よく出来た夢の甘やかな感触
オスカーと二人で出張に出ていた。
「勤務中に酒は飲まん。」と言うと、オスカーは「勿論、終わった後でですよ。」と軽く応じた。
それで、結局、任務が終わった後に、少々の視察も兼ねて、オスカーに連れられ、バーに入った。
視察を兼ねて、ということで、私は着慣れぬVネックの濃紺のTシャツに、羽織るように白いシャツを合わせ、ボトムは黒いジーンズを着ていた。オスカーは黒い少し光った素材のシャツを、着崩して鎖骨を見せている。白いぴったりとしたフェイクの革パンツを合わせていて、少々安価に過ぎる金色のバングルを複数左腕に着けていた。そんなアクセサリーが果たしてオスカーに合うだろうか、と思ったが、場末のバーというシチュエーションのせいか、奇妙に馴染んでいる。
店に入ると、オスカーに店の奥に合ったダーツコーナーを勧められ、投げ方の基礎について、手ほどきを受ける。それほど人気がないのか、ボードは二つ用意されていたが、オスカーと私の貸し切りとなっていた。
遠くにバーの客達のざわめきを聞きながら、利き目の診断や、構え方について、手取り足取り講義を受けていると、まるで気が置けない友人同士のようだな、と少しこそばゆい感覚に襲われる。
「おお!オスカー!見たか!!」
やっとボードに当たった次の一投で、ダブルブルに的中し、嬉しさの余り、声を上げて振り返ると。私から距離を取り、両腕を組んで片足に体重をかけてリラックスしていた様子のオスカーが、驚きに固まっていた。
ふふふ、と思わず得意になってしまう。
「マグレだとしても凄いな。」
聞き捨てならない呟きに、むぅ、と私は片眉を上げる。マグレとは何だ、マグレとは!と思いながら、
「もう一度投げよう。」
と言うと、「どうぞ」と私の手よりも大分男らしい、骨張った大きな手で、ダーツを渡される。うむ、と応えて、もう一度投げると、今度はまたボードから外れてしまった。振り返ると、『ね?』とばかりに肩を竦められ、面白くない。
「そんなにすぐに上達してしまっては、逆に面白くないでしょう。」
不満に思ったのが表情で伝わったのか、とりなすように笑顔で言われる。これも子供扱いされているようで、あまり面白くはない。
「拗ねて等いない。」
口にしたものの、これでは逆に拗ねているようだろうか?とも思う。
「もう一度だ!!」
恥じた気持ちを振り払うように、何度か練習をする。放物線を意識して、と習った通りにイメージしながら、何度か投げていると、段々的が絞られて来て、ボードから大きく外れる事が少なくなって来た。
「流石、飲み込みが早いですね。」
褒められて、うむ、と面映く思いながら、短く応じる。
「では、投げ方もマスターされたようですし。早速ゲームをしてみましょうか。」
切り出されて、
「しかし、ゲームと言っても、私とお前では、実力が違い過ぎ、勝負になるまい?」
疑問を呈すると、
「ハンデを付けましょう。」
と返って来た。ゲームを面白くするためには、必要だろう。私は黙って頷いた。『カウントアップ』なるダーツゲームのルールの説明を受け、私の『分かった』の返事を待って、オスカーは意味ありげに、笑んでみせる。
「何か・・・賭けましょうか。」
『賭け事等、断じてならぬ』と私が言い出すとでも思ったのであろうか。
「ふむ、嗜みの範囲であれば喜んで受けよう。ただし、私は賭け事に強い。これは公平性のため、先に伝えておこう。」
言ってから、少々意地悪い気持ちになって、笑ってみせると、案の定、おや、とやや驚いたような反応があって、
「後からそのお言葉、撤回しないで下さいますよう。」
と念を押される。ダーツを右手に持ったまま、怪我をせぬよう、注意深く両腕を組む。ふん、と自然、鼻が鳴った。
「そっくりそのまま返すとしよう。」
余程おかしかったのか、ハハッ、と額に片手を当て、弾けるように彼が笑う。任務中には見せぬ様子に、幸せな気持ちが胸を充たし、それから、こんなに幸せな時間を過ごすのは、少々贅沢過ぎるのではないか、とチラリと思った。
「では、何を賭けましょうか。」
少々の罪悪感を吐息に混ぜ込んで受け流し、瞳を巡らせ、些細なもの、些細なもの・・・と考える。
