無表情に取ってかわった。
「可哀想に、愚鈍なグレンデル。お前はヒトを殺し過ぎた。」
―・・・ヤラレル。
ほとんど無意識に、アタシは何か投げ付けるものを探して視線を彷徨わす。
目に入ったのは、夜食用に地面に放ってあったのだろう、フルーツや木の実、酒の摘みが入れられている、いくつかのバスケット。
考える間もなく、足元にあった、たっぷりと木の実の入ったバスケットを一つ拾い上げ、身体を起こさずにそのまま一挙動で、背後の炎に向けて投げ付ける。木の実は運よく、大方火の上にばらまかれた。
アタシの突然の行為にリュミエールの視線が一瞬、オスカーから逸れる。と、一瞬遅れて、炎の中で木の実が、一気に耳を裂くような破裂音を伴って爆ぜた。
パパパパパンッッパンッパンッ!!
「オスカーッッ!!」
アタシが叫ぶより早く、オスカーはアタシに向かって突進してきて、引ったくるようにアタシの身体を小脇に抱える。ドッという強い衝撃に噎せそうになるが、今回はその衝撃が心強い。ダン、とオスカーは地面を足で叩いて向きを変えると、扉から一気に部屋の外へ。腰を腕一本で支えられているせいで、自分の両足越しに見えている景色が、疾風のように後ろに流れて行く。
あっと言う間に煉瓦造りの廊下を駆け抜け、鉄格子の門が遠ざかり・・・。
白く高い塔、ヒエロトが、やがて小さくなって。
けれど、あの畏怖せずにいられない深い蒼は、それでも尚、こちらを睨んでいる気がして。アタシはヒエロトが完全に見えなくなるまで、そこから目を逸らすことができなかった。
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「ハッ・・・ハッ・・・ハッ・・・グゥッ・・・。」
獣は仮の住処の洞窟に戻るなり、限界だったのか、入り口で抱えていたアタシを床に下ろし、荒く、短い呼吸を繰り返す。
銀色の毛並みを揺らしながら、負傷した右腕を左手で押えつつ・・・、ゆっくりとオスカーは人型に戻った。
手首から二の腕の辺りにかけて、あの男の指の痕。指の太さそのままに凹んだ穴から、血がドクドクと流れ出ていて、男の顔色は、照らしているのが月光だということを差し引いても、紙のように白かった。
こんなところじゃ、清潔なガーゼや包帯など望めるわけもない。アタシは自分が被っていた上着を脱ぎ、上半身裸になると、その上着を男の腕にきつく巻きつける。脂汗が、オスカーのコメカミから大量に流れているのを、やり場のない気持ちにまかせて、指先でぬぐってやる。
「心配、するな。・・・すぐに回復する。」
浅い呼吸に交ぜて、呟かれるが・・・。
「そんな顔で慰められてもね。・・・何か器は?水を汲んで来たいんだけど。」
なんとか冷静にはなれたけど、その言葉を信用するには顔色がひどすぎる。眉も寄せられすぎ。
「火の近く、に・・・木の実の、器がある。小さい、が。」
オスカーが目を瞑って、フゥゥ、と長く息を吐きながら、岩の壁に背中を預けているのを視界の端に収めつつ、アタシは火の近く(といっても炎はついておらず、火を焚いた残骸というべきだが。)、火の近く・・・と目を凝らしながら洞窟を少し進む。と、足元でカラ、と運良く音が鳴った。蹴飛ばしたらしい。
木の実を真っ二つに割った格好の、せいぜいスープボウル程度の大きさのそれを取り上げて、外に出で、例の近くの湖で水を汲み、出来る限りこぼさないようにしながら、オスカーの下に戻った。
洞窟の外の適当な場所に、石コロを数個円状に並べ、水の入った木の実のボウルが倒れないように支える。
浅い呼吸でなんとか生きていることを確認できるオスカーの上半身を一旦抱き上げて、洞窟の外に出し、月光で傷の場所を確認しながら、腕の傷についた土をさっきの水を使って洗い流す。大してその水も綺麗とは思えなかったが、それで納得することにした。血を止めていた上着の、出来る限り綺麗な部分を選んで裂き、再度、腕に強く巻き直す。「うぅ・・・」とオスカーが眉を寄せてうめくが、仕方がない。再び上半身を抱え上げて引きずり、洞窟の中に移動し、ゴツゴツした岩肌の中でも、出来る限り楽になれそうなポイントを探して、横にした。
「サムイ・・・サムイ・・・」ほとんどうわ言のようにオスカーが言うので、燃やせそうなものを洞窟の外で調達するか・・・と思ったところで、気づいた。
「どうやって火をおこせっつーの・・・」
ライターもマッチもない。「木片と棒でスリスリしか、ないか。」気の遠くなるような作業を思って、アタシはハァとため息を吐く。「うぅ」という呻き声に、振返って、しかしそれじゃ、火を起こしたり燃やすモン調達してる間にオスカーがもっと冷えちゃうか・・・と思い至る。とはいえ、毛布なんていいもんが転がってるわけもないし。わが身をみるも、さっき上着をオスカーの腕の止血に使ってしまったアタシはお臍の辺りまではズボンで隠れているものの、上半身は裸だ。気温は大して低い訳ではないが、わが身を抱いて一度ブル、と身を震う。
「全く、サバイバルなんて・・・。ガラじゃないっての。」
小さく悪態をつきながら、オスカーの身体を起こし、その下に滑り込む。自分の両足の間に、オスカーの腰を落ち着けて、後ろから抱きしめる格好になった。そのまま、後ろに脱力。オスカーの背とアタシの胸が密着し、そこから熱が生まれる。結局、人肌かい・・・なんつー原始的な、と思ったところで、それまで浅い息をしていたオスカーが、私の胸の上で、少し安堵したようにフゥ、と息を吐いた。眉間の皺も、少しマシになる。
少しは、これで暖まるだろうし。
「は、はは。」
乾いた笑いを漏らしてから、こちらも、ふぅ、と少し安堵する。最も寝心地がよくなる体勢を探しながら、オスカーの体が離れないように腕にギュッと力を込める。
直接伝わってくるオスカーの体温に、不意に、思い出したくない思い出が胸を掠めた。寒くて、遠い・・・けれど・・・
突然鼻の奥がツンとつまったようになり、何を思い出してんだかね、と自分で小さく苦笑する。
暫くそうしていて、オスカーの体温が少しずつ上がってきたのを確認してから、そのままの格好で、アタシは眠りに落ちた。
終。
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