春ー芹摘ー
コノヨウニシテ、
ワタクシハモウナンドカレヲウシナッタコトダロウ。
1.循環する邂逅
「おい、お前。」
ドン、と。
進行を妨げるように、脇から徐に固く黒いものが突き出された。
低く、それでいて鼻に抜けるような甘さをもった声は、どこか聞き覚えがあるような気がした。しかし、一体何処で?・・・思い当たらない。
不定期にたつ市場のはずれで、私は岩と砂で出来た道なき道を自分の住処の方向に向かって足早に歩いていた。突然声をかけてきた男は、岩場の陰から私の胸の前に突き出したものを外さぬまま、その身体を現す。最近では誰もが身につけるようになったフード付きの茶けたマントを身につけており、長身であることと肩幅があることしか、体型はわからない。流行の、通行料を毟り取る輩だろうか。
「何か?」
知らず自分の声音は険を含む。前方遠くに放ったままにしていた視線をちらりとそちらにやると、砂だらけのフードから、赤い前髪が覗いている。私より数センチ高い位置から、薄い色の瞳が高圧的に、こちらを見下していた。こちらと視線が絡むと、男は片方の口の端を器用に持ち上げ、
「女?いや、声が男だったな?こいつは別嬪さんだ。」
と、低く嗤い上げ、終わりに小さく口笛を吹いてみせた。自分の片眉が跳ね上がるのを感じながらも、
「通していただけないのですか。」
妙に冴えてしまった声で言う。
相手の鼻がクス、と鳴った。
「通さぬ、と言ったら?」
からかわれている。よくあることだ。よくあることであるのに、なぜこのような苛立を覚えるのか。
「それでも通ります。」
「どうやって?」
今度はこちらの口の端があがる。
「無論、力ずくで・・・ですよ。」
私の胸を斜めに横切るように突きつけられていた黒い棒のようなものを、手早く左手で捻り上げ、最小の動作で地面に放り捨てる。捨ててから気づいた。それが機関銃であった事に。
相手は呆気に取られたように両手を小さく挙げ、私の方を向いたまま固まっている。薄い色の切れ長の瞳が、一回り大きく見開かれていた。ものの数秒、その様子を眺める事で胸がすく想いを味わう。クス、と知らず鼻先で嗤いながら、私はその場を立ち去ろうとした・・・が。
「おい、オスカー!なにやってんだ。」
遠くからかかった声に、踏み出した足がぴたりと止まる。
私の名はオスカーではない。しかし、まるで自分が呼び止められたかのように、私はその声に振り返った。
「お前は・・・俺に買い出し行かせて自分は女といちゃついてンのか。許せねーな・・・。」
ガシガシと指出しのグローブを付けた片手で、銀髪を掻きながら、背の高い男が近づいてくる。彼の後ろで数名の荷物を持った男達が、岩場の陰に消えて行く。ジープでも停めているのだろうか。見つめる私の視線に気づいたのか、銀髪の男もこちらをチラリとみやった。皆がフードを被っているのに、男は砂が気にならないのか、頭髪をさらしている。その珍しい頭髪の色のせいで、相当に悪目立ちしていた。この世情で周囲を気にしない、その態度には、男の自信や横柄さが滲んでいるようだった。
「ヒュゥッ、こいつは上玉だな。何処で拾った?」
まるっきり値踏みをするような視線でジロジロと私を上から下まで見やり、銀髪の男は『オスカー』と呼んだ男の肩に手をかけてしなだれかかる。普通ではありえないほど身体が密着している。それはそのまま彼らの距離感だろうか。
「馬鹿。よく見ろ。こいつは男だ。」
『オスカー』は、眉を持ち上げて両腕を組むと、自分もつい先ほど間違えた割には、やけに知った風な様子で、己の肩先にある男の頭に眇めた視線を送る。
こちらを見やっていた銀髪は、私から視線を外さぬまま、
「なんだ?そう睨みつけるなよ?」
骨張った大きな手を徐にこちらにのばした・・・が、その手を『オスカー』が掴んで止める。
「やめとけ。」
「なぜだ?」
間髪入れずに、銀髪は不本意そうに低めた声で聞く。声の低さは、その男の凶暴さを充分に滲ませていたが、『オスカー』は全く動じない。
「いいから言う事を聞け、アリオス。俺はコイツについさっき銃を取り上げられたばかりだ。」
手なづけた猟犬に命じるかのように余裕を持った態度だ。本当に手なづけられているのか、銀髪は眉を寄せてこちらを睨んだままではあったが、唇を引き結んだ。『オスカー』は言ってから、こちらに視線を合わせると、愉快そうに眉を寄せて苦笑し、わざとらしく肩を竦めて見せる。『許せよ』あるいは『すまんな』の意味だろうか。刺すような色の瞳が隠れることで、少々男の印象は幼くなる。ズキ、と一度こめかみの辺りが痛んだ。頭痛・・・?私は頭痛持ちではないはずだが、と思いながら。
「とにかく、通していただきます。」
はっきりと告げ、二人に少々険の含んだ視線を投げてやってから、何かを断ち切るように、そこを去ろうとする。
「おい!お前っ!」
完全に喧嘩を売る時の声音で銀髪ががなる。
「いい。アリオス。放っておけ。」
ありがたい事に主人の方がそれを止める。二枚目然とした、柔らかな・・・甘い声音。ああ、本当にその声音には聞き覚えがある。私はそれを日常的に聞いていたのではなかったか。
「通行料は取ったのかよ。」
「でかい声を出すな。ンなもんは、取らんでいい。」
「・・・。お前・・・。まさかまたビョーキが始まったんじゃねーだろうな。」
「さぁ、どうだろうな。」
「ったく、マジかよ・・・。おい。笑い事じゃねーっての。」
私は、自分の住処へと足を速めながら、まるで仲の良い兄弟のような『オスカー』と『アリオス』のやり取りを背中で聞く。
実際兄弟なのかもしれない。見た目は似てはいないが、どこか雰囲気が似ている。ツキン、と。先ほどよりは小さく。こめかみが、もう一度痛んだ。
2.造られる二度目
「珍しいね。葉モノを作っているのかい。」