「そうだな。私が勝ったら、そのバングルを貰おうか。」
思いついて口にする。だが、オスカーは、片眉を上げると、
「コレ、ですか?もう少し良い物にして下さい。」
腕を少し上げて、バングルを見やってから、笑んで言う。もっと良い物?・・・難しい事を・・・、と思ってから、我ながら不埒な事を思いついて、緩く頭を振る。
「なんです?思いついたものは何でもおっしゃって下さい。」
下を向きかけた顔を、覗き込むようにして促される。
「言っても、断るであろう。」
私が仕方なく笑んで答えると、却って興味を引いてしまったようで、
「そんな言われ方をすると、ますます気になりますよ。何ですか?おっしゃってください。」
と、優しくも重ねて強請られる。私は仕方なく口を開く。
「いや・・・。ただ、私の言う事を、数時間、何でも聞く、というのはどうか、と思ったのだ。」
それから、虚をつかれたような男の顔に、笑って手を振る。
「だから良いと言ったであろう。」
すると、
「それではいつもと同じではないですか!」
と、予想を裏切る内容が、しかし、予想通りの呆れた声音で告げられた。
「・・・いつもと、同じ?」
意味を取りかねて、問う。
「そうですよ。私はジュリアス様の命を受ければ、いつだって、なんだってするつもりです。勿論、お諌めすることも時にはあるかもしれませんが、それとて・・・」
すっかり仕事の話になってしまったことに気づいて、私は笑って遮る。
「いや、そういった意味ではない。」
「・・・?」
どう説明すればいいと言うのだろう。私は、自ら言い出して、なんとはなしに、追い詰められてしまったような気分になる。墓穴を掘るような事だけは、避けねばなるまい。それこそ、オスカーと、そして今後の私達の使命の為に。・・・だと言うのに、うまい言い訳の一つも思い浮かばないとは・・・。私はおそらく初めて、こういった状況で、遊び心に富んだチャーリーやオスカーならば、機転を利かせ、うまく切り抜けるのであろうな、と思い、執務にばかり没頭して来た自分を恥じた。
「・・・プライベートの事だ。」
仕方なしに呟き、ハァ、と諦めの溜め息が思わず溢れる。
「プライベート?」
聞き返すオスカーに、半ば捨て鉢になって答える。
「そうだ。例えば、お前に禁欲を命ずる、と言ったら、お前は困るであろう。そういった事だと思えば良い。」
オスカーは再び、ハハハ、と笑った。
「ずっと、と言われたら私も困りますが、『数時間』で流石に根を上げませんよ。」
最後は挑戦的に片眉を上げられる。私は、ふむ、と頷いてから、
「それはどうであろう。」
こちらも挑戦的に応ずる。オスカーは小さく両手を上げ、少し俯いて顔を振る。
「分かりました。俺の賭け代は、『プライベートに関するジュリアス様の命に、数時間応ずる』でいいのですね。」
聞かれ、内心では先走って『何を願おう』等と過らせつつ、したり顔で「ああ。」と短く応じた。
「では俺は・・・。」
目を瞑って顎を撫でる男を見やる。ゆっくりと、彼の薄氷の瞳が再び現れて、私の瞳にピタリ、と視線を固定する。
「馬を。」
あまりの真剣さに、私は言葉を失う。一瞬の後、
「馬?」
と聞き返すと、真剣な瞳のままに、オスカーは一気に告げた。
「アーケイディアの産んだ仔馬を、マルセルに賜ったとか。俺も、ジュリアス様から、アーケイディアの血を引く馬を頂きたい。」
思わず、困惑に眉根が寄る。
「お前には良い馬が沢山あるではないか。しかも・・・何故、そこでマルセ・・・。」
「駄目なのですか。」
ギラリと光る瞳、遮るように強い口調で言われ、反射的に口を噤む。数秒の沈黙。生真面目に唇を引き結んだ必死な様子に、まるで駄々っ子のようだな、と思って、思わず、フッと苦笑が漏れた。
「あれには、もう一頭程は仔を残してもらいたいとは思っている。『必ず』とは約束できぬが・・・。」
応じかけると、
「では決まりです。」
ホッと何故か安堵したような溜め息を漏らして言われ、私は笑う。
「何に拘っているのか知らぬが。分かった。」
