忘れえぬ君 2

3、らしくない男

「オスカー。其方らしくないミスだな。ここ2日で、何件になると思う。」
「はっ。既に3件です。」
ふっと遠くを見てから、その色の濃いブルーがギッと、こちらを射貫く。
「たるんでいるとしか思えぬっ!」
「申し訳ありません。」

「・・・何か言いたいことはないのか。」
欲求不満で集中できません、なんて言ったらどうなるんだろうな、なんて暗い考えが頭をよぎる。
大体こういう非生産的思考に取り付かれていること自体、既に俺らしくないのだ。
「いえ、ありません。体調にも特に問題は。単純に、集中していなかったのだと思います。大変、申し訳ありません。」
「集中できない理由に心当たりがないのか、と聞いているつもりだったのだが。」
ふぅ、とジュリアス様が眉をよせる。
私事で仕事に支障をきたして、上に迷惑をかける。もう最悪だ。格好悪さもここまでくると、手がつけられない。
「いえ、全く心当たりがないわけでは。ただ、瑣末なことですので、ジュリアス様のお耳に入れるようなことではありません。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした。近日中に必ず対処いたします。」
「瑣末なことでここまで迷惑をかけられてはな。まあ、言いたくないのならば、それもよい。近日中に必ずだな。」
全くもって、おっしゃる通り。申し訳ありません。
「はっ。」
「うむ。用はそれだけだ。下がってよい。」
「はっ。」
マントを翻しつつ、近日中に片がつかなかったら大目玉確実だな、と自分の首が絞まっていくのを感じていた。

もう何日に御無沙汰だ・・・俺はつまらんことを考えた。リュミエールの一件が解決してから、早4週間。その間、一度も、だ。
そもそも、俺がこういう事に飢える、なんてのは想像したことがなかった。欲望そのものがなくなるんなら、まだいいが、悶々とした気持ちは募る一方。
オリヴィエと嫌な事実を確認してから、もう女性に声をかけることもできない。
俺は士官学校でモテない、あるいは女性に声をかける勇気のない男どもが「やりてぇーーー!!」と窓の外に向かって遠吠えしていたのを思い出していた。その時は、そんなだから、お前らモテないんだよ、なんて思ったものだったが。ああ、今ならお前達の気持ち、痛いほど分かるぜ、チキショウめ。俺も大声で叫びたい。