菜園というのも憚られるような、猫の額ほどの痩せた畑で取れた作物を売るため、また私は市場に来ていた。砂地に敷き布を広げ、僅かばかりのハーブを並べ、まばらに通り過ぎる人々を眺める。
「キョムが来るよ!キョムが来るよ!」
囃子立てながら、子供らが離れた場所でキャアキャアと走り回っている他、市場だというのに、雑音らしき雑音はない。ただ、砂が風に舞う音ばかりがする中で、足を止めて声をかけてくれたのは、中年の女性だった。
「えぇ。他の方が作らぬものを、と思い。」
私は静かに答えて、微笑んだ。
「そうかい、それじゃあ。ありきたりで悪いんだけど、この・・・」
ほとんどの者がそうであるように、マントの袖から覗く彼女の手もまたシミが多く、栄養不足から肉がそげ落ちている。
その女性といくつかの商談をこなし、種や木の皮などの乾物を僅かばかり手に入れた。
「【ダストホール】にはアンタも気をつけるんだよ・・・。」
女性は商談の終わりにほとんど独り言のようにぼそりと言い、去って行った。
私はそれには答えず、残ったハーブの状態を確認した。大分水分が抜けてしまっている。残りは完全に乾燥させてから、次の市場で売れば良いだろうと判断する。私は小さな商いに満足して広げていた敷物をしまう。来たとき以上に荷物は軽く、小さくまとまった。
まとめた荷物を仕上げにきつく縛っているところで、荷物の上に、ついと、人影がさして止まった。
「・・・と、お前。また会ったな。」
私は、その声に、下を向いたまま、小さく息を飲んだ。
『オスカー』
瞬時に、声の主の名前が閃き、声から名を思い出す事ができた自分に驚く。驚きつつ、私は顔を上げた。
「探していた。」
赤毛の男は、フードを下ろして、クッと喉の奥を詰まらせるようにして笑った。
「なぜ?」
私は、自分の感情が推定できない。いつもなら面倒な事だと思うに違いない状況で、だが私は何故かそうは思っていなかった。だから、ただ、浮かび上がった問いをそのまま口にしていた。
「なぜ?・・・そうだな、気に入ったから、か?」
男は片側の口の端をくぃ、と態とらしく引き上げた。ギラギラと光っているのは、挑戦的な薄い色の瞳。
「俺の下に来い。こんなつまらない商売に興じるなど、お前にはもったいない。」
男は、持っていた剣の鞘先を私の顎に当てて、言った。男の存在は、何故か不快ではなかった。何故かこの尊大で自信過剰な物言いを聞き慣れているような妙な感覚に陥りながら、
「何がつまらないかは私が判断します。」
怒るでなく、呆れるでなく、私は見上げたままに答える。
「ふ、ははッ!お前、本当に面白いな。」
空いた片手を額にやって、男は私から視線を外す。鞘先が邪魔なので、それを掴もうと素早く手を伸ばすと、鞘先は寸でで私の掌から逃れでた。
「おっと。もうその手は通用しないぜ。お前が腕が立つってことは、もう分かっているからな。」
チ、チ、チ、と指先を振ってみせ、男は得意げにニヤっと笑った。
そして不意に真顔になり、
「どうせ・・・。」
と小さく呟いた。
「・・・?・・・どうせ、なんですか?」
らしくもなく、さして考えずに先を問う。
男は数秒の沈黙の後、ふ、と口元だけで静かに笑った。
「俺は車だ。お前を家まで送ろう。【ダストホール】が近くまで来ているかもしれんしな。」
脳裏で『必要ありません』『借りを作るのは嫌いです』と拒絶の言葉が駆けるのに、何故か私は小さく顎を引いていた。
3.広がる虚無
車に案内するというオスカーの後をついて行くと、例の銀髪が車の側で数人の男達と何やら立ち話をしていた。
銀髪は、男達と笑い合いながら、ふとこちらに視線を流し・・・流してから、私を睨んだ。
突然吹き上がってきた、強烈な砂まじりの風を一回やり過ごす。いつものように、ものの数十秒のことではあったが、目も開けられぬ砂風だ。
あの銀髪とて目を開けられるはずはないが、何故か風の中で目を瞑っている最中、男の視線を私は強く感じていた。
砂風をやり過ごして、私たちは漸く車の側までたどり着く。
手の届く間合いに入るなり、銀髪は、
「おい、オスカー。お前、いい加減にしろよ?」
オスカーの胸ぐらを乱暴に掴み上げて、吐き出すように言ったが。
「・・・。」
オスカーは薄く笑んだまま、銀髪に沈黙と視線を返す。
「・・・ちっ。」
暫く視線の応酬をした後、銀髪は小さく舌打ちをして、オスカーを小さく突き飛ばすように解放した。
「好きにしろっ!」
銀髪は何故か憤慨したようにくるりと背を向け、やってられん、とでもいうように右手を振って、私達から離れた。
「だ、そうだ。・・・乗れよ?」
オスカーは肩を小さく竦めて笑ってみせ、私を助手席へと促す。後部座席まで、全てのドアを取り外されたジープは快適な乗り心地は期待できそうもないが、乗り降りと荷物の搬入には便利そうではあった。ローブの裾を持ち上げて車高の高いジープの助手席になんとか乗り込む。
「乗ってる間はしゃべるなよ?舌を噛む。」
短く言ってから、飛び乗るようにしてオスカーは運転席に収まり、そのまま流れるような動作でキーを回してエンジンを入れ、車を走らせた。発進してみると、なるほど、確かにエンジン音と砂煙で、前も見えにくく、隣でたとえオスカーが叫んだとしても、私にその内容まで聞き取れるかは怪しかった。
私が時折、指差しでナビゲーションをして車は微妙な進路調整を行い、あっという間にドライブは終わった。
車を止め、開口一番オスカーは言った。
「こんな東の外れに住んでいるのか・・・。見かけによらず・・・いや、見かけに違わず、怖い者知らずなんだな?」
少し首を傾げるようにして。
私は、
「ここは兄の住んでいた場所なのです。【ダストホール】はここには来ないと彼は言いました。」
と答え、振動のせいで血が滞っている足を数回強く揉み、助手席から降りた。
「フ・・・。お前の兄は予言者か何かか?」
馬鹿にしきった声で彼も言いながら車から降りる。
「まぁ、そのようなものです。」