ニッ、と互いに口の端を上げて見合ってから、オスカーがカウンターに向かい、ゲームコインを店主から買い取って戻る。ボードに付けられた古びた機械に彼がコインを投入すると、安っぽい電子音が店に鳴り響き、ボードの周囲に付けられた電飾が明滅した。らしくもなく、私は少々自分の気持ちが浮き立っている事に気づく。
「では、俺から。」
先攻を選んで、オスカーが第一投を放つと、いきなり20のトリプルに的中した。後ろのハイテーブルで飲み物を片手に観戦していた私は、
ーーー恐ろしく本気だな。
等と悠長な感想を溜め息しながら思い浮かべる。二投目は僅かに上に外れ、20シングル、続いて、僅かに下に逸れて20シングル。オスカーの得点の半分に並べば私の勝ちなので、第一ラウンドの私の目標得点は、50ポイントということになる。これは分の悪い賭けか?等と思いながらも、『まあ、それで良いのかも知れぬ』と勝負事となると、勝敗に拘る自分らしからぬ殊勝な想いで、
「交代だな。」
と言って、ハイテーブルから離れると、オスカーは、すれ違い様に、にやり、と私相手には滅多に見せぬ挑戦的な顔でダーツを私に手渡してから、ハイテーブルに無言で向かう。困ったヤツだ、と失笑が漏れた。
放物線を意識しながら、ふぅ、と息を吐いて一投目を放つと、シングルブル。25ポイント。
「やったぞ!」
と振り返ると、オスカーは難しい顔でボードを見つめている。・・・ゲームを楽しむどころではないな、とやや私は呆れながら、第二投。左下に大きく逸れるが、当たった場所は19のシングルで、ほぅ、と胸を撫で下ろす。真剣に過ぎる男を振り返るのは止め、放物線、放物線、とダーツの奇跡を心で描きながら、第三投。大きく軌道が外れ、しまった、と思ったが、これはマグレで18のダブルに当たる。
結果、予想外に80ポイントを、一ラウンドで稼ぐ事に成功した。ダーツをボードから取ってボタンを押し、ハイテーブルに向かう途中、真剣な顔のオスカーにダーツを渡してから、ポンポン、と何故か私が男の背中を宥めるように叩く羽目になる。
「狙った訳ではない。ビギナーズラックだ。」
足を止めたオスカーが、
「分かっております。」
と、決然とボードを見やって答える。てんでバラバラのゾーンに当たったことを考えれば、当然の答えなのだが、私はなんとなく、『そんなにムキにならずとも良いではないか。』と思う。むぅ、と苛立ちのままに、飲み物を一口ゴクリと煽る。安っぽいアルコールが食道を焼く感覚に、私は少しばかり落ち着く。
ますます真剣さを募らせ、オスカーはスタンスの確認、肩の確認等を済ませてから、一投ずつ、味わうように放つ。第二ラウンドは、なんと三投とも20のトリプルで、180ポイント。先の100ポイントと合わせ、280ポイント。得点が入る度に、騒音を奏でる機械のせいか、それとなく、バーに居る人々が、こちらに注目し始めているのを感じる。
高得点の余裕か、
「交代です。」
といつもの健全な笑みがやっと戻って、私にダーツを渡す。『調子の良い・・・。』何事か言い返そうとして、結局黙り、コクリと頷いてダーツを受け取る。私の第二ラウンドは、変わらずブルを狙うが、7、19、20のシングル。46ポイントで、先の80ポイントと合わせても、126ポイント。低得点のコーナーに当たったのが、7だけだったというのがこのラウンドのラッキーだったとすると、かなり暗くなる戦況である。
やや落ち込みながら、投げ方を内省しつつ、交代すると、オスカーがポンポン、と私の背を叩く。はっきりと腹を立てて、
「オスカー!」
と名だけを呼んで非難するが、彼は、
「どんまいですよ。」
等とふわりと私の両の二の腕を掴み、優しく微笑む。瞳が合った瞬間、その笑顔に絆されそうになって、一瞬遅れてこの上なく馬鹿にされている!と気づき、『この男、質が悪過ぎる。』私は内心で呻いた。
ハイテーブルに戻ると、どこか懐かしい雰囲気の、しかし会った事の無い長身の男が、柔らかな蜂蜜色の髪を揺らして頭を傾げ、
「やぁ。」
とグラスを上げ、声を掛けてきた。私は、この街の男だろうか、と思いながら、『社交的に応じるべきであろうな』と決めて、微笑んでテーブルのグラスを上げる。
「彼は恋人?」
口を付けていたアルコールを吹き出し掛けながら、唐突な問いに、