自分の執務室に戻るなり、くそっ、と、思わず机を叩く。
そんなときに限って、運悪く秘書に見つかってしまう。
「オスカー様。コーヒーお入れしますか?」
普段はリシア、この有能な秘書が自らコーヒーを入れることは、あまりない。彼女は気をつかっているのだ。
「ああ、ありがとう。」
何食わぬ顔で、椅子に身体を預けた。この女性に振られた後の、2日間がいけなかった。怒涛の2日間のお陰で俺はすっかり格好悪くなってしまった。一度ケチがつくと、男なんて皆こんなもんだろうか、なんて、、、気の弱い親父か、俺は!!
彼女の一件はその後の二日間とは無関係だ。そんなこと、分かりきっていた。だが、寧ろそれだけに、彼女が俺の身に最近起こったことと、彼女自身の仕打ちを、結び付けて考えていないかが、気掛かりだった。
しかし、既に別れた女性をプライベートで食事に誘うのはためらわれたし、公私混同は一応(この一件でなし崩しになりつつあるが)、俺のプライドに反する。結果、彼女と俺は、互いに微妙な距離感を味わうはめになっていた。
目の前に置かれるコーヒーカップを華奢な指が支えている。女性の中では特に小柄というわけでもないが、その華奢な身体付は、男性の庇護欲を擽る。
って、エロ親父か俺は!!
仕事に集中しろ、仕事に!!
「差し出がましいことですが、」
と、俺の苦悩を知ってか知らずか、リシアはコーヒーを乗せていた盆を両腕で抱え込んで、声をかけてきた。
「どうしても今日中に決裁や確認が必要な資料だけ、こちらにまとめさせて戴きました。本日は、これのみ終わらせていただいて、その後はお休みになられた方が、よろしいかと。」
机のテーブルの隅に、きっちりとまとめられた書類の束があり、その上にタスクリストのようなものが大きめの附箋で貼られている。それをチラリと横目で確認して、
「俺が疲れている、と?」
その青灰色の大きな瞳を仰ぐ。細ぶちのメガネがその魅力を露にしないよう、きらり、と光を反射した。
「ここのところ、睡眠を取っていらっしゃらないようですし、食事もあまり取られていないとか。一度身体をお休めになりませんと。」
「仕事の効率は下がる一方?」
意地悪く、その先を繋いでしまう。一瞬、逡巡する表情を見せたリシアだったが、
「はい。」
とはっきりと、答えた。
気持ちの良い部下だ、と思う。俺より多分、頭も切れる。
「取ってないんじゃなく、取れない、んだが。」
と、俺は愚痴を言った。これは、甘えだ。公私混同に、抵触しない程度の。気持ちの良い部下に対する、甘え。
「お察し致します。良い薬を処方する医師を調べましたが、いかがでしょう。」
「薬か。」
今度は俺が逡巡する。薬は好きじゃない。最近はルヴァの薦めで飲むとしても漢方ばっかりだ。
それにしても、随分リシアも真面目に考えてくれている、と俺は苦笑しながら、
「薬は好きじゃないが、リラックス効果のありそうな、音楽や茶、枕なんかを試してみよう。手配を頼む。今日はこの仕事だけ片付けて、上がるよ。ありがとう。」
「はい。早速手配致します。」
結局リシアの提案に乗った。俺の不眠症に彼女が自分で出来ることを提案してくれた事にも感謝して、彼女の気が済むように、努力してもらうことにした。何もするな、という方が彼女も辛いだろう。俺は「今日中の仕事」に集中することにした。

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『んっ。きつ・・・い。力を、抜いて。』
熱い吐息が首元にかかる。身体の内側がドロドロに融けそうだ。
『そのまま、息を詰めないで。後少しで、終わるから。』
『はっ・・・。ぁっっ!』

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーっっっ!!!」
俺は自分の絶叫で目を覚ました。時計をみれば、まだ4時を回ったばかり。午後3時に執務を終えて、私邸(いえ)に戻って、まだ30分ほど仮眠を取っただけらしい。
汗をじっとりとかいていた。思い出さないように、してるってのに・・・むしろ日に日に、記憶が鮮明に蘇るようだ。
強烈、だったんだろうな。やっぱり。
なんて、もう何十回目かの夢に、俺はため息をつく。強烈すぎて、忘れられない。強烈すぎて、普通に女性を抱けない。「抱く」のを怖がってる俺がいる。

リシアが焚いてくれた香も、この強烈さの前には無力らしい。
俺はちょっと早すぎるなとは思いながら、寝室に備え付けた食器棚からウィスキーを取り出した。グラスに注ぎ、そのままストレートで煽る。

こんなことを、真面目に考えるなんて、と俺は自分のプライドが音を立てて崩れていくのを感じながら、この懸案に対する打開策を真面目に考えていた。素面じゃとても無理だ、と俺はもう一度、ウィスキーを煽る。酔えなくてもいい。酒が入っていた、という言わばお墨付きがあれば。

