6章:苦い薬
「・・・、もしかして・・・、リュミちゃん?」
通りすがりに、すれ違って2、3歩で、勘の良い友人は振り返った。
ここで無視すると、かえって不審に思うだろうと思い、私も振り返る。これが夜なら、あるいは気付かれずに済んだ、と思うと我ながら運が悪い。仕方なく、振り返り様、声を落として、という意味で、唇に小さく人差し指を当て、微笑した。
ここにオリヴィエがいるということは・・・近くにジュリアス様もいるということだ。オリヴィエはともかく、ジュリアス様にこんなところを見られるのはまずいな、と私は脳裏でちらと考える。
「(そのカッコ、どしたの?)」
奇麗に手入れされた細い両眉を、怪訝そうに寄せて、オリヴィエは囁いた。このカッコ・・・膝丈はある黒いマントで全身を覆い、深くフードまで被った、この格好は、どうみても怪しい。
ここでは、長距離を徒歩で移動する人間は長めのコートを塵除けとして羽織るので、コート自体はさほど目立たないことを割り引いたとしても、普段の私の格好と比べれば、間違いなく「異様」だろう。
・・・さて、どうするかな。と脳裏で考えを巡らせつつ。
「(証拠を、掴めそうです。今、罠を仕掛けているところなのです。)」
微笑したまま、私は小さく言った。オリヴィエは一瞬だけ、ほんの僅か、目を見張ってから、
「(何か、手伝えることある?)」
回転の早い彼ならではの変わり身で、伏し目がちに、シリアスに聞いてきた。
「(えぇ。では、・・・・。)」
「(・・・。・・・了解。)」
彼は何か考え事をする時のように、人差し指を折り曲げて、鮮やかな色に染められた唇に当てながら私の願い事を聞き。小さく頷くと、そのまま、すぃ、といつもの猫のようにしなやかな動きで、通り過ぎていった。
私は彼の残り香に、瞼を伏せて。
少し、笑った。
もしかしたら、私は・・・。
ひどく、愚かな事をしようとしている。
けれど、オリヴィエ。
貴方なら、分かってくれるでしょう?
なんとなしに、見上げた青空では、雲が何かに追い立てられるようにして翔っていた。
上空では、風が強いのだ。
私達のいる此処は、まるで空気が沈滞しているかのような、静けさだというのに。
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扉の前に立って、すぐに分かった。
―ここか。
どうやらやっと当たり籤を引くことが出来たようだ。
4つ空振りしたので、5件目。すでに日の曜日の朝を迎えていた。金の曜日のどの時点であの男が拉致されたか知らないが、既に1日半は確実に秘書に時間を与えたことになる。胸に届く炎のサクリアに特に変調はない・・・ということは、つまりあの男は無事だ。
「どう」無事なのかは知る由もないが。
ふと思いついて、ノブに手を掛ける前に、指先を目の高さに上げてみる。肉眼で認められるか、られないかの僅かな震えがあった。
『お前なら・・・大丈夫だとは、思うが。』
闇の守護聖の忠告が脳裏に再度閃いたが、残念ながら、今の自分が冷静か、そうでないかの区別はつかなかった。
ものの1、2秒かけて、そんなセルフチェックを終え、私は扉を一気に開く。
案の定、鍵はかかっていない。
後ろ手に、すぐに扉を閉めた。
視界正面に、彼が。その奥に見慣れたはずの男の裸体が転がっていた。目が室内の暗さに慣れるまで数秒。色彩を取り戻した視界では、男の身体は、いつだったかの私のように、吐瀉物か、唾液か、汗か・・・それとも精液か。汚らしい液体にまみれていて。少々の打撲跡も見られた。そして、タオル一枚すら、男の身体には掛けられていなかった。
―・・・知っている。あの肉の塊は、私だ。
私が扉の前に立った時から、秘書は私に気づいていたのだろう。いつもと変わらぬ詰め襟姿で、どうやら気を失っているらしい男の前に立ち、私に棒立ちで対峙している。
私はゆっくりとフードを脱いだ。
ゆるり、と視線を上げ、鳶色の瞳に合わせると。静かに、何かを待っているかのように。秘書は穏やかに笑んだ。
―・・・知っている。この絶望も、私だ。
右手を降ろすと、隠し持っていた小太刀が自然に袖から滑り落ち、音もなく、掌に収まった。
「よっ・・・せっ!!リュミエーーーーールッッ!!」
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それはそれは絶妙なタイミングで。気を失っていたはずの、赤い髪の男が、俺の背後で叫んだ。初日に無理をさせすぎ、昨日の午後からは休ませてはいるものの。それでも声を出すだけでも大変だろうに、全くよくやる・・・と俺は振り返らぬままに、感心する。
痛め付けられた男を、確かに視界に収めたはずのその人は、想像とは違い、驚愕の表情ではなく。仮面が張り付いたかのような、無表情。
髪が高い位置でまとめられているせいか、それとも羽織っている黒いマントのせいか。少し表情がきつくみえるのが、辛うじていつもとの違いだった。利き手には、短剣が握られている。
―ああ、やっとだ。
俺は瑠璃色の瞳を見つめた。
ラン、と一度。その瑠璃が輝いて、彼は動いた。こちらに向かいながら、最小限の流れるような動きで、短剣から鞘を、左手で取り去る。
入り口から俺まで、せいぜい二十数歩の距離を、音をさせずに。だが素早く、ススス・・・と、その人は詰め。これもまた、想像とは違い、半狂乱にではなく、まるで暗殺者のように。