「まさか!同僚だ。」
と、なんとか答える。男は、ハハハ、と明るく笑い声を上げ、
「そうだったのか。随分親密に見えたものだから。」
返す。私は、コホン、と一つ咳払いして、なんとなしに、のぼせるような感覚を振り払う。
「最も・・・。」
ぽつ、と私は呟き、変な事ではないのだから、と自分に言い聞かせて、慎重に再び唇を開く。
「最も、信頼する同僚だから、であろう。」
ほぅ、と感嘆するような声が上がって、私はますます、のぼせるような感覚を覚える。それから、蜂蜜色の髪の男は、
「勝負に勝ちたいか?ハンデは?」
と悪戯をする少年のような顔で笑んだ。私は、
「無論。ハンデは、私の得点が倍の計算だ。」
はっきりと答えてから、『おや?』と自分を訝しむ。確か、『負けても良いのかも知れぬ』と思ったのではなかったか、と。
「フッ。良い事を教えてやろう。」
と男が鳶色の目を細めて囁くように言って、ちょいちょい、と人差し指で私をこまねく。私は、少々の逡巡の後、少しばかり男に身を寄せる、と、内緒話の要領で、彼が私の片耳に手を当てる。片耳に意識を集中させていると、
「そのままの姿勢で、彼が三投目を投げ終えて、振り返るまで姿勢を維持していろ。」
と耳に吹き込まれる。少しばかりくすぐったく、笑ってしまってから、『そんなことになんの意味が・・・』と思いつつも、そのまま姿勢を維持し、オスカーが三投目を終えて、振り返るのをなんとなく待つ。
オスカーは、再び最高得点の180ポイントをマークしてから、ダーツを引き抜きボタンを押し、満面の笑みを浮かべて振り返り、それから驚いたように目を開いた。
ギュ、とダーツを握りしめ、こちらを睨む様に見やる様子に、少しばかり違和感を覚えて、私は隣の男にエクスキューズし、オスカーの元へと歩み寄る。
「どうした?」
動こうとしないオスカーに声を掛けながら、ダーツの受け渡しをしようとして、
「誰です?」
と驚くような固い声音で聞かれる。私は、軽く後ろを振り返る。蜂蜜色の髪の男が、ハイテーブルに頬杖を付いた手でグラスを持ったまま、空いた手をヒラヒラと笑顔で振ってみせる。
「さあ。この街の男だと思うが。」
吊られて笑顔になって、オスカーに視線を戻すと、ギュ、と二の腕を強い力で掴まれる。
「出会ったばかりの男と、笑顔で何を話されていたのですか?」
嫌味に笑う顔は、けれど瞳が笑っておらず、見覚えのない男を見るようで、落ち着かない。私は、詰問しているような聞き方のオスカーに違和感を覚え、
「痛いぞ。」
と眉を顰めて言う。ハッとしたように、オスカーは手を離し、
「すみません。どうぞ。」
と瞳を落として私にダーツを渡す。カツ、カツ、と私から離れて行くブーツの音が、何故かフロアに響き渡るように感じ、私はどことなく寂しい気持ちになってしまう。振り返ってオスカーの背をみやるが、彼は両手をポケットに突っ込んだまま、振り返らずに、テーブルに進むと、グラスを取ってぐい、と一口に煽る。
ーーー何だというのだ・・・。
私は、手の中のダーツをギュ、と握って、奇妙な苛立ちを持て余しながらボードを振り返って、ポジションに着く。すぅ、と深呼吸すると、周囲のざわめきが何処か遠くへと押しやられる。
何も考えずに放った一投は、ダブルブルを貫く。50点。続いて、第二投。外れるが20のシングル。第三投。これもビギナーズラックだろうか。私は苦笑しながら、三投目のダーツがダブルブルに突き刺さる様を見つめながら、ダーツを回収に、ボードに向かう。三本をもぎ取って、ボタンを押して振り返ると、自分の身を抱くようにして、オスカーが瞳を伏せたままに、先程の蜂蜜色の髪した男と何事か話していた。『目を見ずに話すのは好きではない』と言っていなかったか、と思いながら、私は彼等の元へと向かう。
オスカーにダーツを渡し、
「お前が460ポイント、私が246ポイントだ。」
と、背後のダーツマシンを親指で指し示してコールすると、
「俺がビハインド、という訳ですね。」
オスカーは苦笑して応じ、ダーツを受け取る。グラスの中身がいつの間にか空になっていることに気づき、新たなものを注文してから、