抜けばいいんだ、と思う。物理的に性欲を処理すれば。
それで多分、仕事に支障をきたしてた部分はクリアだ。でも自分でも出来なかったし、女性も抱けない。第一物理的な性欲処理に女性を付き合わせるなんておぞましい真似は、俺には無理だ。根本的な解決は先にしても、とにかく仕事に集中できるようにしなければ。
頼れる相手は、前回事情をある程度話したオリヴィエに、土下座して頼み込むか、元凶のリュミエールに責任を取らせるか、くらいしか思いつかない。他は論外だ。
あるいは、抜くのではなく、そもそも欲求を抑える薬関係に手を出すか。これは後が怖いが、仕事に集中できるようになるのであれば・・・一生そうなるわけではない、という都合のいい薬があればいいが。しかし、だれに相談する?ルヴァは情報が知らないうちに漏れそうだからパス。となると、王立研究員に相談・・・か。もしそんな都合のいい薬がなかったら、恥のかき損だ、当てがない以上、パスか。
どの選択肢も当たり前だが厳しい。

頼み安いのはオリヴィエ、だれにも借りを作らないのがリュミエール。
候補は二つ。

どうせなら、さっさと済まそう。と、もう一度グラスを煽って、俺は、私服を取りにクロゼットに向かった。

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4、奇妙な男

「これはこれは・・・。何の御用ですか?オスカー。」
細身のスラックスに、上は素肌に黒いシャツを大ざっぱに羽織って、如何にも私用です、という体に少し驚きながら私は用件を聞いた。
「茶を、しばきにきた。」
しば?・・・
「は、はぁ。ハーブティでもお入れすればいいのですか?」
面食らっている自分がいる。あれ以来、ろくに顔も合わせてなかった(おそらく私を避けていた)この同僚が、何を思ってお茶をしにきたというのか。全く本心が掴めない。
「入るぞ。」
ちっと、舌をならし、質問に答えず勝手に上がろうとする。相変わらずの強引さ。
「すみませんが、2階の応接室にお茶の用意をお願いします。」
手近にいた者に、軽くお願いする。1階の応接室は、描きかけの絵があり、一時的にアトリエと化している。

応接室に入ると、主の案内より先に、ソファに足を組んでふんぞりかえって座っている男が口を開いた。
「金の、ネックレス、返してくれ。」
私も向かいのソファに腰を降ろしながら、なるほど。確かにそんなものがあった、と思い出した。あの夜にもう一人の私、ルヴァ様の言うところの「ルゥ」がオスカーから取り上げて、そのままになっていたものだ。
「はあ、わかりました。寝室、というか。隣の部屋なので、取ってきます。こちらに居てください。」
「寝室」は失言だった。オスカーもあの一件は早く忘れたいに違いない。しかし、それならそうと、最初からそういえばいいものを、とは思いながら、私は降ろしかけた腰をまた上げる。
部屋はすぐ隣だ。廊下に出て、寝室の扉を空ける。ベッドメイキングが終わったばかりらしく、部屋にはほんのりと糊の効いたシーツの香りがした。
ベッドサイドボードの、小さな引き出しを開け、中身を確認する。切れてしまった細い金色のチェーンと、イニシャルの入ったシンプルなプレート。どうせ彼らの主従関係の証に違いない。いや、所有者を識別するためのタグかもしれない。
ああ、鬱陶しい。
四六時中目につく、その主従関係のワンシーンを思い出して、私は内心舌を出した。さて、応接室に戻るか、ときびすを返したところで、不意に、
パタン、
と、部屋の扉を締める音がした。