ローブをはたいて、埃を落とす。
「・・・。」
視線を感じて、振り返ると、オスカーはなんだか面食らったような顔でじっとこちらを見ていた。
「本当ですよ。彼は予言者のようなものです。」
私は淡々と言ったが、
「・・・よくわからんやつだな、お前・・・。」
と、オスカーはガシガシと自分の髪を掻き混ぜる。
「それで?その予言者殿は今何処にいるんだ?」
「兄は、【ダストホール】に呑まれました。」
私が引き続き淡々と返すと、
「・・・そうか。」
男はもっと面食らった顔になりつつ、短く返事を返した。
「それで?来るのですか?」
私は家に向かいつつも、小さく振り返って聞く。何故、誘っているのか、自分でも全く見当がつかない。
男は、おや?というように片方の眉を器用に上げる。
「来ないのですか?」
私は、彼に完全に向き直って声をかけてから、くるりと踵を返して家の中に入る。
「いや?勿論、いくが。」
男が愉快そうに目を細めている様子が背中から伝わってきて、一体私は何をやっているのだ?と髪を右手で掻き上げ、小さく息を吐き出した。
「クッ。フ、ハハ・・・。」
男は声を上げて笑うと、やっと家に入った。
男は家に入ると、ローブから砂を落として脱ぎ、ぐるりと室内をみやった後、勝手知ったる様子で(知っているはずはないが)履物を脱いで小上がりに勝手に上がった。装備も外し、敷物の上に胡座をかいたのを横目で確認しながら、私は雑貨用の棚から、飲茶に必要な物を取って小上がりに向かう。家の中はさほど広くはないが、兄との二人暮らしだったので、彼とお茶を飲むに足る広さは確保されている。【ダストホール】に呑まれつつあるこの世界で、「お茶を飲む」という習慣がまだ残っている事は驚異の事実だなと、ぼんやりと思う。そして、いつもそうであるように、茶を飲む時間を愛していた兄を少し想った。
「手慣れたものだな。」
私を観察しながら、少し感心したように言う男に、
「兄が茶を好んでいたものですから。」
と手元から視線を逸らさずに答えた。ローテーブルの端には、男の膝が頭を出してしまっている。兄も私もそうだが、おそらく体型がこういった生活に向いていないのだろう。
「いや、そういう意味じゃない・・・。」
彼は逡巡するように言い淀むと、胡座の上で頬杖をつき、顔を長い指で覆って考えるような仕草をした。
「つまり・・・お前はあまりそういったことに関心がなさそうな感じがした。」
顔を覆っていた指を顎の辺りに下ろして、彼は少し笑った。アイスブルーは、室内の明るさでは少し優しい色味を帯びている。
「?・・・そういったこと?」
茶を蒸しながら、私は彼に意味を問う。彼は何故か一旦笑みを濃くし、それからまた考えるように視線をぐるり、と巡らせた。
「・・・生活・・・違うな、生きる事、か。」
随分な言われようだ。
「何故?私は、生きる為に必死ですよ。今日も市場にいって、少ない食材を手に入れましたし・・・」
「それは、お前にとって生きるに必要不可欠な食材なのか?」
反論は、途中でオスカーによって遮られた。何気ない口調で、別段、強い口調で言われた訳ではない。訳ではないが、やはり気分のよいものではない。しかも、その内容も気分のよいものではなかった。
「・・・見ていたのですか?」
自然、声が固くなり、視線に力が入る。オスカーの笑みは、一層濃くなった。
「いや?『そうではないか?』と、聞いただけだぜ?俺は。」
蒸し終わった茶を、暖めてあった彼の器にポットから移す。私の分も、ゆっくりと入れてから、
「・・・そうですか。」
と、短く答えた。話す気がなくなったので、沈黙を数えようとしていたのだが、彼は、数秒の沈黙を待たずして、弾けるように笑い出した。
「プッ、ハッハッハッハッ!お前、本当に最高だなッ!」
肩を揺らしながら、男は天を仰いで、額に手をやった。
「フッ、いかん。笑いが止まらんぜ。クッ、ハッハッハッハッ。」
何がそんなにおかしいのだか、全く意味が分からず、私はひとまずお茶を啜る。
「ハァー。腹が痛い。やっぱりお前、俺のところに来い。」
笑いが収まるや否や、男はまた意味の分からぬ事を言った。私は飲みかけのお茶をゆっくりと飲み干してから、
「行きません。」
と答えた。今度は市場であった会話とは逆に、彼が私に問うた。
「なぜ?」
ギラリ、とあのガラス玉が光る。
「・・・。」
ガラス玉は澄んで、とても美しかった。
「・・・私は、貴方の部下にはならない。」
彼の私への執着を、どうやら心地よいと思っている自分に驚きながら、私は自分でもよく分からないことを言った。・・・部下?そう、確かに、彼の「ところ」に行くという事は、私もあの銀髪のように、彼の部下になるという事のように思う。
「まぁ、そうだろうな。」
と、男はあんな瞳を見せた割には淡白に、笑みすら浮かべながら引き下がって、器を片手で持ち上げ、茶を啜った。啜ってから、おもむろに立ち上がると、
「では、こういうのはどうだ?」
私の方へ回り込んで、言いながら、ゆっくりと私を押し倒した。飲み干し終わっていたので、両手で支えていた器から、茶が溢れる事はなかった。オスカーは、左手で私から器を取り上げ、ローテーブルの上に置くと、フン、と鼻を鳴らし、
「抵抗せんのか?」
と、挑戦的に嗤った。事態がよく飲み込めない。
「こういうの、と言いますと?」
言い終わらないうちに、男は片眉を跳ね上げて、私の頭の上に、右手をつき、左手で私の右頬を包んだ。
「???」
私の様子に、「はぁ」と一度やるせないようなため息をつくと、上にのしかかっていた男は、目を伏せ、ゆっくりと顔を落とし、私の唇に、唇を落とした。殊更ゆっくりと、オスカーの唇が、私の下唇を食み、確認するように、ゆっくりと瞼が持ち上げられる。
その様子に。
トクン、と一度。
鼓動がかつてない暖かな音を立てたように思った。鼓動・・・そう、動いている事すら忘れていた、私の心臓の音。
