分かり合えないことから。




「なんでしょうね・・・。どこかが悪いとか、そんなことはないのですよ。ただ、随分、毎日、眠たくて。気怠くて。それで、つい寝てしまうのです。それで、起きるでしょう。すると、いつからこうしているのか分からなくて。長い間寝ているようにも、ほんの数分、寝たようにも思う。だから、今がいつだか分からなくなってしまって。それで・・・。」
 定まらない表情で、男はツラツラと話し続け、そこで一旦区切って視線をやや伏せると、事もあろうに、この世のものとは思えぬような、美しい微笑を作って、続けた。
「それで、・・・なんだか、可笑しくて。」

 俺は、『オカシイのはお前だろ』という台詞を辛うじて呑み込んだ。

 水の守護聖の様子がおかしい。ぼーっとしていて、欠勤も多くなっている。そんな話をルヴァから聞いたのは、前の土の曜日だったので、今日で丁度一週間になる。ぼーっとしているのも、欠勤が多いのも、いつものことじゃないか、と俺は意にも介さなかったのだが。
「少し、様子を見てきてくれないか。」
 と、ジュリアス様から金の曜日の会議終わりに頼まれ、そういえば、会議をすっぽかすことは、あの水の守護聖と言えど、珍しいことだったろうか、と思い至って、わざわざ私邸まで訪ねることになった。訪問してすぐに、家人に様子を聞くと、確かに随分様子がおかしいという。どうおかしいのだと聞いても要領を得ないので、仕方なく、寝室で休んでいるという本人と会う事にした。
 ヤツは、いつもの布を巻き付けたような服(それでも執務服よりはいくらかラフなのだろうが)を着たままベッドに潜り込んでおり、ベッドから半身を起こして、俺を迎えた。窶れているような気がするのは、おそらく表情がやけにぼうっと定まらないせいで、顔色が悪い訳でも、隈だらけな訳でもなかった。ただ、俺に対して、この男が、こういった苛烈でない、まるで「構えない」態度を取るのは、たしかに「変」ではある。
「・・・つまり、ただのサボりという訳か。」
 俺はベッドサイドに用意された椅子に腰掛け、やや尊大な態度で足を組んだままに問う。喧嘩でもふっかけるつもりで。
 ・・・が。
 男は、俺相手には滅多に聞かせる事の無い、穏やかな声音で引き続き答える。
「そうですね・・・。なんなんでしょうね。本当に。」
 視線をほんの少し彷徨わせた後、俺に定めてから、仕方なさそうに、また笑んだ。
 弱った、と俺は音をあげ、退散しようかと一瞬考える。
 だが、ジュリアス様になんと報告する。『確かに、変でした』とでも?・・・まさか、あり得ない。ふぅ、と俺は知らず、溜め息を吐く。
「・・・何か、何でも良い。心当たりは無いのか。・・・少し前になるが、お前はかなり無理をして出張に行っただろう。そこで何かあったか。」
 なんで俺がこんなことを、とは思いながらも、思い当たるようなことはないか、必死に頭を巡らす。
「出張・・・。ああ、そんなこともありましたね・・・。」
 本当に時間の感覚が狂っているのか、男はやけに昔の事を思い出すような間を取って答える。
「灼熱と荒涼の惑星、だったか・・・。お前には少々キツい環境だったんじゃないか?」
 報告書の内容までは流石に思い出せず、適当に惑星名から想像する。確か、水のサクリアのバランスを欠いているのではないかという仮説のもと、リュミエールが検証するという内容だったはずだ。
「そうだったでしょうかね。あまり・・・覚えていません。」
 リュミエールは、ここで初めて、少しだけ顔を顰めた。何か、あったのだろうか。何か・・・。そのまま、掘り下げて聞いてもいいが、この男の言う「眠気」が精神的なものから来るものだとしたら、ここで追いつめるのは得策ではない。
 そこまで考えてから、俺はカウンセラーじゃないぞ、となんだか益々やりきれなくなってきた。ぐしゃ、と髪を潰す。今日はオフで、リュミエールの私邸に来るなんて言うどうでもいい予定しか残念ながら入っていないため、髪は固めていない。
 はーーー、ともう一度深い溜め息を吐いてから、
「身体は、本当になんともないのか。」
 と問うと、リュミエールは、今度はフフッと声を出して笑った。
「ええ。なんとも。」
 それにしても、こんなにこの男が俺の前で笑顔だの、笑ったりだのするのは珍しいことだ、とやや物珍しく眺めていると、
「・・・貴方は、本当に仕事熱心なのですね。」
 と、穏やかな声が続いた。
「そうだな。」
 と俺は肩を竦めてみせてから、
「仕事でもなければ、土の曜日にお前の所になぞ来るものか。」
 ヤツのイヤミに、穏やかなテイストを真似て、応答しておく。ヤツは、ますます可笑しそうに、眉を寄せて、フフフッ、と笑った。窓から差し込む穏やかな日の光に乗せられて、俺も思わず笑んでしまった。
 ふと、まるで、普段の俺達の関係がウソのような、穏やかな空気感に、包まれている事に気づく。
 この男を、別に俺は労っている訳ではない。ただ単に、同僚として困っているから、少し様子を聞いている。しかも、ジュリアス様に頼まれて。そしてこの男は、ただ単に弱っているから、俺の喧嘩を買う余裕が無い。こんなとき、だからこそ?
「しかし、弱ったな。仕事にならないというのでは。」
「そうですね、私も弱っています。」
 互いにらしくもなく、会話にもならない会話をして、俺は、「ああ、そう言えば、飲み物でも用意しましょうか」と言う男を右手を軽く上げて制し、
「大体、様子は分かった。また来る。」
 と言いおいて、男の私邸を後にした。

