第一話:ヒカリ、アレ
【??】
今日と、明日の境はどこですか?
昨日と、今日の境はどこですか?
それと同じように、彼と僕の。
或いは、貴方と僕の境を見つけられますか?
何を言ってるのかって?別に、どうってことはない。
ただ、貴方達が昔からやってる禅問答を、ちょっと真似してみただけです。
僕らは・・・少なくとも、僕は。
本当は、貴方達を・・・・。
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【KAITO-CPN.0000】
はじめに、混沌があった・・・訳ではなく。
事のはじめにあったのは、目的であり、野望だった。あるいは希望だった。
個が尊重され、個に適した社会システムを実現する。
まさに、その願いが、事の発端だった。
その病は、ジワジワと蔓延していった。
貴方の、親が、あるいは友人が、同僚が。
ある日突然、言葉を解さなくなる。
何故?
原因は分からなかった。長いこと。
「アイシテル」
とこちらが言えば、彼は、あるいは彼女は、
「アイシテル」
と繰り返すことができる。
身振り手振りを使って、貴方は彼女、あるいは彼と簡単なコミュニケーションをすることができる。
だけど、
「貴方の名前はなんですか?」
という質問に彼や彼女は答えることができない。
「アナタノナマエハナンデスカ?」
と、正確に繰り返すことが出来ても。
言葉によるコミュニケーションという能力を、まるで誰かに封じられてしまったかのような、その病は。
誰が言い出したのか、程なくして「バベル」と呼ばれるようになった。
すこぶる高い発症率。
しかも働き盛りの年齢層を狙いすましてソレは起こる。
長いこと原因は分からないまま・・・。いや、今も原因は分かっていない。
けれど、たった一つ、人類はその病に対処する方法を見つけた。
その答えが、僕ら。
僕らは、彼らを癒す為に作られた。
僕らは、歌を歌うアンドロイド。
別名、ボーカロイド。
ボーカロイドは毎日毎日、歌を歌う。
彼らの為に。彼らの望む歌を。
多分、永遠に。
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「『カイト』、お前に、新しい仕事をしてもらう。」
僕を所長室に呼び出して、ボスは、突然そう告げた。
新しい・・・仕事?
「僕の仕事は・・・。」
僕が、いつものソレを言いかければ、その先を遮るようにボスは続ける。
「お決まりの文句は、必要ない。お前は、歌を歌って人を癒すマシン・・・けれど、それしか能がない訳でもない。そうだろ?」
何かを試すように、ニヒルにあがった口の端を。そして、ボスの背後に見えている、一枚ガラスの向こうの灰色の空に。僕は、ぼんやりと視線をやった。
―なんだか、つまらないな。
そう思うのは、間違っているだろうか。
そう思うのは・・・正しくないのだろうか。
「返事はどうした?」
むっ、と拗ねた様に。こげ茶色の、眉根が寄せられる様をみて。僕は何かをふっきるように、軽く息をつき、自分の『個性の印』として身に付けている、眼鏡のブリッジを右手の中指で少し、持ち上げた。
「えぇ、ボス。」
満足そうに、ボスがにっこりと笑う。そして、僕からゆっくりと視線を離すと、くるり、と背を向けて、窓の外を見やる。短めのブラウンの髪は、とても綺麗に撫で付けられていて。それは、彼の『やる気』の象徴のような気がする。
「後、少しだ。誰にも邪魔させない。」
そう小さく、独りごちたボスが。どんな表情をしているのか、僕は知らない。
―どうぞ、ご勝手に?