「お前が欲しいと言っているんだが。」
男は表情の読めぬ顔で、私を見下ろしていた。
「部下は嫌なんだろう?」
そして笑んだ。
「けれど・・・。」
私は、唇を舌で一度潤してから、なんとか答えようとした。
「けれど?」
男は余裕を持った笑みで見下ろす。私はこれが気に喰わない。気に喰わないが、目を逸らす事もできない。
「対等では、足らない。」
私は、左手で素早く彼の右前を掴み、右手で彼の左肩を軽くはじく。てこの要領で、体勢はぐるりと一気に入れ替わった。どん、という良い音が、彼が軽く受け身を取ったことを知らせる。
「はっ。」
男は詰まった息を、軽く吐き出してから、
「欲深いやつだな?」
髪をゆっくりと掻きあげ、私を見上げた。私の下で、彼は髪を乱し、挑戦的な笑みを見せる。私は、この目を良く知っている・・・、と。そう、思った。
「それで?どうする?」
ズキン、とこめかみが強く痛む。私は、さっき彼がしたのと同じように、ゆっくりと顔を下ろし、彼の下唇を吸った。一度、二度、三度・・・。角度を変えて、繰り返すそれに、男は瞳を半分程閉じ、気怠げに応じる。合っているのか合っていないのか分からない視線に、ズキン、とまたこめかみが痛んだ。オスカーの腕が、私の腰と肩に回る。私は、唇をゆっくりと引き上げ、真顔で言った。
「どうする・・・と言いますと?」
男は焦点の合わぬような、なかなかに官能的な表情をしていたが、私の言葉に、我に返ったように瞳を一瞬大きく開き、
「プッ、クッ・・・ハッハッハッハッハ!」
横を向くと、背を丸めて笑い始めた。私もプッ、と吹き出し、つられて笑ってしまう。一度笑い始めると、腹筋の動きにすら今度は笑えてきてしまう。ひとしきり笑ってから、思わず滲んでしまった涙を指先で拭う。
「お前も笑うんだな。」
いつの間にやら笑いが収まったらしい男は何故か安心したような声音で言った。
「いえ、ただ・・・可笑しくて。」
私は、言いながら、また笑ってしまいそうになる。オスカーの手が伸びて、私の髪をやわらかく掻きあげた。私は目を細め、もう一度唇を落とす。
「ん・・・ふっ・・・ぅ・・・・。」
深く絡めた舌の応酬の合間に、小さく、どちらの吐息とも分からぬ音が、あるいは、ぺちゃ、ちゅ、と粘着質の音が鳴る。
「・・・んぅ、はっ・・・。ん、良くしろ。」
止まる事を知らぬ舌の応酬に、オスカーは私の顔をぐい、と一度引き上げると、濡れた唇、濡れた瞳のままに言う。私はそれを見下ろしながら、
「良くないとでも?」
首を傾げて言った。オスカーのガラス玉は、例のごとく一回り大きく見開かれた。私はその様子に満足しながら、引き続き彼の唇を貪る。
「なっ・・・バッ・・・。」
もごもごと彼は何か言いたげだが、私はそれを遮るように唇を奪う。彼の瞳が、また段々と悦に入るように半分閉じられる。その様子に、私の内部の熱もどんどん高まってくる。耳を舌先で擽り、耳裏から、首筋へ。時折、ピク、と反応を返す部分を強く、深く吸い、あるいは態と舌先で避けるように刺激する。刺激し、彼の声と体の反応だけでも、熱が上がっているというのに、オスカーの両手まで、私を求めるように服の中に入りこみ、指先が妖しく蠢いていた。私も彼の服の中に手を入れ、乳首をそっと触ったり、つまんだりしていたが、数分と待たずに面倒くさくなり、やや乱暴に自分から服を全て脱いだ。オスカーもそれに合わせて服を脱ぎ捨てる。
彼の裸を見て、思わず、ぴたり、と身を寄せる。力を抜いて、重力に任せると、胸と胸が隙間なく合わさって、彼の鼓動が伝わってきた。
胸が、熱い。
胸だけではない、身体が、熱い。何故か私はまた泣きそうになる。流石にこらえて、上体を少し起こし、立ち上がりかかっていた左の乳首に舌を伸ばした。
「んっ!」
上がってしまった声に、自ら驚いた、というように身を竦ませるオスカーに、私は思わず笑む・・・といっても、口は塞がっているので、目だけではあるが。
『そうだ、私は、本当は、ずっとこうしたかったのだ。』
私は両腕を彼の背に回し、ぐいと、自分に引きつける。男は、私に体重を預けるようにして背を逸らし、右腕を頭上に伸ばす。突き出されるような格好になった乳首に、誘われるように再び、尖らせた舌先を押し付けながら、つ、つ、つ・・・と私は、男の筋肉の稜線を下へ下へとなぞっていく。
ぴく、ぴく、と時折返される反応に合わせ、行きつ戻りつをしながら、私は男の臍の辺りにたどり着く。背に当てていた両手を腰骨へと滑らせながら、まっすぐに茂みへと舌先を向かわせ、既に勃ち上がりかかっている、彼の中心の頂点を、ツンとつつく。ヒク、と彼の腹筋が反応する。グイ、と腰を引き寄せるようにして、その中心を深く、やわり、と口で包んだ。
「・・・はっ。」
控えめな、けれど熱い息が上がったのに、満足して、私は彼の顔を見上げる。彼は右手を額の上に乗せて、顔を隠すようにしながら、でも、私をまるで覗き見るように見ていた。それは、その瞬間、たまたまだったかもしれない。気まずそうに固まった表情に私は奇妙な優越感を感じて、私は目を伏せ、彼に見せつけるように、舌を伸ばして、裏筋を舐め上げる。動きに呼応するように、彼の雄身は硬さを増していく。
「・・・ッ・・・ッ・・・・ッ。」
詰まる吐息に、私の鼓動が、トク、トク、トクと柔らかにその熱を上げる。再度見上げた顎先は、フルフルと震え、彼が快楽に耐えている事を知らせる。このままジリジリと生殺しにしてやりたいという欲望と、いっそ今すぐに自分で彼を貫いてしまいたいという欲求が、私を同時に襲って、混乱する。
結果、私はどちらも選びかねて、目の前でピクつく雄身を再度深く銜え、口と右手でねっとりと愛撫しながら、溢れ出る唾液と彼の先走りを使って、後ろの入り口を左手の指先を使い、ゆるゆると擦る。擦っただけで、オスカーの腰は小さく持ち上がる。鈴口を唇で挟み込んだまま『欲しいですか?』と声を使わずに問う。