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 自分の家に戻り、書斎に入って、件の報告書を端末から呼び出して眺める。とりたてて、報告書に変なところはなかった。ふと、メールの受信に気づいて、開封すると、ジュリアス様からの様子を尋ねるメールだった。あの人も家で仕事中か、と苦笑しながら、テレビ会議システムを起ち上げて、ジュリアス様にコールをかける。いつものように、お忙しければ、後で答えるので要件をメールしろ、という流れになろうと予想しつつの行為だったが、応答があった。スクリーンにジュリアス様の上半身が映り込む。背景はジュリアス様の自宅の書斎だ。
「土の曜日までお仕事とは、お体に触りませんか。」
 無駄とは思いつつ、軽口から入る。
「要らぬ世話だ。」
 と苦笑を返しながら、
「それで?どうであった?」
 と、いつもながらの単刀直入な問いが続いた。
「まあ、確かに『変』でした。俺相手だというのに、喧嘩にもならず、穏やかなものでしたし。」
「ほう、炎と水の守護聖の悪関係を解消する為には、水の守護聖の不調が効果的とはな。」
 感じ入ったような言いぶりに、
「日頃の人間関係の成果をお褒め頂き光栄です。」
 こちらも苦笑して、瞳を一度伏せて、言外に申し訳ありません、と伝える。
「何が不調の原因かは分かりませんでしたが、出張の話を差し向けた所、少し表情が違っていたので、もしかしたら、その辺に原因があるかと、今、リュミエールの報告書を読み返しているところです。」
 答えつつ、スクロールしていた報告書を、ジュリアス様の端末に送付する。
「なるほど。本人に直接問いただしはしなかったのか。」
 コーヒーカップを取ろうとした手を、端末に戻してジュリアス様が返す。視線は端末上で報告書の内容を追っているのか、こちらには向けられていない。
「ええ・・・。まあ。眠気、倦怠感、と、精神的なものを臭わせる症状のオンパレードを申告されたので、あまり追いつめる気になれず。その場で確認しておいた方が良かったでしょうか。」
「いや、お前の判断が正しいだろう。私は直接様子を見ていないのでな・・・。・・・報告書からは、やはり変わった所は見受けられないが。」
 俺の話を聞きつつ、報告書の中身を吟味しつつの、いつものスーパープレイに恐れ入りつつ、
「ですよね。私も、変な記述があれば引っかかっているはずだとは思いながら、読み返していたところです。リュミエールの業務の滞り具合はどうです?」
 この案件を解消することのプライオリティについて確認しておく。
「今すぐどうということは無いのだが・・・。お前の業務の状態はどうだ?」
 まあ、そうなるよな・・・と、
「実は、この間、一通り走り回ったお陰で、残念ながら、落ち着いておりまして。」
 この先のやり取りを予想しつつ答える。
「そうか。では調べてくれるか。」
「あまり適任とは思えませんが・・・。ご指示の通りに。」
働き者の部下というのも、これはこれで苦労人のポジションだな、と自分に苦笑する。
「苦労をかける。・・・そうだな。代わりにという訳ではないが、前にお前が言っていた酒、探してみるとしよう。」
 思いがけない提案に、思わず、「え。」と間の抜けた声が出た。
「私も『全宇宙の女性の恋人』とやらを見習って、たまには気を利かせることとしよう。」
 フフ、と柔らかい笑い。
「誰ですか、そんなことをジュリアス様に吹き込んだ輩は・・・。」
思わず冷や汗をかきつつ、棒読みで返す。
「存外、私も耳が良いものでな。ああ、そうであった。先週の日の曜日の無断外出の件だが、あちらに関しては気を利かせる余地がないようだ。月の曜日に、私の執務室に来るように。」
柔らかい表情から一変、厳しい顔のジュリアス様に、返す言葉を失って、思わず、口が空気を食む。ジュリアス様の耳が良くなることは、俺にとってはどうも凶報らしい。
「はい。・・・必ず・・・。」
 歯切れの悪い俺の言葉を待ってから、ジュリアス様は珍しくも意地の悪い表情になり、
「結果を期待している。」
 と口の端を上げてから、通信を切った。
 喜んでいいのか、ゾッとすれば良いのか・・・。判断に困りつつも、画面上の報告書に視線を戻す。
「書類で分からなければ、ヒアリング、か。」
 一人ごちてから、俺は報告書内の同行した研究員の欄に視線を走らせ、らしくもなく、やや重たく感じる腰を再び上げた。