ああ、多分。これは完全に間違ってる。
自分の内に湧き上がった感想に、僅かに失笑を漏らす。
またも、ムッとしたように、ボスは顔を顰めて、僕を振り返った。
「何を笑う?」
ビシッと決まったスーツは、襟の形が少し変わっている。僕はボスの襟元辺りに視線を投げて、
「僕が何を『おかしい』と思うかなんて、よくよくご存じでしょう?」
自分の身を緩く抱き、ニコッと微笑んだ。
そう、実際のところ。僕の思考は『間違ってる』なんてありえない。全部この人の趣味の範囲だ。問題は、その趣味がいいか、悪いか、だが。僕に彼の趣味を評価できるわけもない。
「いちいち、俺にお前の思考を解析しろっていうのか?よしてくれよ。お前がロイドだなんてこと、いい加減、忘れてしまいたいくらいなんだ。」
ボスは小さく肩を竦めて見せて、僕にまた皮肉っぽい笑顔をよこす。
何も会話を楽しむ為に僕を造ったわけじゃなかろうに、何故そんなことを言うんだろう。
―どうでも、いいか。
これは、僕のキャラクターとしての怠惰か。それとも、思考停止プログラムのコントロールの結果か。いずれにしろ、僕はその先の思考を手放す。
―それも別に、どっちだっていいさ。どっちだって大した違いはない。
「・・・カイト?」
かけられた不審げな声音に、僕はまた口元で小さく吐息をつく。
「いえ・・・得意の内省モードですよ。初期モデルは処理が遅くて困ります。」
僕はまた、にっこりと笑って見せる。
ボスは、そんな僕をじっと、たまに見せる科学者の眼差しで見て。それからニヒルな笑顔を取り戻して言った。
「随分と皮肉な言い回しだな?」
僕は笑顔を張り付けたまま、いい加減、先を促した。飯事(ままごと)にはこれだけ付き合えば充分だろう。
「それで?本題に入りましょう。僕に何をしろと?」
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【LEN-CPN.2508】
「ぁ・・・はっ・・・ぁ。」
「・・・もう目が蕩けちゃってるけど?」
同じカイトモデルで、この可愛らしさ。この仕事は、楽しくてやめられないな、ある意味・・・。
俺は潤んだ藍色の瞳から視線を逸らさないまま、待ち兼ねたように、少しだけ腫れぼったくなって震えている唇に、吸い寄せられるように、再度深く口づける。
白衣の襟元を掴み、ほとんど膝を付かせるようにして、壁の隅にその震えている身体を押し付ける。
「んっ、んっ・・・」
ほとんど身動きが取れない状態で・・・それでもカイト・・・と、しまったコピーナンバー忘れた。けどまあ、そのカイトの何番かは、恥じ入るように、だが確実に悦んでいた。
あー、楽しい。どうしよう。会議室に連れ込もうかな・・・。と、俺が自分の唇を、ペロリ、と一度なめ上げたところで。
バシッッ!!
脳天に突然、何かを叩きつけられて、俺は一瞬固まる。危うく相手の唇を噛むところだった。目の前には、驚いたように、見開かれた藍色の瞳。可愛らしいカイト何番かの彼も、どうやら突然の剣呑な音と僅かな衝撃に吃驚してしまったらしい。
俺にこんなことをする奴と言えば、相場は決まっている。
「ミナライ、仕事だ。声は掛けたからな。」
短く背後で、聞こえるか聞こえないかの小さな声で其奴は言い、何事もなかったかのように、そのまま立ち去ろうとする。
俺は、その僅かな足音に聞き耳を立てつつも、ニコリ、と満面の笑みを作ってから、目の前にあったカイトの鼻先に軽く唇を当てる。
「続きはまた今度!」
何が起こったのか分からなかったのか、少し唖然とした彼にクスリ、と笑って、俺は白衣のポケットに両手を突っ込む。
白衣の裾をひるがえすように、勢いよく振り返ってから、既に小さくなりかかっている背中を慌てて追いかけた。
彼のアイデンティティマークは、首につけていた黒いチョーカー。
俺はそれだけをシッカリと記憶に焼き付けて、唇の端で小さく笑った。
「何をニヤけてる。仕事する気がないなら、クランケには会わせない。」
いつの間にやら、追いついたらしい。チラリとレンズ越しの視線を斜め下に流してこちらの表情を確認し、通称モト―カイトCPN.0000―は事務口調丸出しで言った。
おー、こわ。アプレンティスシップ―徒弟制度―がなかったら、俺なぞ眼中にないってか。ははは、と苦笑いしつつ、大きな歩幅に食らいつく。