「ハ、んっ!」
思いがけず、艶やかな声に、思わず動きを止め、それを試すように、もう一度似たような動きを繰り返す。
「やっ、めろっ・・・お前ッッ・・・!」
まるで逃れるように捻られた腰を、私は、空いた右手でグイと仰向けに固定する。
『欲しいのでしょう?』と声を使わずに、唇を動かしながら、先端を愛撫する。
「ウッ、アッ、ァッ・・・・ッッ!」
短い苦鳴をあげながら、オスカーの腰が、内股が、何かに耐えるようにプルプルと痙攣する。オスカーの右手が、私の頭を押しのけようとしてか、頭髪をギュッ、と掴む。けれど、その動きは、私を避けるようであると同時に、まるで、私にその続きを求めているようにも思える。ビクビクと身体の痙攣に合わせて、彼の指先に力が入ったり抜けたりする様を楽しむ。
「遊、ぶ・・・なっ・・・んっ・・!」
その言葉にますます増長して先を擽ってやってから、先走りを指先に絡める。指先と唇を使って、根元から先に向けて、にゅるり、と一気に欲を押し出すように、刺激すると、呆気なく、それは弾けた。
「ーーーーーッッ!」
私の髪をかき乱す感触。左手の人差し指を噛みながら声を殺す様に、ドク、と身体の奥が凶暴に疼く。追いかけるように、指先でその先端を捏ね繰り回して。
「はぁ、んんんっっ!」
逃げ惑う腰を捉まえ損ね、刺激を与え続ける事に失敗する。ほとんど俯せになるようにして、刺激から逃れた男が、肩で息をする様を見て、奇妙な優越感を得る。ふと、男は、視線のみをこちらに戻して、ぎくり、と身体を強ばらせた。何に驚いているのか分からぬまま、私は掌から滴る男の欲を舌先を使って清める。
「お、前・・・・。」
何かに呆れるように、男は絞るように声を出し、ゆるゆると視線を逸らした。男の欲望が、また、頭を擡げ始めている。瞳は、心なしか潤んでみえる。目元や耳が、桜色に染まっている。舌先で味わう欲が、熱い。簡単に清め終わって、私は、彼の顔の横に手をつき、その横顔を見下ろす。ドン、と小上がりの床がまた、安っぽい音を立てる。
男は仰向けになって、私の顔に手を伸ばした。
「大丈夫だ。俺は此処に居る。」
不意に、意味不明な言葉を。男は子供をあやすような優しげな声を出して告げ、笑んだ。
『嘘だ。』
直感的に思った。
「黙って。」
反射的に、短く言ってしまった私に、男は笑んだまま、「しょうがないやつ」とでも言いたげに、眉を下げる。また、何事かを紡ごうとする彼の唇を塞ぐ。私の舌で掬い上げるのは、熱い舌。上がる吐息。それは確かに、彼の言うように、彼が此処にいる事の証のように思えるのに。
「は、ぁ・・・。」
追いつめるように激しく口を吸い、互いの体温が一段上がったところで、私は何かに安堵して、口づけの勢いを少しだけ緩めながら、掌を男の胸、鳩尾、腰骨と滑らせる。ぺちゅ、ちゅば、と彼の唇に吸い付くたびに音が立つ。再び彼の雄を掌全体で刺激して、先走りを指先に絡める。するり、するりと、内股をなぞり、後ろの入り口に行き着く。
繰り返すキスだけで、互いに、もう視界が滲んでいる。
「ん、う・・・。もう、・・・早く。」
互いの唾液で熟れた唇から紡がれる言葉が終わるか終わらないかのうちに、私は男の右の太ももをぐいと持ち上げ、指先を潜り込ませる。
「ん・・・。」
一瞬、入り口に力が入り、長く吐き出された吐息と同時に、ゆるりと力が抜けて行く。慣れている。その事が、また少し私を安堵させる。
そうだ、だから、構わない。私は私の思うまま。私は私の感じるまま、彼に接して、構わない。
中を指で弄る。熱くて、狭い。締め付けられて、中を探り広げる。そして、また締め付けられる。彼から求められて、私から求めるような、そのやり取りに、暫し夢中になる。
それまで、何かに耐えるように、目を瞑って息を吐いていた彼は、ビクン、と不意に飛び上がるように身体を跳ねさせる。反射的にか、床を這っていた両手のうち、左手が、中を弄っていた私の腕を、ぎゅ、と掴んだ。
「ッッッ!・・・ぁ。」
するりと、刺激を与えてしまった場所から指先をずらすと、薄く開かれた瞳が、少し失望したように、陰る。ずく、とまたも下腹が疼く。
もっと丁寧に解したい。いますぐに貫きたい。相反する思いが脳裏を素早く過る。瞬間、視線が焦点を失って彷徨ってしまう。
「!」
何に反応してか、ギュギュッとオスカーの中が突然うねるように蠕動して一層激しく指を締め付けた。私は、込み上げるものをこらえきれず、指を素早く引き抜いて、男の左の腿も持ち上げ、自分の欲望を突き立てる。
ずく、と下腹の疼きと、彼を貫く自分の腰の動きが、シンクロする。
「アァッゥ!・・・・く・・・んん・・・。」
突然の動きに思わず漏れた苦鳴と、鼻から抜けるような、甘い声。それを聞きながら、奥へ、奥へと、体重を使って分け入って行く。
ず、ず、ず、と進めば、それを阻むように、誘うように、爪先まで、繰り返し力が入り、抜ける。筋が浮き上がった脹ら脛に魅せられ、それを引き寄せて、舌を這わせる。私の右の二の腕を掴んでいた腕が、キュ、と爪を立てる。
もっと強く。
ゆっくりと腰を引き上げ、ずぶりと奥まで、貫く。それでも足りなくて、密着した腰の皮膚を、擦り付けるようにして、中を味わう。熱い中が、やわやわと私に絡み付いて、私の理性を追いつめてくる。
明るい色の瞳が、こちらを捉え、私の貪欲さを笑うように、細められる。薄く開いた唇は、吐息を吐き出したかったのか、それとも、何かを私に告げようとしてか。いずれにしろ、言葉にならないままに、開いたり噛み締められたりを繰り返している。
もっと、強く。
持ち上げていた太腿を、彼の胸に押し付けるようにして、腰を上げさせ、こちらは膝立ちで腰を打ち込む。汗ばんだ肌と肌がぶつかり合い、音を立てる。奥を突く度、彼の身体は大きく跳ね、中はギュギュギュ、と私を締め上げる。