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「これはお珍しい。土の曜日にオスカー様が私をお尋ねとは。」
「勤務態度良好の炎の守護聖を捕まえて、まるで不良守護聖のように言うんだな。」
 きっちりと背筋を伸ばして端末を叩いていた男は、くるり、とチェアごと振り向いて、俺を迎えた。
「そんなことは。平日は真面目に取り組んでいらっしゃると理解しております。」
 ミスター・サイボーグに気の利いた返事を期待した俺が馬鹿だったと、気を取り直して、
「先々週になるか、お前も同行したようだな。」
 言いながら、近くに置かれていたキャスター付きの丸椅子をコロコロとサイボーグの近くに寄せて座り、印刷してきた報告書を渡す。
 男は書類を受けとると、眼鏡越しに理知的なソレを素早く動かす。
「灼熱と荒涼の惑星ですか、ええ。同行させて頂きました。何か問題でも?」
「話が早くて助かる。問題だ。リュミエールの様子がおかしい。原因は不明だが、この出張に関係ある可能性があってな。」
「今のところ、リュミエール様のサクリアに特に不調は見受けられませんが。」
「あのな、研究院でモニターして分かるくらい水のサクリアが不調に乱れていたら、真っ先に俺が気づくだろーが。」
「ああ、そうでした。失礼、データに現れないものを無視しがちなのは、私の悪い癖です。」
 全くだ。
「で、だ。出張中、何かリュミエールに変わったところはなかったか。」
「変わったところ・・・ですか。」
 エルンストは、書類から視線を上げ、瞳を巡らせた。
「特には、なかったように思いますが。」
「よく思い出してくれ。些細な事でもいい。」
 俺は、そういえば、リュミエールみたいにややこしそうな男の精神的な揺らぎを、このサイボーグに尋ねようとしているのだな、とやや絶望的になりながらも、一応重ねて問う。
「些細な事ですか・・・。些細な事・・・。そういえば。」
 ふと、中空を見つめたまま、エルンストが呟いて、やがて、俺に視線を戻した。
「そういえば?」
「いえ。この、灼熱と荒涼の惑星、極端に水のサクリアを必要としていない惑星なのですが、それにしても、すこし偏りすぎているということで、視察の結果、結局水のサクリアを送る事になったのですが。」
「ああ、そうみたいだな。」
 俺は、それじゃ、報告書のままじゃないか、と先を促す。
「本当に必要なのでしょうか。」
 表情の変わらない相変わらずの鉄面皮のままに、エルンストは淡白に続けた。
 ・・・・・。
「はあ?」
 意味を取りかねて、思わず間の抜けた声を漏らす。
「ああ、いえ。リュミエール様がおっしゃったのです。視察が終わって、ボートに乗る直前に、独り言のように・・・。『本当に必要なのでしょうか。』と。」
 なんだそりゃ。
「いや、必要だということになったから、送る事になったんだろ?」
「ええ、ですから。私も意味を取りかねて、特にその後、リュミエール様から何か言われた訳でもないので、そのままになっていたのですが。」
「意味が分からんな。」
 溜め息混じりに吐き出すと、
「些細な事でも良いとおっしゃったので。」
 眉根をほんの少し寄せて、エルンストが反論する。おおお、むっとしている。サイボーグにも感情があったか、と思わず俺はにやりとする。
「確かに俺が言った。しかし・・・。ふむ・・・。なるほど。」
 俺は、エルンストの手から報告書を取り戻して、もう一度眺める。
 炎と、鋼のサクリアが突出した惑星。競争心を糧に、技術力を高め、言葉通り荒涼とした惑星は、鉱物資源を有効に活用して、レベル7まで発展を遂げた。7つの小国が犇めき合いながらも、軍事的・技術的に均衡していることで、国通しの諍いも、小競り合いのレベルで済んでいる。そう、取り立てて、悪くはない。現状のままでも、取り立てて、悪くは・・・。そう、民は「優しさ」の必要性など感じていないのかもしれない。
 水のサクリアの必要性については、レポートでは、「民の文化的な更なる発展の為」とある。確かに、芸術面の発展では他の惑星と比べると圧倒的に劣る。だが、協調や調和は、彼等にとっては互いの競争心の結果として齎されるもので、志向するものではないだろう。もっと言えば・・・。