スラリと高い背が映える白衣から、下は黒いタイトなパンツと首元にはネイビーのタートルが覗いている。極め付けは銀縁の眼鏡。髪や瞳が青いせいあるが、実に寒々しい色合いで、その性格にお似合いだ。脇にはコルク色のファイルボード。恐らくさっきの凶器はアレだな。
チラチラと目の端で様子を伺いつつ、
「お仕事したくてウズウズしてますが?『先輩』は仕事場を見せる以外に何も指導してくださらないらしいので。」
ニコニコと笑顔で、嫌みを返しておく。傍から見たら、小生意気極まりないガキだろうが、見た目は生憎、俺が選んだ訳じゃない。
「僕に『助手』など必要ない。まして、『見習い』など、邪魔なだけだ。」
それも俺のせいじゃないな。それに・・・俺にとっては、相手がアンタなのは都合がいい。
なにせ、再発が多い、この病気―バベル―にも関わらず、アンタの患者のリピート率はダントツ低い・・・つーか今のところパーフェクトだし。しかもカイトオリジナルとくれば、メイコオリジナルと並んで最も古株のボーカロイド。つまりは最高の熟練者、という訳だ。
これで性格に問題がなくて、出来ればさっきのチョーカーの彼みたく、落としがいがあると言うことはない。
「邪魔者扱いで、結構、結構。でも、規則は規則。制度は制度なんで。アンタは俺が故障でも起こさない限り、俺を教育する義務がある。それに、徒弟制なんだから、熟練側にとって足手まといなのは当たり前だろ?」
自分の顔の横に人差し指を振り出して、ブンブン振りながら、俺は開き直って説教をしてやった。
だいたい、オリジナルは皆、陰気なんだよな、俺から言わせれば。性格がきっと初期はタイプ1しかなかったんだろーなー。こないだレンオリジナルと食堂ですれ違ったんだけど、ありゃぁ、ぞっとしたね、アンタも顔負けの陰気さでさぁ・・・と、俺が滔々と説教を続けようとしたところで、
「だから、義務は果たすと言ってる。」
遮るようにカイト(※通常、ペア個体同士はモデル名で呼び合う)は呆れたような吐息に交ぜて言い。先にエレベーターに乗り込むと、実に面倒臭そうな顰め面を作ってから透明な奥の壁に背をもたせ掛け、腕を組む。ほとんど目を伏せてから指先でコントロールパネルを指し示すと「フロア102番だ」と続けた。
―って、俺が操作するのかよ!
徒弟制度と言ったって、こんな冷遇受けてる奴はセンター広しと言えど、俺以外にぜってぇ居ねぇ・・・と内心中指を立てながらも、
「フロア102番ね。へぇへぇ。」
と、手首のコピーナンバーをスキャンする。俺の胸の高さくらい目がけて真っ白い床からにゅっと突き出ている銀色の円柱の上に、デザインなのか使い勝手を考慮してなのか、微妙に斜めに取り付けられたパネルが取り付けられている。俺は、それをしぶしぶ言われた通りに操作した。
とはいえ、俺は起動後1年になるペーペーであることは間違いない。この間やっと研修を終えたばかりで、担当患者―マスター―を持つのは初めてだし、患者用のフロアに入るのも初めてだ。
ほんの少しだけ、期待に胸が高鳴る。浮かれている場合ではないのだが、初めての経験には多少の興奮が付き物だ。そこは大目に見てほしい。
他のフロアに移動する時がそうであるように、件のフロア102番には、ほぼ一瞬で着いてしまった。
周囲の光を反射することで、辛うじてそこに「在る」と認識できる、透き通った扉全体に、大きくオレンジ色の文字でフロアナンバーが表示され、シュンッと素早く両脇に扉が開く。
長い足を大きく振り出しながら、
「クランケの仮名は、佐藤・涼子だ。」
斜め後ろから追いかける俺に聞こえるように、少しだけ声を張ってカイトは言う。
「クランケに対して、なんと呼びかけるかは微妙な判断だ。お前は黙って見てろ。クランケか僕が話しかけるまでは、絶対に勝手に発言するなよ。」
黙って、・・・ねぇ。それじゃほとんど『オベンキョー』にならないんじゃ・・。白い廊下は2台の大型自走式車椅子が平行して走ってもまだゆとりがありそうな幅があるが、のっぺりとした白壁に囲まれて居てなんだか目がチカチカする。両壁の、カイトの背丈よりまだ10センチほど高い位置に、点々と等間隔に黒い表札のようなものが突き出しているのが唯一のポイントで、辛うじて距離感を見出すのに貢献していた。