「も、ッと。」
絞るような声音は、私の声。苦しい。心地よい。熱い。美しい。混乱の中、息が上がり、突き上げるリズムが加速する。
「んんっ、ァアッ!クッアゥッ!!」
無意味な音の羅列が、彼の唇からひっきりなしに漏れ始める。
「オスカーッッ!」
と呼ぶと、私の名が、縺れる舌で紡がれる。
「リュ、ミッ・・アアッ・・・ルッ!」
これ以上、熱くはなるまいと思っていた中心が、更に熱を上げる。もっと強く、もっと早くという思いが一層強くなった所で、私の理性は焼き切れていった。
***
目を覚まし、最初に視界に入ったのは、男のカタチの良い耳たぶと、彼がいつも着けているピアスだった。
くたりと脱力したように、動かない男の隣からそっと離れ、私は衣服を整える。その物音に、彼も目を覚ましたらしい事を背後の気配で知る。
「慣れて、いるのですね?」
と言って振り返ると、男は事も無げな様子で、
「俺は欲しいと思ったら、手段を選ばない質だからな。抱いてやることもあるし、抱かれてやることもある。女性に対してするソレとは、意味が違うしな。」
と返した。あっさりとしたその言い分に、私は何故か嫌悪感を抱かない。
事後である事を隠そうともせず、男は気怠げな動作で、身体を起こす。なげやりに衣服の整えると、彼は再び胡座をかいた。私は、再び茶を彼に淹れてやった。
「ただ・・・。俺と『対等では足りない』と言ったのは、お前が初めてだ・・・。」
男は、器に入った茶を見つめながら、まるで、遠い故郷の家族を思い出してでもいるように、柔らかく笑んだ。ズキンッッと、強烈に一度こめかみが痛み、しかし、その後何事もなかったかのように収まる。
「時計は?」
不意に男が、夢から覚めたような顔つきで言う。私は、
「勿論、外ですが・・・外の様子から見て、おそらく、五つか六つでしょう。」
男の様子に、少し周囲の温度が冷めてしまったように感じつつ、応えた。予想通りに、
「戻らんと、アリオスがキレてるな・・・。」
口の中で小さく潰して、茶を飲みきると、重たい所作で立ち上がる。私も、その視線を追うように立ち上がった。
オスカーは悲しげに微笑む。
「・・・世話に、なったな。」
紡いだ台詞に、心臓が潰されそうな衝撃を覚える。息をするのも忘れて、私はオスカーの瞳を見ていた。まるで金縛りをかけられたように、身体が動かない。
オスカーは、仕方なさそうにため息をつくと、微動だにできない私から視線をそらし、装備類や履物を身につけ始める。ハッ、と呼吸する機能が不意に自分に戻って、私は、既に家の外に出ようとしているオスカーに追いすがり、そのまま後ろから力任せに抱いた。
「・・・ッ!」
確かな感触、確かな暖かさ。
少しだけ安心したような気持ちになって、私は、彼の背で、鼻から息を深く吸う。鼻を擦り付けるようにして息を吸ったが、不思議な事に、なんの匂いもしなかった。その事で、やっと薄れた不安感がまたジワジワと私を襲う。
「そう、締め上げるな・・・。苦しいぞ・・・。」
本当に苦しげに上がった声に、仕方なく力を抜く。振り返ったオスカーは、相変わらず、仕方なさそうに笑ったまま、私の頭髪に手を差し入れ、くしゃ、と潰した。
「また、来る。」
傾いた日の光が、彼の後ろから差す。ただひたすら、彼を見つめ返す私に、
「お前、泣いているのか?」
と、目を開いて、彼は驚いたように私の両肩を掴んだ。視界は歪んでなどおらず、私の目も口も、渇いてしまっているというのに。
「泣いてなどいません。」
渇いた口で、なんとか紡いで、私は彼の身体を外へと押し
やった。
人に踏み込ませず、踏み込まない。そういう、ここでの静かな生活を、私はそれなりに好んでいるはずだ。『生きる事に関心がない』など、ありえない・・・。
そう、ありえない。
私は唇を噛んで、彼が車に乗るのを待たずに、部屋に戻った。
4.重なる逢瀬
男は、度々私の家を訪れるようになった。ほとんど一日おきで、時には日を空けずやってくる。
来るときには、大抵、いかにも用心棒といった風体の頑強そうな男が、オスカーを助手席に乗せてきて、私の家からオスカーが去るまで、私の家の庭先に車を停めて、待つようになった。
その日も、私が畑の世話をしていると、ジープの排気音とタイヤが土塊を蹴飛ばす音がして、やがて、砂煙を上げて、庭先で車が止まった。
車が止まるなり、飛び降りるようにしてオスカーが飛び出すのを、くすんだ赤毛の男がその体躯に見合った太い声で、運転席から嗜める。
「オスカー様!あまり長くなりますと、またアリオスが・・・。」
オスカーは、不機嫌そうに、眉を跳ね上げてから、その声に振り返った。
「ヴィクトール。お前、いったい誰の部下だ?」
その静かな声音から、オスカーの冷徹な眼差しを推測するのは容易い。
「・・・申し訳ありません。」
風が吹かなかったら、私の耳に届いたかどうか分からぬ程の小さな声で、『ヴィクトール』が返す。
「しかし、アイツもオスカー様のためにっ・・・。」
追いすがるような声。
「ンな事は分かってる。【ダストホール】がこちらに伸びるような気配があったら、さっさとトンズラするといつも言ってるだろう。俺は、お前がここで待つ事も本当は反対なんだ。俺は、自分の身くらい守れる。お前だって分かってるだろう。」
半時もあるけば【ダストホール】に辿り着いてしまう、この土地に、『アリオス』や『ヴィクトール』はオスカーが足繁く通う事を好ましく思っていないのだろうと思いながら、私は、鋤の柄に体重をかけ、落ちてきた髪を土で汚れた手で避けて、事の成り行きを見守る。
「分かりません。」
きっぱりと告げられた言葉に、オスカーは面食らったような声を上げる。
「なんだと?」
「あの男をオスカー様がどう思っているか知りませんが、オスカー様が、ご自身の身を充分に守る力を持っている事は知っています。ですが、素人一人を庇いながら、【ダストホール】の速さと戦うのは難しい事です。」