不審に思って、ひょいと扉をみると、オスカーが部屋に入ってきていた。開き戸の片方にもたれ掛かって、部屋を眺めている。
「大切なものなのは分かりますが、今もって行く所ですよ。何も、そんなに焦らなくても。」
思わず失笑してしまう。それに、この部屋には嫌な思い出が沢山あるでしょう?と、少し意地悪く思う。
事実、部屋の調度品を見回しているだけで、オスカーは蒼白になっていく。思い出しているのだ。あの夜を。
「さ、出ましょう。あまり気分が良くないでしょう?」
オスカーの隣にたって、扉を開けようとする。と、その手首をオスカーが痛い程に握ってきた。
「痛いですよ、オスカー?どうしました?」
様子が変だ。少し顔を傾げて、その顔を伺う。
すると、私の手首を握り締めた左手を軸にして、オスカーは扉にもたれていた背中をぐいと、持ち上げ、そのまま身体を反転させる。自然、私は彼に至近距離で背中を晒すことになる。
ドン!!!
烈しい音。
扉を、私の頭の右上当たりをオスカーが強く拳で打ったのだ。私からは拳しか見えない。その表情も何もわからないが。
「なんでもありませんっ。入らないでくださいっ!」
とっさに私は周囲の人払いをする。そのままにしていたら、心配してかけつけた家人で大騒ぎになる。動揺しながらも、私はクルリと後ろを振り返った。目の前にオスカーの顔をにらむ格好になる。これだけ至近距離だと、彼の身長が私より5、6cm高いことが、ちょっとしたハンデのように思えるが、腕っ節では負けないことは実証済みだ。
「喧嘩を、売りにきたのですか?」
ありえなくはない。お礼参りを発起する程度の、それだけの傷害は負わせただろう。それに、微かにではあるが、アルコールの香りが彼からしていた。
「そんなんじゃない。」
優男風の、喉の奥から出てくる声。なんだか、泣きそうになるのをすんでで堪えるかのような。オスカーは扉に張り付いていた拳をはがして、そのままベッドに向かい、どすっと腰を降ろした。そのまま、両手で頭を抱えこむ。
「なんなんですか、一体。」
ふん、と自分の鼻から空気がぬける。オスカーに歩みより、むりやりその手にネックレスを握らせた。
「返しましたよ。とりあえず。お茶、飲まないんですか?寝室で召し上がりたいなら運ばせますが?」
何しにきたんだか。本当に。
「あー!俺は本っ当にお前が大っ嫌いだっっ!!」
今更口に出す必要のない台詞と共に、ぎりり、と突然睨まれる。涙目?
まさか、何故に?と目をこらす。
「責任取って、俺を抱けっ。」
今度は突然下を向く。

は?
時が一瞬止まる。

ぶるるるるっとそのままオスカーの肩が戦慄いて、
「やっぱり、いいっ!!」
ばっと腰をあげて、部屋を飛び出そうとする。私は反射的にその手首を掴んでしまった。思いのほかその手は強くぶつかったのか、ばしっと穏やかでない音が伴う。その後ろ姿からちらりと見えた、耳たぶが真っ赤に染まっている。
「ま、さか、あれで味を占めたとか?そういう??」
「んなわけないだろうがっっ」
私は正直そういう趣味は無い。ルゥがオスカーを抱いたのはおそらくあの男にされてたことへの癇癪のようなものだし、私がオスカーを抱いたのは、あの男の手前、抱かざるをえなかったからで。
無論今も、抱けと言われれば抱けるが、それはむしろ、「その身体を傷つけてやったら」とか「その顔が苦痛や快楽に歪むのを見たい」という意地の悪い感情がこちらの根底にあるからだ。
「いきなり抱けと言われても。こちらは構いませんが、貴方にメリットがありませんでしょう?」
この間は四肢を拘束して無理やり抱いた口が良く言う、と我ながら思うが、あれはルゥのしたことなので、少し割り引いて見てほしい。
「・・・不満で・・・そうなんだっ!」
こちらを見ないまま、絞り出される小さな掠れ声。
「なんですって?」
「女性が、抱けなくて、欲求不満で、死にそうなんだ!!」