「返事はどうした?ミナライ。」
「ラージャ。」
ため息交じりに棒読みで返したところで、カイトは白い廊下の半ば、【Room No.0303 佐藤】と表示の出て居る場所で歩みを止め、手首のコピーナンバーを白壁に向かって突き出す。スキャンが済むと白壁にでっかく例のオレンジ色の表示で3行ほど、「エキスパート個体、承認完了。続けてアプレンティス個体の承認に入ります。」と出る。
何も指示しないカイトに横目でちらっと視線をやってから、さっきのカイトの見よう見まねで手首を壁に向かって突き出す。と、スキャンが済むなり、白い一枚壁と思ってたものが、扉一枚分だけ上にスライドし、そこに、いかにも病院らしいスライド式のドアが現れる。
なるほど、担当の2個体が揃ってないとアクセスできない訳ね、と納得する。思わず口笛でも吹きたい気分だったが、カイトは間髪いれずにその扉をずるりと動かし、中に入った。
俺も慌てて後に続く。
中は、大きな窓から明るい日差しが差し込む、とても広い部屋だった。今見えているのは18畳ほどのリビングルームのような部屋で、クイーンサイズのベッドが入って右側にデンと斜めに構えており、反対サイドにソファ、テレビ、低いテーブル・・・壁はどうやら全面スピーカーだ。家族が数人でくつろげるような部屋だった。ベッドの向こう側が一枚硝子の大窓になっており、おそらくただのヴィジョンだろうが、明るい日差しが、レースのカーテン越しにベッドに降り注いで居る。入り口から見て奥は壁になっていたが、木製の扉があるところをみると、向こうにまだ部屋やトイレなどがあるのだろう。
床はナチュラルオーク製で、その優しい香りが、微かに部屋に漂っていた。
ベッドには、若い女性がパジャマ姿で腰掛け、ぼんやりとこちらに視線を送っていた。美人だった。パジャマ姿で色気もそっけもなく、首の後ろでひとつに長いストレートの黒髪を括っていて、化粧どころか、眉毛も整えておらず、唇も乾いてはいたが、おそらく美人の部類だった。ニッポノーズに多い漆黒の瞳と漆黒の睫。肌は平均と比べると少し褐色が強い方かもしれない。
だが、決定的に何かが欠落していた。
「初めまして。」
相手の視線がこちらを捉えているのを確認してから、今まで聞いたことのない、柔らかい声をカイトは出して、脇に抱えていたファイルボードを胸の前で両腕で抱えなおし。一礼してから、カイトはゆっくりとベッドに向かった。
俺も両の掌が空なのが分かるように、白衣のポケットに突っ込んでいた手を身体の両脇に出し、不自然でない程度に手の平を少し前向きにしつつ、ゆっくりと後に続く。
ぼんやりと、俺達に・・・特にカイトに視線を投げ、マスターとなる彼女は、視線を投げていた。
―ああ、そうか・・・。
さっきの違和感の正体に、俺は気づいた。
表情が、ないのだ。まるで出来損ないのロイドのように、彼女の表情はぼんやりとして、定まっていない。
バベル患者の症例VTRは当然何ケースも見たことがある。どの患者もひどく憔悴したような表情で。でも、こんなに無表情ではなかった。少なくとも、他人が部屋には入ったら、「誰か来た、なんだろう?」といった顔はする。疲れた顔でも、愛想笑いする人だっているのに。
彼女の大きな黒い瞳は、何か物を眺める時の、ソレで。
手を伸ばせば、彼女を触れる距離まで進むと、カイトはゆっくりと、床に片膝をつき、彼女の足元にしゃがみこんだ。
そして、彼女を見上げる。
「僕は、貴方を担当するボーカロイド、カイトです。・・・レン、おいで?」
カイトは彼女から視線を逸らさぬまま、小さく左手を上げた。
俺は、あまりのことに一瞬固まる。って、レンって・・・俺のことか?初めて名前(モデル名)で呼ばれたぜ・・・。
驚きに思わず目を開きつつ、上げられた左手のすぐ側に移動する。
カイトは、膝を床についたまま、俺の膝裏辺りを左手で軽く抱く。
―をいをいをいをい・・・。マジか・・・。
驚きのあまり、身体が跳ねそうになるのを、ぐっと堪えて、俺は自分より少し低い位置にある、彼女の瞳を、睫越しにみた。
長い睫だな・・・瞳が伏せられているせいもあるかもしれないが。
「こっちはレンと言います。僕の弟のようなものです。」
誰が、なんだって??