 ふと、恒星から齎される灼熱色の光線。荒涼とした砂の上、ギラギラしい未来的で大掛かりな建造物が咲き乱れる光景を振り返り、渇いた風を受け止めながら、茫洋たる視線を投げるリュミエールの後ろ姿のビジョンが脳裏に閃く。ボートのステップに乗りかかり、振り返るリュミエールは、自身が生まれ育った海洋惑星とは、まるでかけ離れたその光景に、一体、何を見たのだろうか。

『本当に必要なのでしょうか。』

「・・・スカー様?オスカー様?」
 エルンストの声に、ふと我に返る。
「あ、ああ。スマン。」
「リュミエール様は、どこかお悪いのですか?」
 やや心配げなエルンストの様子に、俺はニヤリと笑って答えた。
「いや、何程の事でもないさ。それより、お前、芸術は嗜むか。」
 鉄面皮は面食らったように、両の瞳を押し広げて答えた。
「いいえ?」
「だろうな。実は俺もだ。その必要性は理解できるか。」
「それは勿論。芸術の発展のない文明は、空虚なものとなりましょうし。」
 模範解答そのものと言える答えに、俺はますます笑みを深めて、
「そうだな。個人として、それを必要としないという問題と、世界としてそれを必要としない問題は、また別だからな。・・・だが、お前個人は、芸術の必要性を理解できるか?あるいは、もっと手前の、そうだな。他者を哀れんだり、他者を労ったりする、そんな情動についての必要性は?十分理解できるか?」
 明らかに何かを企んでいる俺の顔に、エルンストはやや怪訝な表情になりながら、
「それは勿論。」
 と即答して、一度そこで言葉を断ってから、トレードマークの華奢な眼鏡を人差し指で押し上げ、表情を隠して続けた。
「・・・今後の課題ですね。」
「ハハハ、同感だ。」
 高く笑い上げてから、続ける。
「俺にとってもな。」