ほーーーーーーーー。それはまた。
「そんなに、良かったんですか。」
他の人間とできなくなるほど?続きは胸中に抑えつつ、思わず感想がぼそりと漏れる。口の端が、喉の奥が、笑いを堪えるのに必死だ。
その声に反応してか、ぐい、と。不意に正気を取り戻したような、オスカーの憮然とした顔が、身体ごとこちらを振り向く。
「・・・お前に頼んだ俺が馬鹿だったようだな。帰る。」
心底辟易して、だがしっかりとした声。
そう、そういう雰囲気じゃないと、貴方らしくない。
知らず、自分の手がその傑作ともいえる彫刻の頬に伸びる。その手を無視して、怒りを孕んでこちらを見つめる瞳。
「性欲処理の相手に選んでいただいて光栄です。」
興味なら、ある。他人を抱くにはそれで十分だ。
「お前は、平気なのか。」
少し、その強気な瞳に陰が落ちる。
「何がですか?」
「好きでもない相手と。その、そういうことを。」
だめだ。堪えきれない。このいい男風の陰をしょった物言いが、まるで演劇じみているから余計悪い。口の端から思わずフフフっと笑いが漏れる。
「私の忌まわしい生い立ちを知っていて、そう言ってくださるのは嬉しいですよ、オスカー。」
はっ、と一気に息を吐き出して、笑いに乱れた顔をリセットしつつ、笑える事実をもうひとつ、確認。
「貴方が、これまで一夜を伴にした女性はすべて本気だった、ということですね?」
「勿論。」
自信満々の即答。
「それならきっと、より強い愛を与えてくれる女性が現れたら、その魔法は解けますよ。」
態と、オスカーが使いそうな言葉を選ぶ。内容は勿論適当だ。
「それまでの間でしたら、いくらでも御相手しましょう?私は、その魔法を図らずもかけてしまった張本人ですし。丁度良いことに、貴方と違って、『そういうこと』をするのに、愛は必須でないので。私にとっては生理現象ですよ、ただの。ですから、甘いのを期待されても、私には無理ですけれど、ね。」
うっとりと呟き、その項に指を絡めた。オスカーの顎が少し浮いて、その目がうっすらと細められる。
すっかり楽しくなっていた。本気の相手としか寝ないと言って、憚らない男が、排泄所と対して変わらない扱いを受けていた男に抱かれて、本気の相手と致せなくなったなんて、えらく気の利いたジョークだ。そして有り余った性欲を処理するために、自ら排泄所になりにきたとは。
チロリ、と思わず上唇をなめて、掴んでいた手首をそのまま自分の方へ一気にぐい、と引き寄せる。その長身がバランスを失って、ベッドにうつ伏せに倒れこむ。

「早く済ませろよ。」
向こうを向いたまま、どうでも良いことのように男は言った。
色気のないことだ。
「雰囲気ぐらい協力しても、バチは当たらないと思いますが?」
文句を言いながら、ゆっくりとその身体に手をかける。肩を掴んで上向かせると、オスカーは手の甲を瞳に当てて、その表情を隠した。
その下にどんな情けない顔があるかは、想像がつく。構わず身体を屈め、その唇の輪郭を舌先で、ゆるゆると、なぞってみた。薄い唇の柔らかい感触。そのまま、つい、と唇の間に舌を差し入れる。
意外にも、その舌は簡単に受け入れられ、中に誘われる。
と、不意に強く侵入した舌を絞るようにオスカーの舌が絡み付き、こちらを強く吸ってきた。

その瞳は隠されていて表情は分からない。
『なんのつもりだか、知らないが。』
自分の中で怒りにも似た、熱い感情に火がつくのを感じた。丹田の辺りがぐっと堅く締まり、脳がスッと、覚醒する。
知らず、どちらが口内の主導権を取るかの競い合いが始まった。相手を屈服させるために痛いほど舌を絡め、中を舐り、唇ごと吸いこみ、貪る。相手が飲み下しきれないほどの唾液を流し込み、喉の奥まで舌をいれ、その息を詰まらせる。
「んむっ・・・ふっ・・・」
吐息が音を伴って互いの唇から漏れ出る。
容赦のない応酬の中、オスカーの口の端からあふれ出た唾液は、そのまま、顎や喉を濡らし、シーツへと伝っていく。私には重力が味方するが、相手はその逆だ。
「ぐっっ、がはっ、ごほっっ。」
長い応酬の結果、結局、気管に唾液が入ったのか、オスカーが咳き込みはじめ、その争いは呆気なく幕を閉じた。とはいえ、こちらも息もつかずのやり取りに、多少なりと肩で息をする。
「なんの、真似です。」
何故腹が立つのか、自分でもわからなかったが、腹立ち紛れに言う。
「雰囲気に協力しろって言うから、協力してやったんだがな。」
と、片目だけガードを外して、勝ち気な瞳が見上げる。口の端がくい、と上がった。
そのニヒルな笑みに、完全に自分の昏い欲望のスイッチが入るのが分かった。知っている。この感情は、支配欲。