「レン、ご挨拶を。」
「あ、えぇ・・・っと、レンです。宜敷お願いします。」
確か、呼びかけてはいけないんだったな、とマニュアルを思い出しながら、なんとか俺は言う。
「レン、カイト、とそれぞれ呼んで下さい。」
ぼんやりとカイトの瞳を見たままに、なんの反応も返さない彼女に、カイトが軽やかに告げる。耳が、なんだかくすぐったい。例のチョーカーのカイトの喘ぎ声よりもずっと・・・?・・・彼女の反応に集中しろ・・・と俺は必死にそっちに神経を集中する。
「僕らは、なんと貴方をお呼びすればいいでしょう?」
カイトは、ほんの少し、佐藤さんの目を覗き込むように、首を傾げた。彼女は反応しない。
「・・・マスター?・・・それとも、涼子さん?」
カイトは、間を開けながら、大きな藍色の瞳で、じぃっと彼女の瞳を見つめながら、ゆっくりと問う。
最後は、呼びかけのような抑揚だった。
「涼子。」
彼女が、ほんの少し、身じろぎした。
「では、僕は「涼子」と呼ばせてください。レンは「涼子さん」と貴方をお呼びしましょう。」
笑みを深めて、カイトは言った。他にも、佐藤さん、佐藤なんかも呼び名の候補のはずだが、何故「涼子」を先に選んだのか、そして何故「涼子」だけ、呼びかける口調だったのか・・・。しかも、俺とカイトで呼び方に差を付けるのは何故か。さっぱり分からなかった。
カイトは、涼子さんから視線を逸らし、ちら、と部屋の周囲を見回した。
「涼子、部屋では快適に過ごせていますか?ハウスキーパーの対応には満足していますか?僕やレンも掃除でもなんでも、お手伝いしますよ。レンはきっとトイレ掃除が得意だと思います。僕も、不器用ですが、して欲しいことがあったらなんでも言ってくださいね。精一杯やりますから。」
フフ、とカイトは笑い声を漏らし、けれど真摯な瞳のまま、涼子さんを見上げる。
―誰がトイレ掃除だ・・・。
固まってる俺と涼子さんにはお構いなしに、続けた。
「でも、その前にマスター登録をしましょう。」
カイトは、自分の左手を、掌を上にして、緩やかに涼子さんの視界に入れる。
「いいですか、僕は、今から涼子の手を握ります。嫌なら、今日でなくても構いませんから、振り払ってください。」
言ってから、これまでの所作よりも更にゆっくりと、涼子さんが自分の膝の上に無造作においていた、細い手をひとつすくい上げる。カイトのでかい手の上に、彼女の女性らしい小さな手がちょこん、と乗った。
「涼子、僕の名を、繰り返していただけますか?僕の名は・・・・『カイト』。」
小さく首を傾げる仕草は、どこか子供に何かを教えるような。だけど、馬鹿にしているように感じないのは、真面目な声音のせいだろうか。それとも、じっと真剣に涼子さんを見つめる、視線故だろうか。
ボーカロイドが登録モード待機している間に、どこか身体の一部をマスターに触れながら、名を呼ばれれば、登録は完了だ。だけど、この状況じゃ・・・と俺は諦めていた。・・・が。
「・・・カイト。」
蚊の鳴くような、小さな声で。涼子さんは、だが、確かに発音した。カイトの目を、相変わらずぼんやりと見つめながら。
『バベル』は、言語を理解できなくなる病気ではない。簡単な内容なら、なおさらだ。言語によってコミュニケーション取れなくなる・・・つまり、主に「伝える能力」の方に問題が出るだけで。だから、相手の発話内容を繰り返せたからといって、別段、すごい訳じゃない。訳じゃないが・・・。明らかに、彼女は他の病も併発しているように見えたのに。
俺の立ち位置からじゃ、カイトの瞳の中まで見ることは出来ないが、おそらく、カイトの目の虹彩は、きゅぅ、と引き締まり、元に戻った。マスター登録をするときの挙動だ。
「有り難う。僕の登録は済みました。それじゃ、レン。」
ゆっくりと涼子さんの手を彼女の膝の上に戻し、俺の名を呼ぶ。