冷静に、淡々と告げる『ヴィクトール』に、オスカーはそちらを見やったまま、沈黙を返す。
「・・・・。」
暫くの睨み合いの後、『ヴィクトール』は根負けした、というような声を上げた。
「分かりました。・・・ご随意に。ただ、とにかく、俺もアリオスも、貴方には出来るだけ速く本陣に戻って欲しいと願っています。それをお忘れなく!」
オスカーはそれを聞くと、無言ではあるものの、機嫌よさげな顔でこちらを振り返って、やってくる。珍しく砂風が少ない日であるからか、今日はフードを下ろしていた。
「よぉ。」
まるで、先ほどのやりとりを意に介していない様子の男に、私は小さく肩を竦めてみせる。
「私は、恨まれたくはありませんが?」
私の台詞に、少しばかり男は驚いた様子を見せて、
「聞こえたのか?」
と言った。
「えぇ、まぁ。」
それは私の身体技能に驚いた、という以上の意味を持っていなかったようだ。
「そうか、お前は・・・そうだったな。」
男は小さく視線を逸らして何かを思い出すように、苦笑した。不意に覗いた、歪んだ笑い方に、僅かばかり、目を奪われる。
『・・・世話に、なったな。』
彼が昔に、そういったことを思い出して、心臓がまたギリッと強く掴まれるような感覚に襲われる。
・・・?昔??
それが昔なはずはない。私たちは知り合って間もないのだから。そう、確か、初めて彼が私の家に来た日、彼は『世話に、なったな』と言ったのだ。それは『昔』という程、昔である訳がない。
「?・・・どうした?」
私の様子に軽く首を傾げ、彼が淡白に言う。その声に、私は金縛りが解けたように、ハッと自我を取り戻す。
「いえ、なんでも。お茶を、淹れましょうか。」
私は、いつも通りの時間が流れ始めた事に、ほっとして。安堵のため息と共に、自然と笑んだ。
「あぁ。」
彼も私を見つめながら、満足げな返事と同時に、微笑みを返した。
5.繰り返される離別
事後の気怠い雰囲気の中、私たちは互いに何も纏わぬまま、いつものように、小上がりの上で寛いでいた。
ごろり、と彼は寝返りを打ち、私の顔をじぃと眺める。
「暫く、西に行って人を集めなきゃならん。」
はぁぁああ、と深いため息をついて、実に億劫そうに、瞼を閉じる。
「それは・・・。では、暫くこちらには来られないですね。」
私がその様子に思わず苦笑しながら言うと、
「人の不幸を喜びやがって。」
と、ジトリとした視線を返される。
「御愁傷様です、の意味ですよ。喜んでなど・・・。」
にんまりと笑って言いながら、また、奇妙な記憶がちらりと過った気がして、私は言葉を続けられなくなる。
「『御愁傷様』か。そう、お前・・・よくそういうこと言ったよな。俺が・・・しんどい出張に行くときに。」
『出張』?
その単語には、聞き覚えがある。それは、一体なんだっただろう。
オスカーは、私がまた固まってしまっているのを意に介さず、こめかみから、その骨張った指を差し入れて、するり、するりと私の髪を弄ぶ。
オスカーは、何かを痛切に悲しんでいる。
痛ましく歪められた、そんな彼の顔を、私はじっと呆けたように眺めていた。
「なあ、リュミエール・・・?お前、本当は・・・。」
「・・・なんですか?」
口の中が、また、カラカラに渇いている事を感じた。
「もう、思い出して・・・いるのか?」
彼の骨張った、日焼けした片手が、私の片頬をゆっくりと包む。
暖かい。
だから、私は、コレを失ってはいけない。
縋るような視線で、彼は私を見つめる。
「ど、う・・・したの、ですか。オスカー・・・・。一体・・・。」
カラカラに渇いた口で、うまく言葉が繋げない。私は、視線だけは彼のアイスブルーから外さぬように、その奥底を覗くように、ずっと見続ける。
「本当は思い出しているんだろ?この鬼のような紫外線の下で、
何故、お前の身体はそんな・・・抜けるような白さなんだ?」
オスカーが先に、瞳を伏せ、私の首や鎖骨の辺りに視線を落とした。するり、と彼の右手が、私の頬から滑り落ちて、首筋を撫でる。私は微動だにせず、それを受け止めていた。
「な、ぜ・・・?」
彼の言葉を渇いた唇で繰り返す。伏せられた瞳を、瞼を、睫毛を・・・彼の額にかかる赤毛を。一瞬の間を惜しむように、見つめる。
イヤダ。
「なぜ、思い出さない。」
いやだ。
「・・・リュミエール。」
いやだ。いやだ・・・
「お前は・・・。」
それ以上、聞きたくない・・・。
だまって・・・ください・・・。
「お前は・・・から、・・・・いる。」
唇は動いているのに、声がところどころ聞こえない。いや、聞きたくない。
オスカーが、私をみて、悲しげに微笑む。その表情は・・・。
そしてゆっくりと瞼が閉じられ、・・・唇がそれまでとは違った形に、僅かに動いた。
「・・・・・。」
その忌まわしい言葉を口にした瞬間から、彼の口が歪み、彼の目が、眉が、肉ごと、ボタボタと床に崩れ落ちる。
やがてドロドロと、目の前のオスカーだったものは、急速に、醜く溶解していく。床にへばりついた泥土は、細かな砂になり、やがて、それすら空気に解けて。
骨さえ残さず。
私はオスカーだったモノが無に帰する様子を漫然と見届ける。
だって、彼はそんな詰まらぬ事は口にしない。
口にした事などない。
オスカーは私に好意など抱いていなかったのだから。
私だって、別に彼を好いていた訳ではなかった。
知っている。
私は、知っているんです。
・・・オスカー・・・。
やがて訪れた、見慣れた虚無に、私は苦笑する。
『分かるだろ?水の守護聖殿。俺は、そろそろ退任の時期だ・・・。』
『・・・世話に、なったな。』
虚無に響くのは、いつか聞いた、彼の心地よい低音。
そう、最初から、私は、ここにいた。
きっと、私は、一歩もここから進んでいない・・・。
・・・・そうなんですね?