「なにか、勘違いしているようですね、オスカー。」
その身体の脇に投げ出されていた左手の掌を、上から自分の右手で押さえ込み、オスカーの腰の当たりを跨いで、真上からその顔を見下ろす。さらり、と自分の髪が肩からいくらか滑り落ちた。
アイスブルーの瞳が、勝ち気な色を失って、だがそれでも気圧されまいと光を放つ。
「抱いて欲しいのは、貴方の方でしょう。」
見下ろした表情は無表情のまま。だが、ぴくり、と一瞬その眉が反応する。その耳元に唇を近づけ、吐息をかける。
「助けてくれ、身体が疼いて仕方がない、抱いてくれ、と貴方が言ったのでは?」
「はっ・・・。ぁ・・・」
怒りに任せて、身体を起こそうとするだろうと、がっちりとその身体を体重で固定していたのだが、予想外に、抵抗の意志より先に甘い反応が返ってくる。
そんなに?と、少し驚いて固まっていると、本人も同じく自分の反応に驚いたのか、目を見開いて、固まっている。
「身体は正直、というやつですか?」
まるであの男のような言い草が口をついて出る。ふふふ、と自嘲しながら、そのまま首筋をぞろり、となめ上げる。
「くっ・・・」
声を堪えるためか、唇が噛み締められ、頬にさっと朱が走る。苦痛に歪められるように、キュッと、その形のよい眉が寄り、瞳が堅く閉じられた。
なかなかどうして、面白いじゃないか。

鎖骨の辺りを口で吸いながら、服の上から空いていた左手でオスカーの反応を確かめる。さわ、と布の上から撫ぜ上げただけで、身体全体がびくっと大きく反応した。
「もう、きつそうですね?」
「知るっんっっ!!」
知るか、と言いたかったであろう台詞を、ぎゅっとそこを掴んで遮る。「服を脱いで、ベッドに上がって。」
うっとりと、耳元に吹き込む。明後日の方向を向いた瞳は、かっと見開かれた後、羞恥に妖しく揺らめく。目元の際まで紅潮したその顔が、わなわなと力無く唇を震わせて、諦めたようにフン、と横をむいた。
そのまま手元も見ずに乱暴にシャツのボタンを外し、手早くパンツも靴もその場に脱ぎ捨てると、ベッドからはみ出していた足をグルッと乗り上げ、さあどうぞ、とばかりに大の字に寝転んで、目を閉じた。
その腰の近くに、私は腰だけかける格好で、顔だけその顔に寄せて、
「し・た・ぎ・も。」
と、笑いをこらえて吹き込んだ。
さすがに頭に来たのか、ばっと体を持ち上げて、逃げようとするのを、左手で相手の右肩を押し返し、そのままベッドに縫いとめる。サンダルだけを、足を使って私も脱ぎすて、そのままベッドに上がって唇を吸い、その左肩を吸った。
よほど身体が乾いているのか、過剰ともいえるほどの反応を返してオスカーはおとなしくなる。
『このまま抱いてしまうなんて、少し勿体ないな。』
などと不埒な考えが頭をよぎる。
『だが、これきりという訳ではあるまい。』
頭で我ながらあざとい計算をしつつ、今日はこの気の毒な同僚を、そのまま抱いてやることにした。