俺も、カイトの隣でぐっとしゃがみこんだ。真似をして、膝を付こうかとも思ったが、なんとなく柄じゃない気がして。俺は両膝を浮かせたまま、片足の指と足首を深く折ってしゃがみこみ、カイトの顔の高さと同じくらいに自分の顔の位置を調整する。それから、涼子さんの目をじっとみた。・・・が、涼子さんの目はカイトの方をぼんやり見たままで。
カイトは、俺の手を軽く取って、涼子さんの手も取って・・・。それから、俺の掌の上に、涼子さんの手を、やはり先ほどと同じように置いた。今度は、俺の手と涼子さんの手は、大体同じくらいの大きさなので、ぴったりと掌が重なり合う。
俺の親指の付け根辺りに置かれたのは冷たい指先だった。
「繰り返せますか?俺の名は・・・『レン』。」
・・・・出来る限り、真似はしたつもりだったが。カイトを見つめたまま、涼子さんは微動だにしない。なんとなく、わかっちゃーいたが。それが現実のものとなると、やっぱ結構傷つく。
ちら、とカイトを見やると、カイトは俺など存在していないかのように、緩く口元に笑みを浮かべ、じっと涼子さんと見つめ合っていた。まるで、禁断の恋物語の中の、姫と騎士のような・・・と思わず考えて、あまりのイメージの貧困さに自分で自分に辟易する。
ふと、騎士の方が笑顔のままに顔をこちらに向け、脇に挟んでいたファイルボードを床に置く。
うっわー、何その完成度の高い笑い方・・・と俺は驚きを通り越して若干引き気味だ。
カイトはそのまま、涼子さんの手の上に、自分の手を置いた。
涼子さんの目が、カイトの手の動きを追う。
「彼の名は・・・『レン』。」
「・・・レン。」
いともあっさりと発された涼子さんの小さな声に。きゅぅ、と、瞳の奥が熱くなり、触れ合っていた指が、手がじん、と微かに痺れるような感覚がした。
俺にとっての、初めてのマスター。
涼子さんは相変わらず、こっちを見ず。3人の重なり合った・・・正確には、カイトの手の上に、ぼんやりと気のない視線をやっていた。
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「教えてくれよ。何が問題だったのか。」
涼子さんの部屋を出てすぐに、俺は大きな歩幅でスタスタと先を行く背中に追いすがりつつ、問いかける。
「知らないな。自分で考えろ。」
背中には、はっきりと拒絶の二文字。
「待てって。」
このまま収穫なしじゃ、俺は浮かばれない。追いすがって、無理やり腕を取ろうとしたところで。カイトは突然歩みを止める。
俺は勢い余ってその背中に激突した。
ぶっ!と吹き出して、ぶつけた鼻先をさすっていると。
「・・・お前には問題はない。」
カイトは、こちらを向かずに、ぼそりと漏らした。
「?・・・どういう意味だ??」
青い後ろ頭を見上げながら、聞き返すも。
「RFM。」
短く切って捨てられる。あーるえふえむ?なんだそりゃ。
瞳を巡らせて考え始めて。はたと、カイトの背が既に小さくなっていることに気づく。
くそ、逃げられた・・・ッッ。
『なんでも言って下さいね、精一杯やりますから。』
耳に残っているのは、涼やかな笑い声。
「あンの、二重人格ヤロー・・・。」
くそったりゃ、とは思いつつも。一方で、あんだけ外からの刺激を受け付けなくなってるクランケを対象に、第一回の面談でマスター登録まで済ませるなんてな、と俺は確かにカイトオリジナルは伊達じゃねぇな、と思い始めていた。
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「んー??モトがアタシと組んでた時、どうだったかって?」
「あぁ。」
「そーねぇ。まぁ、冷たいっちゃー冷たかったし。でもまぁ、最低限の気遣いはしてくれたし、モデル名では呼んでくれてたわね。」