コノヨウニシテ、
ワタクシハモウナンドカレヲウシナッタコトダロウ。
6.止まらぬ再帰
「午睡ですか?珍しいですね!」
・・・。執務室でうたた寝をし、あまつさえそれを入ったばかりの同僚に見つかってしまうとは・・・と小さく息を吐く。
眠った時間はほんの数分であったはずだが、長い夢をみていたような気がする。酷く辛い夢だ・・・これは最近ではよくあること。内容は全く思い出せない・・・これも同じだ。辛い夢を好んで思い出す必要もないのだろうが。悪い夢が多いせいか、夜もよく眠れていない。うたた寝などしてしまうのもそのせいかもしれない・・・などと考えながら、私は、訪問者に声を掛けた。
「ところで、貴方は今日はジュリアス様から乗馬の訓練を受けるはずでは?」
「・・・。」
彼は無言で、執務机の上に乗せた顔をしかめ、唇を突き出す。
表情が役者ぶっているところは、前任者に似ていると言えば似ているのかもしれない。
「何かあったのですか。」
私は両肘をデスクについて、顔をすこし近づけながら、笑って聞く。
「だってジュリアス様は、すぐオスカー様の話ばかりするんです。まるで比べられているようで・・・。」
言い淀んでから、
「不快です。」
きっぱりと言い切って、私を大きな瞳で見上げる。
私はクス、と鼻で笑ってしまってから、
「それは災難でしたね。しかし、馬に乗れるようになりたいと言っていたではありませんか。ジュリアス様は教えてもよいとおっしゃってくださっているのでは?」
と続ける。言い終わるか言い終わらないかのうちに、
「馬には乗りたいです!・・・・から。」
彼は見た目の通り、幼げな声ではっきりと言い、視線を落として、小さな声で繋いだ。
「ですから、やはり拗ねて飛び出すべきではありませんでした。」
「そうですか。では、ジュリアス様にお許しいただけるか分かりませんが、謝りにいかなくてはなりませんね?」
私の言葉に、彼はショックを受けたように、はっと一瞬顔を上げ、私のデスクに顔をつっぷした。
「うぅ・・・。そうですね。僕はなんてことを・・・。」
うめくような呟きは彼の見た目に似合わず、低くなる。しかも机に顔を伏せているせいで、余計にくぐもって聞こえる。そんな時の声も、彼に似ていると言えば似ているだろうか。
「でもジュリアス様だって、あんなに僕とオスカー様を比べなくてもいいと思いませんか?」
彼は顔を、がばりと上げると、フン、と鼻から息を吐き出していった。じとり、という視線は私ではなく、ここには居ぬジュリアス様への視線だろう。
「リュミエール様はオスカー様の話なんか全然しないのに。」
はー、とため息が続き、彼はくしゃ、と前髪を右手で潰した。
「そうですね。・・・フフフ。もう聞いていると思いますが、私と彼とは、あまり仲が良くなかったのですよ。」
私は長くなりそうな彼にお茶を淹れるべく、静かに席を立つ。そう、オスカーと私は、ろくろく口も利かなかった。話したといえば、会議などで必要のある時のみ。それも、多くは意見が対立して言い合いばかり。思い出し笑いをしながら、私は私室に移動する。お茶を淹れ、茶器をもって執務室に戻ると、彼は私の執務用の椅子に座り、ぐるぐると椅子を回して遊んでいた。奔放な事だと呆れつつ、声をかけようとして。
「リュミエール様・・・?」
私と目が合うなり、ぐるんぐるんと勢い良く回っていた椅子を、彼は執務机に手を突っ張って止めた。瞳をぽかんと見開いて私を見上げている。私は『危ないですよ、あまりそういったことは感心しません』と嗜めようとして、これも彼に遮られる。
「泣いているのですか?」
突然の台詞に、私は吹き出しそうになる。寧ろ、彼の方がよほど泣きそうな顔だ。『なぜ私が泣くのですか?』と言おうとして、ふと自分の視界が歪んでいる事に気づく。自分でも不思議に思い、デスクに茶器をおろし、目頭に自分の指先を当てた。
ふと声が聞こえる。
『お前、泣いているのか?』
彼の甘く鼻に抜ける低い声。・・・甘い?確かに甘かったかもしれない。けれど私がそのような声を掛けられた覚え等ないのに。そして突然、その場に倒れ込みたくなるような、強烈な眠気を覚える。もう眠りたくない。眠ったら・・・。
あぁ、けれども今すぐに眠ってしまいたい。そう、もういっそ・・・。
「リュミエール様?ど・・・・した・・・か?」
私を心配してくれる声が、どこか遠い。
「いいのです。少し疲れているのかもしれません。最近、眠りが浅いので体調が整っていないのでしょう。どうか心配しないでください。」
答える自分の声もどこか遠い。強烈な眠気と戦いつつ、私は指先で流れてもいぬ涙を拭うように目尻を軽く擦る。
『いえ、ただ可笑しくて。』
ふと、歌うような調子で、自分の声が脳裏で響く。
そう、いつだったか。その時は笑いながら、私はこうして目尻を拭った事がなかっただろうか。
しかし、一体いつ・・・?
ポットからカップに茶を注ぎながら・・・。
「本当に、なんでもないのです。」
酷く悲しい事を、未だに悲しめずにいるような。妙な胸のわだかまりを、息苦しさを感じながら。
まるで独り言のように繋ぐ。
「本当に、なんでも。」
私は再度、自分に言いきかせてから、彼に笑んだ。
モウ、ナンドコウシテカレヲウシナッタダロウ。
ソウ。
モウイッソ。
アチラニユクコトヲユルシテイタダクワケニハイキマセンカ?
終。
芹摘(せりをつむ)
決して届かぬ想い。叶わぬ思慕。
textデータ一覧へ