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乾いた身体はいとも簡単に快楽に流され、やや呆気なく私を受け入れ、事が終わろうとするころには若干毒気を抜かれてしまった。けれど、貫くたびに、揺らいだ瞳が一瞬、意志の強さを取り戻して光るのを、不思議に感じて、この光だけ、ずっと眺めていたいとも思わされていた。
あの時も。
ふと、あの一件で、彼のこの光に少々魅せられていた自分がいたことを思い出す。思い出しながら、悪く、ないじゃないか、と自分にそっと呟いていた。

情事のあとの倦怠感で眠気に搦め捕られつつある頃、オスカーがむくりと起き上がってやや乱暴に衣服を身につけ、部屋を抜け出そうとするのを気配で感じた。
「次は、土の曜日に。」
低く呟くように私は扉の方を意識しながら、目を瞑ったまま声をかけた。返事はなく、パタン、と控えめに扉を閉める音が響いた。

寝返りを打つと、馴染みのない芳香がシーツからふいと、鼻腔をつく。
奇妙なものだ。もっとその身体を、心を辱めてやりたいとは思う。だがもし彼が二度とこの部屋を訪れなかったとしても、私にとってたいしたことでもあるまいに。なぜ、約束めいたことを自ら言い出したのだ?
どうでも、いいか。夕闇に沈みかかった部屋で、心地よい微睡みの中、面倒になって私は思考を手放した。

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5、帰って来た厄介な男

「オリヴィエ!オリヴィエはいるかっ!?」
「オスカー様っ?!お、オリヴィエ様ならお戻りですが、少々お待ちください。あのっいまっ。」
「オリヴィエッ!入るぞっっ!!」

食事の前にシャワーでも浴びて一杯、とワインを選ぶために地下に行き、ワインセラーから上がってホールに顔を出すと、エントランスはえらく賑やかだった。

賑やかさの中心に、これまた、えらく目立つ緋色の頭を見つけ、なんの用かしら、と近づく。平日はめったに飲みに来ないし、第一、仕事虫のオスカーが来るには少し早すぎる時間だ。
「オスカー?えらい剣幕ね。どしたの?」
近寄って顔を覗込むようにすると、
「シャワー貸してくれ。」
能面のような無表情がこちらを向いて、さっきまでの騒ぎとはまるで別人のように淡泊に告げた。
そのまま勝手知ったる、といった足取りでアタシの寝室に向かう。
半ば呆然とする家人たちに気づき、
「タオルとオスカーでも着れそうな服を見繕ってもってきて。寝室のシャワーを使わせるから、寝室の前に置いといてくれる?後はアタシがやるわ。」
ちゃちゃっと指示を出して、オスカーの後を追う。アポなしで勝手にアタシの予定をかき乱すのはいつもの事だけど、どうも様子がおかしい。あの執務室での一件以来、ろくに声もかけてこなかったくせに・・・

「洗面台の脇に替えの服置いたあるわよー。」
シャワールームから出ようとするタイミングを見計らって、声をかける。しばらくすると、白の織柄のワイシャツに、黒いパンツのオスカーが現れた。もともとゆるめのサイズのものを、ベルトで調整している。
「この後ろのキラキラがないやつはないのか?」
憮然とした表情で頭を乱暴にタオルで拭きながら早速文句を言う。
貸したパンツには後ろの左ポケットから、膝裏にかけて、スワロフスキーのクリスタルが流星の形に縫い付けてあるのだ。
「一番地味なのもってきてくれてるはずよ。なんなら燕尾とか喪服とかもってこようか?」
嫌みっぽく笑ってやる。
「・・・我慢する。」
若干唇をとがらせ気味に、そっぽを向きつつも、辛うじて納得したらしい。アタシは笑い顔を作りつつ、頭は別のことを考え始めていた。
おとなしく、アタシの服を着るなんて。と。
いつも用意しても手をつけず、汚れた服を再び着ることの方が多い。さすがに外で遊びほうけて、土だらけになった時はしぶしぶ着替えを使っていたが。
「どぉ?」
「ん。サンキュ。」
勧めたワインは水を飲むかのようにゴクゴクと飲みほされた。軽目のものとはいえ、そこまで安物でもないんですがね、と少し心がいじける。しかし、やはりちょっとおかしい。酒はいつも蘊蓄いいながらゆっくり飲むはず。喉がカラカラってことかしら?
ちょっとだけグラスを上げて、アタシも一口。うーん。仕事の後の一杯はいいわね、やっぱ。
「腹が減った。」
突然の来訪者で癒しの一時は台なしだけどさ。
カチン、と来たついでに今更ながら常識的な事を言ってみた。
「アンタねぇ、家帰って食べなさいよ!」
「なあなあ、腹減った。」
こいつはっ・・・。