「何を話していた?」
と、オスカーの姿を見やりながら、蜂蜜色の男に聞くと、
「同じ事を聞くんだな。」
苦笑混じりに応じられる。オスカーも、聞いていたのか、と少しばかり驚きながら、チラリと視線を上げると、隣で男は、目を細めながら、オスカーの第一投を見やっていた。視線を辿る。僅かに外れて、20のシングル。
「何を、話していた?」
もう一度、心が毛羽立つような感覚に襲われながら、聞く。
「俺は、そんなに似ているのか?」
逆に問われて、私はもう一度男を見やった。男は、今度は私に顔を向け、健やかに笑う。・・・似ている?・・・誰に?知らず眉根を寄せ、男をマジマジと眺める。確かに、どこか懐かしい。だが、何故かは分からなかった。
「その男は、ワインをつくるのだと、彼は言ったよ。」
可笑しそうに言う彼に、私はふと、前任の緑の守護聖を思い出す。確かに、蜂蜜色の髪を後ろで括っている姿は、良く似ている。私は、そうだったか・・・と思いながら、緩く笑んで、
「だが、お前は彼奴ではない。」
言いながら、オスカーに視線を戻す。隣から面食らっているような気配を感じつつ、届けられた飲み物を、グイ、と口に運ぶ。また僅かに逸れて、20シングル。紅い髪をガシガシと掻きやる様子に、クスクスと笑う。
「故人か。」
確かめるような声音。私はフッと笑んで、隣の男に視線をやり、
「いや。生きている。此処に。」
トン、と自分の胸を人差し指で指して言う。男は、両肩をグラスを持ったまま大きく竦めて、
「そいつは良かった。」
と言ってから、吹き出した。
「安心しろ。お前は幽霊ではない。」
思わず漏れた言葉に、男は、自分の片足をトン、とフロアに確かめるように付けて、
「なるほど。確かに足もあるようだ。」
と、真面目ぶって答えた。私もその様に吹き出す。おかしな男だ。互いに肩を揺らしていると、オスカーがやってきて、
「そろそろビギナーズラックに見放されて頂きませんと。俺の勝ちが危ういです。」
仕方なさそうな顔で笑って、首を軽く傾げて私にダーツを渡す。
「集中力が切れて来たか?」
応じながら、マシンを見やって得点を確認する。560ポイント。最後はトリプルに決めたようだと確認していると、
「どなたのせいだと・・・。」
呟くような声。「ん?」と視線を上げると、降参した、とばかりに小さく両手を上げて、
「いいえ。なんでも!」
拗ねたように応じられる。私は、
「私もそろそろ酔っているようだ。」
言いながら、ポジションに向かう。背後で、パン、と大きな拍手が鳴った。
「彼の得点は倍で計算だそうだ!俺は金髪の彼に賭ける!!」
蜂蜜色の髪の男の大きな声に、ザワッ、と一瞬のざわめきの後、僅かな沈黙があって、「おもしれーじゃねーか。相手はその紅い髪のにーちゃんか!俺はそのにーちゃんに賭けるぜ!!」と、応じる声が上がる。吊られるように、俺も、私も、と手が上がる。カウンターで仏頂面をしていた店主が、メモ用紙を取り出して、徐に場を仕切り始める。流石にマズいのではないか、とチラリと思って、オスカーを見やると、まあまあ、と言うような顔で、小さな所作で肩を竦める。ここで賭け代に制限をかけるのも無粋であろうな、と私は溜め息を吐き、後からフォローして、何か問題がありそうなら、別に対策することとしよう、と決め、構える。ヒュー!と口笛やヤジが飛ぶ。静まるのを待ってから、私はダーツを放った。
8ラウンドを終えて、ほくほくと、テーブルに返ると、
「参りました。」
とオスカーが再び両手を上げた。静まり返っていたフロアに、ドッと笑い声が満ちて、遅れて健闘を称える拍手に包まれる。いつの間に用意されたのか、スパークリングワインが、私達のテーブルに三つ用意されていた。それを取り上げて、三人でグラスを合わせ、音をさせて乾杯する。少々の無作法が、この空気に相応しく思った。
清算の為か、テーブルを離れて行く蜂蜜色の髪の男を見送ってから、オスカーが口を開く。
「ジュリアス様の勝負強さは恐ろしい。」
「お前が途中で調子を崩したのが幸いした。」
言いながら、私はカウンターで清算する数名を見やる。賭け代はそれほど大きなものではないようで、負けた者も勝った者も、笑顔で清算している。
