断章 おだやかな時代・2


聖地に来てから二週間。
図書館の中の、ブラウジングルームは、唯一自分が自分に戻れる場所のような気がしていた。
静かすぎず、うるさすぎない。
そして、人は周りにそこそこいるのに、干渉してこない。

前から読みたかった本を、持ってきて、ここで読む。
引き継ぎや教養の合間に、ここでこうやって時間を過ごすときだけ、自分の身に起こった不幸を忘れることができるような気がした。
いや、あの状況から脱して、聖地に来ることが出来たのは、むしろ幸運だったのかもしれないが。

今日読もうと思って持ってきたのは、何遍もよんで、ほとんど内容を暗記していた最も好きな本一つ。それの原著だった。さすがに原著は読めないかもしれないと思ったが、基本文法だけをやっただけなのに、先ほどから、何故かすらすらと読めている。
内容を暗記しているからかな・・・・

暫く読み込んでいたが、ふと、視線を感じて、顔を上げた。
近くをずっと見ていたせいか、焦点が合うのに少々時間がかかるが、真っ赤な頭髪の少年が目に入り、それが誰だか思い当たった。守護聖の一人、たしか・・・
名前は・・・

少年は、きりっと、こちらをまっすぐに見据え、背筋を正して
「俺は炎の守護聖、オスカーというんだ。君は?」
と、まるで騎士団の団長みたいな口調で言う。こういっては失礼だが、ちょっと自分が幼かった頃の学芸会を思い出してしまった。
暫くなんのことか分からなかったが、挨拶を求められているのだ、と思いつく。
水の守護聖とか言った方が良いのかしら?まだ実感がないけれど。
「わ、私は・・・」
と、席を立ち、名を名乗ろうとした、その時。

急に大量の光が差し込み、彼の身体を光のカーテンが包んだ。
少し伏し目がちにされた、彼の瞳孔が、光を受けて、きゅぅと細く閉まる。
焦点の合っていないその瞳は、どこかでみた、宗教画の聖者の瞳のようで。
口元にほんのりと笑みを浮かべ、右の掌をこちらにむけた彼は、私をどこかへ誘ってくれる人のようでもあり、私をこれから裁く人のようにも見えた。
『ああ、きっと見抜かれてしまう。』
『きっと私の暗闇はこの人に暴かれてしまう。』
そう思った。
気がつくと、私は図書館を飛び出し、森の湖の湖面をぼんやりと眺めていた。

誰か、私にあの忌まわしい記憶を、忘れさせてください。
誰か、私にあの忌まわしい記憶を、忘れさせてください。

そんな、しょうもない願いを湖に投げかける。涙が止まらなかった。
男のくせに、とは思わなくなかったが、一方で誰も見てないさ、とも思った。
私は守護聖なんかになれっこない。
何故なら、私はこんなに汚れている。
何故なら、私はこんなに醜い。

泣き疲れた頃、
『こちらへ・・・』
と、湖面から誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がした。
湖面に近寄り、中を覗き込むと、自分の顔がゆがんで映りこむ。
『こちらへ・・・』
「は・・・い。」
かすれた自分の声が聞こえた。

突如、その返事に反応するように、湖の水が急にけばだつようにして、私を包むのが分かった。
これで・・・いいのだ・・・と、どこかで思った。

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ふと、目を覚ますと、見たこともない黒い天井が見えた。
「気が・・・ついたか。」
声の方に頭を振ると、黒装束に身を包んだ青年が目に入る。
たしか・・・
「クラ・・・ヴィス様?」
身体を起こそうとするが、腹筋に力を入れたとたん、げほげほと咽せ、何故か水を吐いてしまう。
使っていたカウチを汚してしまった。なんとかせねば、と身体をよじろうとすると、
「よい。無理をするな。」
と、声とタオルが上から振ってきた。
お言葉に甘えて、タオルを頂き、横になったままで、聞いてみた。
「私は・・・どうしてここにいるのですか?先ほどまで、図書館で本を確か・・・読んでいたように思うのですが。」
「そうか・・・」
と、短く、ぶっきらぼうにクラヴィス様は言い、
「私は其方が気を失っていたのを見つけたので、放っておくわけにいかず、暖めただけだ。他のことは知らぬ。」
と、付け加えた。
言い方はぶっきらぼうだし、その上『知らぬ』なんて言い捨てられたにも関わらず、なぜだか、その言葉に暖かみを感じて、涙がわき上がってきた。

しかし、図書館で、気を失うようなことなど起こりうるだろうか?貧血か?何があったんだっけ?と思い出そうとするが、ずきずきとこめかみが痛んで、思い出せない。
「考えなくて良いことは、考えずとも良い。」
急に心の中を見透かしたようなことを言われ、少なからずドキッとする。
「好きなだけ、この部屋を使うがいい。気分がよくなって、出て行きたくなったら出て行けばよい。そして、また休みたくなったらここに来るがよかろう。」
言葉は優しくないのに、その内容は優しい。
「ありがとうございます。その・・・助けてくださって。」
何かもっと他にも礼を言うことはあるような気がしたが、うまく言えない。
「礼などいらん。」
ちょっと怒ったような、すねたような声で言い放ち、衣装を翻して部屋の外に青年は出て行った。

怒らせてしまったかな、と思ったが、別に気にならなかった。
聖地に着てから、初めて図書館でも感じたことのない、安らぎを感じていた。
久々に、故郷を、胸に思い出していた。そういえば、こちらにきて二週間、家族を思い出すこともなかったな・・・何故だろう?
父さん、母さん、兄さん達・・・
ホームシックのせいか、胸の奥で、鈍痛が走る。

その鈍痛は、誰かの呻く声のような、鈍い音を伴っていた気がした。


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