状況に流されるようにして、リモコンの内線ボタンを押す。
「あのさー。オスカーがなんか食べたいって。軽目のもの、なんか作ってくれる?」
部屋のモニターに目をやりつつ、自分の人の良さにいい加減、うなだれつつも力無く伝える。
「はい。もちろん可能ですが、オリヴィエ様のご夕食の用意もそろそろ整います。よろしければご夕食を追加いたしましょうか?」
アタシの人の良さもこのベテラン執事には負ける。
「おー。今日の夕飯はなんだ?」
「本日はフカヒレの姿煮・バルサミコ風、前菜は豆腐のキャビア乗せでございます。」
「ふーん。中華か。ラー油置いといてくれ。バリ辛のやつ。」
「かしこまりました。」
その互いの勝手を知ったる態度に、アンタらいつの間に連帯してんのよ?!と突っ込もうとしたところで通信が向こうから切れた。おーい。この館の主は誰??というかバリ辛のラー油なんてわが家にあるの?
なんて、言いたいことはいろいろあるけど。
「オスカーーー?」
と、怒りを堪えて名を呼ぶのがアタシには精一杯。
「あ?」
不機嫌に上げられた方眉に、なんか、まあ、一人で食べるより、いっか。なんて納得しようとしている自分が居て。
「はは、アタシってばめちゃくちゃ不憫な子・・・」
小さな愚痴は誰の耳にも届かなかったに違いない。

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食事が終わり、そのまま泊まるというオスカーをゲストルームに送って、自分の寝室に戻ると、どっと後ろから疲労が押し寄せて来た。
そのままベッドに倒れ込む。
「なんなのー。あいつはっ。」
と、寝返りを打って天井を向き、いや、あいつじゃない。あいつら、か。と思い直す。何が起こってるんだか知らないけどさ。平和な生活をかき乱さないでよね。お二人さん。
たとえ、アンタが手に入らなくても、今の生活、アタシは結構気に入ってるんだから。

翌朝。起きたときにはもう館内にオスカーの姿はなかった。ゲストルームのサイドボードには、
『また来る。すまん、俺の服は洗って、それまで置いといてくれ。』
という走り書きが残されていて。
多分、朝早起きして私邸に戻り、そこから執務室に向かったのだろう。
また来る。ね。アタシは皺になったシーツの上から、ベッドに腰掛けて走り書きを指でなぞった。
また来るってことは、あの子のとこへ、また行くって事?それで、また、アタシのところで身体を洗って、一晩寝て、日常生活に帰るの?
「アタシはアンタの洗濯機じゃないのよ、オスカー。」
企業戦士の奥さんは、接待疲れで家に戻った亭主を身も心も洗濯して翌朝送り出すというけど、それってこれにちょっと近いかしら、なんて自嘲気味に思う。
「さすがに、アタシも我慢し続ける自信、ないわよ?オスカー。アンタ、それでもここへ来るの?」
くしゃりと、そのメモを潰して、周囲に割りと気を使うタイプの人間に、気を許されるとこんなにひどい目に合うのね、と天井を仰いだ。



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