「アレは・・・。いいえ。言い訳はしますまい。」
カウンターにやっていた視線をオスカーに向けると、フッ、と何か眩しいものでも見るように、彼は目を細めた。
「ジュリアス様の胸に、カティスは今も生きておりますか。」
優しい顔で問われ、私も目を細める。
「お前の胸にも、であろう。」
薄氷の瞳が、今度は痛みを耐えるように、顰められた。
「そう・・・。そうですね、実に・・・。実に、忌々しい事に!」
それから、おどけたように、はぁ、とやるせなく溜め息を吐いてみせる男に、
「忌々しい?穏やかではないな。」
笑って答える。
「ええ!!穏やかではありませんとも!!」
胸に手を当てて言う男に、ますます可笑しくなって、声を上げて笑う。
「おかしな奴だ。」
ポケットから懐中時計を取り出し、パチン、と開けてから、
「もう遅いですね。ホテルに戻りましょう。」
笑んで言う男に、「うむ。」と応じ、なんとなく、私は蜂蜜色の髪した男に視線をやる。彼は私達に軽く手を上げた。私は微笑んでから、踵を返し、
「帰ろう。」
と、オスカーを促して、先に店を出た。
ホテルで部屋のキーを受け取って、オスカーが微笑んで言う。
「少し酔っていらっしゃいますか?」
私は自分の頬に指を絡めて、火照っていることを確認する。
「そのようだ。」
苦笑して言いながら、自分の分のキーをオスカーから受け取る。
「でも、賭けの清算がまだですが。」
名残惜しむような声音で言われて、私は頭を緩く振る。確かに少し酔っている。少し視界がブレるように感じた。
「戯れ言だ。もう忘れろ。」
部屋に上がろうと、エレベーターに促そうとするが、クイ、とシャツの二の腕を掴まれる。振り返ると、やや真剣な顔。
「炎のオスカーを勝負事を清算しない、こ狡い男になさるおつもりですか?」
クック、と思わず喉が鳴る。
「オスカー。」
名を呼び、私のシャツを掴むオスカーの手に、やんわりと自分の手を重ねる。暖かく、骨張った手。
私を見つめるアイスブルーの瞳。
「では。部屋でもう一杯だけ飲む。付き合うか?」
フッ、と間近で安堵の息。アルコールで熱くなっているように感じる息に、ぞく、と良からぬ感覚を覚えて、『危険ではないか』と自問する。だが。
「なんでも言う事を聞くお約束です。無論、参ります。」
私の二の腕で重なった手の上に、更に手を重ね、彼はエレベーターに私を促した。
「大して選択肢がないが。」
と言いながら、冷蔵庫を開けると、オスカーが中を覗き込みながら、
「さっきの店よりマシでしょう。」
と笑う。選択肢は向こうの方が豊富だった。アルコールの品質を言っているのだろう。
ひょい、と腕を伸ばして、黒ビールの缶を取り出すオスカー。私もオスカーも、あの酒場の雰囲気を、引きずっているのだ。それが奇妙に嬉しく、そして同時に名残惜しい。
私も飲み過ぎているし、ビールにすることにして、缶を取り出す。辛うじて部屋に用意されているタンブラーを、オスカーがひょいひょいとひっくり返して、二人分用意する。部屋はシングルだが、タンブラーは二つあり、猫の額程のスペースが窓際に用意されていて、丸テーブルとソファが向かい合って二つ。私に奥の席を勧めて、オスカーが手前に座る。互いに自分のタンブラーに缶の開け、注ぐ。
「眺めはそこそこだな。」
と言いながら、グラスを持ち上げ、窓からの夜景に目をやると、
「まさか、部屋で酒にいっぱい付き合う、というのが『プライベートに関するジュリアス様の命に、数時間応ずる』の、総て、という訳ではないですよね?」
少しばかりラフに足を開いて、私と同じく夜景をみやっていた瞳が、私の横顔を見る気配。応じるように、彼に視線をやる。部屋は、フットライトと、ベッドのヘッドランプだけしか点けておらず、そして、私が酔っているからだろうか、彼の顔は、瞳だけが優しく光っているように見えた。
私はただ、その瞳を見つめ返し、自嘲する。
「どうかしましたか?」
心配そうに問われて、私は膝の上でタンブラーを包む。『勝負に勝って、お前とこうして二人で夜景を見ている。それで満足だ。』と、言おうか。・・・それとも。・・・それとも?