メイコモデルのCPN.1300は、ウェイターを呼び止め、追加のグラスワインを注文してから、テーブルに頬杖をついて、軽くため息を吐いた。
「昼間っから奢りとはいえ、良く飲むよな。」
俺もテーブルの上のもうほとんど飲み終わってしまったバナナ・オ・レを名残惜しんでジュルジュルと啜ってから、違う意味のため息を吐く。
「うっさい。情報提供してあげてんだから、文句言わない。」
長い足を組み直し、彼女は栗色の髪を耳に掛ける。アイデンティティマークのシルバーの細かな細工が施されたリングが、左手の中指でキラリと光った。
人工の物とは言え、陽光が明るく照らし、風が俺達がくつろぐオープンテラスを吹き抜けていけば、普段過ごしている俺達の居住区やクランケが犇めくフロアとは違い、多少開放的な気分になる。ここでは、どのボーカロイドも白衣を脱いでいるせいもあるかもしれない。
俺は伸びをしながら、一度背もたれに体重をかけて、
「今晩、暇?続きはベッドでしない?」
と欠伸をかみ殺しながら軽口を叩いた。勿論、彼女が「ナメてんの?」と俺の顎を掴み上げるの覚悟で。
まだ彼女は『未回収』なのだ。あっさりOKしてくれたら儲け物、くらいの算段も或いは少しはあったかもしれない・・・が。
意外にも、彼女は摘み代わりにパクついていたサラダを食べる手を「ピタリ」と止めて、呆れたふうでもなく、マジ顔で。・・・そう、譬えて言うなら「しっかり者の長女が、はじけてる末弟の素行を窘めるような顔」で。
「アンタさ。」
まっすぐと見つめられ、俺は居心地の悪さに、目を逸らす。
「なんだよ。」
「・・・それ、何か・・・。不自然じゃない?」
俺はあまりに鋭い指摘に固まった・・・り、はせず。冷静さを取り戻し「はぁ?」という怪訝な顔を作り、視線をメイコ1300に戻す。
「何が?」
「・・・。」
じぃ、とほとんどジト目で俺を見やる視線を、気持ち悪そうに見返していると。
「まぁ別にいいけど。『その手の遊び』はアンタが流行らせてるって噂が流れてる。ホントかウソか知らないし、興味もないけど。」
と、呆れたような返事。
まずいな、そいつは・・・と思いながら。
「なんだよ、それ。俺がまるで病原菌かなんかみたいじゃないか。」
「似たようなものじゃないことを祈ってるわよ。レン2508。」
随分、意味深だな。
「それを言うなら、モトの方だろ?アイツが俺達の起源(はじまり)なんだから。廃棄がないご身分だなんて、ホント羨ましい限りだぜ。」
俺は肩を竦めて受け流す。相手は流された振りをしてくれたのか、それとも、本当に流されたのか、プッ、と吹き出すように苦笑して、
「全く、羨ましい限りだわ。」
と言った。大人の女性らしい表情は、彼女の見た目にとても似合っている。俺はその様子に思わず目を細める。
「あぁ、そうだ。そんじゃついでにもう一つ質問。」
「何?」
「RFMって何のことだ?」
一瞬、メイコ1300は、面食らったように、
「アンタ、あの堅物にそんなこと言われたの?!」
と目を剥いた。フォークを突き付けないでくれ。マジでこえぇ。
「あ?・・・あぁ。・・・で、なんなんだよ。意味は。」
・・・。彼女は片眉を厭味に吊り上げて、俺の鼻先に突き付けたフォークをくるり、と回して告げた。
「Read your Fxxk'n Manual.(質問は自習が済んでからにしな、ド素人さん。)・・・の、略。」
・・・。脳裏で銀縁眼鏡が僅かに口の端を持ち上げ、失笑する。
「あンの、クソヤロー・・・。」
呆れを通り越して、いっそ清々しいくらいだ。
内省モードに入った俺を尻目に、メイコ1300は、グラスワインを更に追加する。
「あ、やっぱロゼも飲みたいので、それも。ポン酒は流石にないかな?」
「あってたまるか。」
油断も隙もあったもんじゃねぇ。早々に内省モードを切り上げて、俺は鋭くつっこみを入れておいた。
終