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「休んでいたか。」
 ベッドサイドに立って、男を見下ろす。
「はい。ですが、まあ、ここのところ、いつも休んでいるので、何も問題はありませんよ。」
 すっかり夜になっていたが、男は相変わらずベッドに居た。
「お前、人と競い合う事を、楽しんだ事はあるか。」
 唐突に何を、と言いたげに、男はほんの少しだけ、眉を顰め、小首を傾げた。
「いえ。」
「それじゃあ、お前には、俺の気持ちは分かるまい。」
「はあ。」
 何を言っているのだと食って掛からないのは、この男らしくはないのだ。らしくはないのだが。
「それと同じだ。俺は、お前の言う『優しさ』というものの必要性も、おそらく、その正体も、本当には分からない。それはきっと、いつまでも、【何か、得体の知れないもの】に違いない。」
 男は、再び小首を傾げて、問うような視線を俺に投げた。まるで、奈落の底のような、海色の瞳は、じっと見つめていると、まるで【何か、得体の知れないもの】に引き込まれてしまうようで、実は苦手だったのだと俺はこの時初めて意識した。
 出会い頭にイヤミを言わねばならないほどに?
 顔を合わせる度に、足を踏ん張って、言い争いをしなければならないほどに?
 そして、それは、お互いに・・・?
「リュミエール。」
 けれども、視線を逸らさずに、俺は続けた。
「民の気持ちを理解する必要は、ないんじゃないか。」
 リュミエールの表情は、まるでいつもと違い、あどけないような瞳で、俺を漫然と見返していた。
「なにを、言っているのです。」
 ぱちり、と一度大きく瞬いてから、リュミエールは、グッと、何か痛みに耐えるような顔をして、俺から視線を逸らし、自分の二の腕を強く握って絞り出すように繰り返した。
「何を、言っているのですか。」
 奇妙なことに、突然俺の胸に、リュミエールの胸の痛みが、直接的に、暴力的に、流れ込んでくるような気がした。
「・・・痛ぇよ。」
 思わず、俺は顔を顰めて、おそらくリュミエールには聞こえないであろう小さな声でごちる。
 胸の軋みを飼いならせないまま、俺は続けた。
「いいじゃないか。他の仕事がそうであるように。俺たちだって、要請があって、それに答える。その要請が、民からだとしても、陛下からだとしても、宇宙のバランスからだとしても。」
『何も、お前が傷つく必要はないじゃないか。』
 続けようとして、息を呑んでから、俺は、それを口の中で噛み潰した。その言葉こそが、この男を最も傷つけるような気がして。
「そうだとしたら、私はなんのために、此処に居るのですか。」
 視線を落としたままに発された固い声音は、俺が、普段よく聞いているそれだが、問いの内容は重い。
 ヒトである守護聖がサクリアを送る意味は、どこにあるのか。
何故、それはサクリア製造機たる、マシンでなかったのか。
 ・・・そんな問いには、俺だって答えられない。・・・だが。
「分かり合えない事を、確認する為に。」
 ふ、とリュミエールが、頼りなげに、息を吐いて、自分を抱いたまま、俺に視線を戻してみせた。
「育ってきた環境が違う。分かるはずが無い。お前も、俺も。民も、陛下も。だが、それでいいんじゃないか。分からないもの同士が、互いを交換する。芸術というのは、そういった交換のための、表現の一種で、情動というのは、そのための一つの機構なんじゃないのか。・・・そう・・・。俺には、よく分からんが。」
 最後は肩をすくめるより他に無かった。
「貴方から、芸術や情動の話を私が聞く事になろうとは。」
 穏やかな笑みは、だが、はっきりとした意志を感じさせた。
「水の守護聖様を相手に下らんことを言ったようだ。忘れてくれ。」
 フン、と俺は知らず鼻を鳴らし、踵を返した。
「オスカー。」
 背後から呼び止められて踏み出した足を止める。リュミエールが何事か言いかかっていることは分かったのだが、俺はどうにもそれを受け止められそうになく、
「リュミエール。」
 とっさに名を呼び返すことで制して・・・それから、何も続ける言葉がないことに気づく。
「お前がそんな調子だと、俺まで調子が狂う。いいからさっさと回復しろ。」
 仕方なく、いつものように、イヤミで言葉を継いで、ふらりと、右手を振り、部屋を出た。