ふわりふわりと頼りない意識の感覚に負けて、肘掛けに、私はややだらしなく肩肘を付いて、指先で額や頬を支え、なんとか座っている姿勢を保つ。
『全く、だらしのない。視察先でよりによって、泥酔とは。』自分の内心からの非難がある、ということは、まだ酔い潰れてはいない、ということだろうか。
遠く、近く、オスカーの声。
瞼が重い。くすり、と不意に、思いのほか近い距離で、オスカーの忍び笑いを聞く。遅れて、優しく、暖かな腕の感触。
「よせ・・・。自分で、歩け・・・る。」
どうしたことか、瞼が開かない。私はなんとか手を上げて言っているつもりだが、果たして私の手は上がっているのか。
「はい。では、歩いて、ベッドまで移動して下さい。」
クスクスと、やはり笑う声。子供扱いされるのは、好きではない。オスカーの腕に、縋るようにしてジタバタしていると、やがて、どさり、と自らの背にベッドの感触。ふわりと柔らかく、けれど、冷たいものに包まれる。
「嫌、だ。」
「・・・?」
ほとんど泣きそうな気持ちになる。『行かないでくれ・・・。』先程までの暖かな腕の感触を探していると、きゅ、と手が握られる。『ああ、良かった。』と、ふぅ、と心からの安堵の息が自分から漏れる。
「側に居ろ。」
命令する等、おこがましい。違う。いいのだ。賭けに勝ったのだから。いや違う。甘えている。
「此処に居ります。」
優しい声音は、確かにオスカーのもの。ぐい、と手を引くと、
「うわっ!」
と慌てたような声がする。クスクスと笑いながら、腕に力を込めてオスカーを抱きしめる。酒と、何か柑橘系の香り。コロンだろうか。ああそうだ。賭けに勝ったのだった。ジワジワと幸福感に包まれて行く。オスカーは、抱くとこんな香りがするのだな、と思って、ぎゅ、と力を今一度込め、闇雲に鼻をこすりつける。
「ちょ、苦し・・・。くすぐったいですよ。」
苦笑混じりの声と、腕の中、彼が藻掻く感触。嫌だ。もう離したくなどない。
「じっとしろ。」
思わず低い、呟くような声が出る・・・が、オスカーはびくりと突然大人しくなった。『そうだ、それでいい。』私は思って、ぐい、と彼を引きつけ、身体の上下を入れ替える。ギシ、と安いスプリングが、自重を支える左手の下で鳴る。オスカーは、仰向けに転がされ、私を見上げ、喉を鳴らした。
まるで、私に怯えているようにも見える瞳。
「なんでも言う事を聞く。そうだな?」
問う。
「は・・・い。」
ごくり、と再び彼の喉が鳴る。
私は肘をゆっくりと曲げ、彼の唇に、自分の唇を落とした。啄んで、角度を変え、もう一度。顔を持ち上げて、見下ろすと、唇を震わせ、驚きのままに、目を見開いたまま、彼は私を見上げていた。
何故、抵抗せぬのだろう。
「夢、だからか?」
不思議に思って、目の前の男に問うが、
「は?」
と間抜けな声が返ってくる。おかしな夢だ。私はくす、と笑って見下ろすと、オスカーははっきりと困惑顔になる。アルコールに上気した頬や潤んだ瞳は、まるで先を強請るよう。
「夢ならば、もう一度。」
もう一度唇を落とす。確かに夢だ。オスカーは口を開けて、舌先で私の唇を舐め返して来て、私達は求め合うように深く舌を絡める。
「んん・・・・。ふっ・・・・。」
角度を変えて求める度に、艶めいて、オスカーの鼻が鳴る。アルコールに塗れた互いの吐息が、頬や耳をくすぐる。余計に酔いが回るようだった。
ああ、そう・・・。
「どこにも・・・行くな・・・。側に・・・。」
「はい。ジュリアス様。」
噛み締めるような、返事。優しく、私の髪を撫でる、骨張った手の感触に。『実に、よく出来た夢だ。』と私は感心して、意識を手放した。
鳥のさえずりで、意識がゆっくりと浮上し、薄く目を開ける。
「おはようございます。ジュリアス様。」
あり得ぬ近距離に、オスカーの声を聞いた気がして、私は慌てて瞼を開け、身体を起こす。部屋着に着替えぬまま、私とオスカーは同じベッドで寝ていた。しかも、オスカーはシャツを羽織っているだけで、かなり寝乱れている。
「んー!」
と伸びをするようにして、彼の胸筋や腹筋が日の光に晒されるのを見てしまい、クラクラとする額を指先で抑え、目を瞑って視界から追い出して、混乱を来す脳を叱咤する。
二日酔いか、頭がズキズキと痛む。
私が頭痛と格闘している間に、足をベッドサイドに下ろして、立ち上がろうとするオスカーの腕を引いて、