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 翌日の夕食は、早速ジュリアス様の私邸で例の酒をごちそうになることになった。
「なるほど。仔細よく分かった。土の曜日にご苦労であった。感謝する。」
 まるで仕事場の会話と変わらないな、と俺は苦笑しながら、酒を舌で堪能する。最初からこの酒が良いと言ったのは俺なのだが、俺はこの味なら、テリーヌよりは、やはり少しは野性味のある、ホイル焼きやステーキで味わいたいなぁ、等と余計な事を頭に過らせつつ。
「はい。おそらく、早ければ月の曜日からは調子を戻してくるのではないかと楽観的に見ていますが。」
「そうか・・・。だと良いが。」
 まだ憂いを残した表情を横目に、俺は、
「今日はメインは肉ですか?魚ですか?」
 と、話を変える。
「お前が来るのだからと厨房の勧めで肉にした。」
 厨房もよく分かっている、と俺は思わずニンマリと笑んでしまう。
「分かりやすくて結構。」
 呆れたようにジュリアス様がワインに再び口を付ける。
「根が素直なもので。」
 フォークを口に運びながらも、口元のにやけが収まらない。
 ふと、手をとめて、俺は気になっていた事を聞いてみる事にした。
「ジュリアス様は、・・・その、クラヴィス様の・・・。心というか、感情を、不意に感じ取ったりすることは、ありますか。」
ジュリアス様は、持ち上げていたグラスをテーブルに戻し、じっと俺の真意を図るように、群青色の瞳で見つめた。
「そんなことがあったのか?」
 問い返されて、
「・・・はい。何と言っていいのか・・・。リュミエールのもの、というのも定かではありませんが。」
 群青色の瞳の強さに、少し気圧され気味に伝える。
「胸を・・・。直接、圧迫されるような感じがしたのです。」
 ジュリアス様は、ほぅ、と少し感心したような息を漏らしてから、
「守護聖同士が、心を同調させる前例については、枚挙に暇が無いようだが。・・・私とクラヴィスでは、な。」
 否定とも肯定とも取れるような曖昧さを残したまま、ジュリアス様は瞳を逸らせた。求めていた答えではないが、ジュリアス様が話そうとしないのを、無理に問いただすようなことでもない。
「アイツに聞かれました。サクリアを、多方面からくる要請に、ただ応えて送るだけならば・・・。」
 俺は、再び、ナイフとフォークを手に取った。
「だけならば?」
「だけならば、何故、私たち守護聖が、サクリアを司っているのかと。」
「それは、何故、ヒトたる我々が、という意味か?」
ジュリアス様も、呼応するように食事に戻りながら、先を促す。
「はい。そうです。」
「なんと答えたのだ。」
 カチ、とナイフがプレートに当たる。
「分かり合えない事を、確かめる為に、と。」
 ジュリアス様は、フッ、と小さく吹き出すように笑った。
「笑いましたね。俺は本気ですよ。」
 俺はやや恨みがましい視線をジュリアス様に向ける。相手がジュリアス様でなければ、フォークの先を向けているかもしれない。
「まあ、そうであろうな。」
 添え物のラディッシュを口に運んでから、ふ、フフ、と堪えきれないというようにジュリアス様は笑いながらナフキンで口を拭う。そういえば、こういった丸ごと系のサラダが出るのも、厨房が俺に気を使ってくれているのかもしれない、等と思い至って、俺もそれを遅れて堪能する。まだ笑いが収まらないらしいジュリアス様に、
「何がそんなに可笑しいのですか。」
 引き続き恨みがましい視線で問う。
「いや、済まない。可笑しいというのではない。だが、飛躍があろう。分かり合えない事を確認する為に、ヒトがサクリアを送る。それこそ、なんのためにだ・・・?」
 ジュリアス様は、ワイングラスに指先をやりつつ、笑いが収まるのを待っているような素振りだ。
「さあ。」
 クックック、と更に愉快気にジュリアス様は喉を使って笑った。
「分かり合えない事を、確認する為に・・・。」
 まるで独り言のように呟いた俺の声に、ジュリアス様は、視線をこちらにやりながら、ワイングラスを上げ、先を促した。
「ために?」
「・・・そのために、何かを、伝えたり、表現したり、するのではないでしょうか。サクリアを『送る』という行為も、そういったコミュニケーションの一種と考える事も、できるのではないかと。」
 ジュリアス様は、黙ったまま、グラスを傾ける。
「・・・悲観的に、すぎますかね。」
 ジュリアス様は、穏やかに笑んだ。白熱灯の照明は、穏やかなのにも関わらず、俺は目が眩むような錯覚に陥る。
「いや。」
 短い答えに、俺が、どう受けとったものか、逡巡していると、
「やや、前向きに過ぎるくらいだ。実にお前らしい。」
 思いがけない言葉が続いた。
「もしかして、褒められていますか?」
「もしかしなくても、感心している。」
「・・・。」
「もしかして、照れているのか。」
「ジュリアス様は、存外、人が悪くなられたようですね。」
「そうかも知れぬ。お前がメインディッシュに早くたどり着きたくてしょうがないのを分かっているのに、こうしてゆっくりと食事を摂っているのだからな。」
 思わず食べていたものを飲み込み損なって、噎せ込む俺に、ジュリアス様は面白くてしょうがない、といった様子でまたも喉で笑っていた。

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 更に数日後。

「このレポートの何処に不満があるというんだ。」
「おおよそ、全てですね。」
 その、したり顔が気に喰わない。
「全てとはなんだ、全てとは!」
『またやってら』と言いたげに、年少組が俺たち二人の横を舌を出しながら通り過ぎて行く。
「そもそも、その視察は結論ありきではないですか。馬鹿げています。第一・・・。」
 言い募るリュミエールの後ろを、今度はオリヴィエが、「オツカレェ〜。」等と言いながら、ヒラヒラと手を上げて通り過ぎる。
 この分からず屋を、誰か説得してくれ!という俺の胸中の叫びは誰にも届かないというのか。
「結論ありきではない。それならお前の調査はどうだ!調査目的が明確なのと、結論ありきなのは全く別のことだぞ!!」
「調査目的が恣意的に過ぎると申し上げているのですよ。そんなことも分からないのですか。怒りを通り越して、呆れるというものですね。」
 全く、ああ言えば、こう言う!!
 イライラとしながら、俺が何事か言い募ろうとするのを、ポン、と俺の背を叩いて通りすがりにジュリアス様が止める。
「ああ、ジュリアス様、何とか言ってやって下さ・・・。」
 天の助け、と俺は一度天を仰ぎながら大きく手を振って、訴える。
 ・・・が、ジュリアス様は、続けようとする俺を遮り、
「分かり合えないことを確認するためのコミュニケーションだとか。励めよ。」
 ポンポン、と俺の背をもう一度叩いて、置き去りにする。
 なんてことを・・・と固まってから、えい、くそ。と、仕方なく、リュミエールに視線を戻す・・・と、リュミエールは、ニッコリと完成度の高い笑みを見せ、
「オスカー。情動とは、存外厄介なものですね。分かり合えないと分かっていても、なお、分かり合いたいと思うのですから。」
 なぞと、意味不明のことを宣い、
「この後、私は打合せがありますので、これで。レポートの反論は内線かメールでお願いしますね。いずれにせよ、このままでは稟議は承認しかねますので。」
 きっぱりとした口調で踵を返す。
「おい、ちょ、どういう意味だ!というか、稟議は急ぎなんだが!」
 背中に向かって叫ぶも、取りつく島も無い。
 いつものように、遅れて会議室から退室してきたらしい、クラヴィス様とルヴァは、
「難儀なものだな。」
「ええ、ええ。人と人というものはねぇ。」
 絶対に話を聞いていなかったに違いないのに、分かったようなことをブツブツと呟きながら呆然と立ち尽くす俺をやり過ごして行く。

 ああ、ああ、そうだろうよ。
 丸めたレポートを握りつぶしながら、
「俺は誰にも分かってもらいたいなんて思わないぞ!」
誰にも届かないであろう表現活動に一人勤しむ。

そう、コミュニケーションなんてものは、大概、そういう性質のもんだ。
そうだろ?





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