「待て。どうなっている。」
曖昧な記憶を辿りながら、私はほとんど呻くようにして問う。オスカーは、フッ、と笑うように溜め息を吐いて、それから私を振り返り、顔を近付けてくる。
朝日を浴びて、寝乱れた髪、はだけられたシャツ、気怠げな様子は、妙に艶を帯びている。
ドキリ、と心臓が一度大きく鳴って、ゴクリ、と私は喉を鳴らす。
ふわりと、鼻先に柑橘系の香り。キスをされるのではないか、と何故か反射的に思い、思わず目を瞑る。が、私の唇に触れるか触れないかのところで、彼の唇は止まり。
「夢です。」
と呟いて、離れる。唖然とする私に、ふふふ、と片方の肩を竦めてみせ、先程までの艶っぽさは何処へやら、勢いよく羽織っていた黒いシャツを脱ぎ、恐ろしく手早く畳むと、応接セットのソファの上に置く。
「もう部屋に戻るのは面倒なので、シャワー借りますね。」
茶目っ気のある顔で、ウィンクをして、スラックスまで脱ぎ始めたのを見て、私は、
「シャワールームで脱げ!」
と、慌てて怒鳴る。途中で、きょとん、と手を止めて私を見やり、
「わかりました。」
シュンとした様子で、スゴスゴとシャワールームに消えて行く。怒鳴るのはやり過ぎだっただろうか、と私が思っていると、彼がシャワールームから顔だけを出して、
「覗いちゃ駄目ですよ?」
なぞと言う。私が、布団を巻き付けたまま、立てた両膝に頬杖を付いて、
「馬鹿者。」
と溜め息混じりに応じると、にこりと笑って、男は今度こそ、シャワーへと消えた。
ザァァァァ、と薄い壁の向こうでシャワーの音。
『側に居ろ。』
『此処に居ります。』
『なんでも言う事を聞く。そうだな?』
『は・・・い。』
まさか。夢だ。チラチラと脳裏を過る、記憶の断片のような、妄想の断片のようなものを、ブンブンと頭を振って追いやろうとして、上手くいかない。
キュ、とシャワーコックを捻る音。シャワーの水音が止む。
私用のバスローブを着て、オスカーが髪を拭き拭き、シャワールームから出てくる。
何事か言おうとして、口をパクパクするが、上手く言葉が出ない。一体、何から話せばいいと言うのだろう。第一、話すべきではない。ああいや、違う。違うのだ。
髪を拭いていたタオルを、首に掛けて、朝日を受けて輝くオスカーが笑う。
「まずは、シャワーを浴びて下さい。俺の部屋から、バスローブを取ってきますから。アルコールを流して。話はそれからです。」
「オスカー。」
私は困惑する。
「いいえ。ジュリアス様。私から、お話したい事があるんです。」
ハッキリとした声音で言われ、観念し、
「分かった。言う通りにしよう。」
降参するように返した。
----
「・・・どうしました?」
問われて、我に返る。
「いや。こうなった時の事を、少しな。」
ふふふ、と甘い笑い声。私の腰を抱く、逞しい腕。互いの裸体に絡まるシーツ。
私は、ポンポン、と甘やかすように、彼の紅い頭を撫でる。
猫の様に目を細める、普段は勇猛で苛烈な男。
そういえば・・・、とついでのように思い出す。
「思えば、あの時、マルセルやカティスの事を、意識していたようだったが。・・・あれは嫉妬か?」
クスクスと笑いながら、片膝を立て、そこに頬杖を付いて、窓から入り込む爽やかな控えめな風を受ける。
「・・・。」
沈黙。それから、ギュッと私の腰を強く抱き直す腕。
「意外と、聖地一の色男は、独占欲が強いのだな。」
悪いとは思いながらも、つい、揶揄うような台詞が口をついて出る。
「貴方が、独占して下さるなら。」
ぐい、と腰を下にずり下ろされて、ベッドに押し倒される。上から、両手を私の顔の両脇で突っ張るようにして、見下ろす薄氷の瞳。
「いつでも返上します。」
「何を。」
「『聖地一の』という二つ名です。」
真剣な様子に、私はハッハッハと声を上げて笑った。
「『数時間』しか耐えられぬ、と言ったではないか。」
むぅ、と年下の男は片眉を上げ、唇を突き出すようにして、宣言する。
「ですから。耐えられぬ時は、ジュリアス様と二人きりになります。それならば良いでしょう?」
きょとん、と私は言葉を失う。
それから、二人、時を同じくして吹き出し、声を失って笑う。
ベッドの温もりは、心地よさが過ぎる。
私は、『後、数分間だけ、許せよ。』と内心で自分に許しを乞う。
それから、今日は薔薇の香りのする彼を、思う存分抱きしめた。
終