ススススス・・・ドンッ。
俺の腹部にそれを鋭く突き刺した。俺が事前にその人が握っている短剣を見ていなかったら、互いの肩がぶつかっただけのように感じたかもしれない。
ちょっと、想像とは違ったけど。ゲームには勝ったな・・・と、笑う。
アンタが敵でなければ、良かったのに。そしたら、俺は・・・アンタをこんなことに突き合わせずに済んだだろうに・・・と今更ながら、巻き込んでしまった背後の男を想う。
「よ、せっ・・・。」
ドタン、と背後で床でもんどり打つ音。
俺の下腹部に短剣を突き刺したままに。その人は、俺の肩口の辺りに頭を付けて、俯いていて。表情は見えない。短刀を持っている右手には未だ力が入っていた。
そう、その刀を、捩ってくれ。
それだけで。
憎しみも、怒りも、悲しみも・・・全部置き去りにして。
どこか・・・遠くへ。
俺は殊更ゆっくりと、目を閉じた。
「殺しません。貴方の願い事を、聞く義理はないので。」
俺の感傷的な気持ちを読んだかのようなタイミングでかけられた、冷たい声に驚いて目を開けると。陶器で作られた人形のような無表情が。恐ろしい程の、凍てつくような切れ長の瞳が俺を見上げていた。
なんだ・・・それじゃあゲームは・・・。
知らず、その白い仮面を見下ろしながら、俺は口の端に失笑を上らせる・・・と、その時。
ズッッ・・・と、突然下腹部の肉を丸ごと刮(こそ)がれるような痛みが襲った。
短剣を一気に引き抜かれたのだ。
「っっ・・・・。」
じわ、と血が滲み、あっと言う間に俺の制服と、彼のマントを汚していく。
このまま放置されたら、失血死できるかもしれない、と俺は一瞬考えたが。パチン、とその人は短剣を鞘に収めて俺から離れつつ、
「すぐに人が来ます。止血しなくても、命くらいは助かるでしょう。」
静かな声で甘い幻想を否定した。
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ドサ・・・。
大きな体躯に似合う、重たい音がした。
殺さなかった・・・ということは、私は冷静なのだろうか。
考えてから。ああ、そうか、小太刀を鞘に収めたのは失敗だったな、と思い直して、鞘と小太刀を別々に、床に崩折れた長身の男の側に投げた。
「うっ・・・。」
オスカーの呻き声に、我に返ってそこに駆け寄る。全身の傷の状態を確かめてから、自分の膝の上に男を仰向けにして、上半身を抱く。マントを外して、その身体をくるんだ。
洗ってやりたいが、時間がない。
「殺し、て、ねぇ・・・な?」
オスカーは焦点が合わないのか、煙った瞳で私を見上げる。思ったより大分弱っている。その様子に一瞬。やはり殺しておけば良かったかもしれない、と静かに奥歯を噛み締める。
「えぇ。殺していません。」
張り付けた無表情のままにに、男の顔を見下ろす。顔は、そこまで汚れていない。汗で髪がべとついているだけで、見窄らしく見えるのは、この男の顔が整いすぎているせいだ。
「なんで・・・来たん、だ。ば、か。」
呟くのは、少し腫れている唇。いつもなら、仕方なさそうに笑うだろうところで、男は疲れ切ったように表情がなかった。
私が来なかったら、あるいは、貴方の思う通りの解決が出来たかもしれませんね、と自嘲気味に笑う。
何故。
そこまでする必要がある。
この男は自分の「何処まで」と、引き替えに。彼に何をしようとしたのか。
彼の兄に、大きすぎる借りがあるからとでも、言うつもりか?
だが、考えてみれば、如何にも。
如何にも、この男の考えそうなことではあった。
「な、く・・・・な。」
震える指先が私の頬に伸びた。
また、そんなことを言う。私は泣いてなどいない。
許せないのは。
男の変化に気づかず、後手に回った自分か。
予測していた状況に、思った以上に動揺した自分か。
それとも。
この男の『義務感』とやらを甘く見ていた自分なのか。
少なくとも・・・そこに寄りかかることしか出来なかった秘書を、私に糾弾する資格があるのかどうかは疑わしい。
「俺は、こんな、こと・・・じゃ。曲が、ら・・・ねぇ。」
よく知っている、貴方が頑丈なことは。と嗤ってやろうとして・・・
「お、ま、え・・・も。」
・・・失敗した。
ぱた、と。知らないうちに目頭に溜っていたものが一粒、オスカーの頬に落ちる。
「すぐに、人を連れて、オリヴィエが来ます。」
そう言ったか言わないかのうちに、外で数人の足音がし始めた。俄に、周囲が騒がしくなる。オリヴィエに渡した緊急用のブザーは、部屋に入る直前にスイッチを入れた。流石はオリヴィエ、と言うべきか。思ったより少し早いが、大体は、私の算段通りだ。昨日、彼と偶然に出会ったのは結果的にはよかったな、と思った。
「聞こえていますね?オスカー。彼の、忘れ形見を罪人にできないのでしょう?」
私は、気を失ったように動かないオスカーの身体を少し抱え上げ、耳に唇を近づけて続けた。
「誰にも、何も、言わないでください。このルールを守って下さるなら、私が被ります。分かっていると・・・思いますが。貴方に選択権など、ありませんよ。」
これで、前任の秘書からの借りは返したと思っていいだろう。
「貸し・・・ですね?・・・これで、本当に。貴方は私のものだ。」
そして同時に。貴方を縛る鎖も、手に入った。
バンッッとけたたましい音で、扉が開き。暗い室内に大量の光が差し込んで、瞳を焼いた。
あぁ。
けれど、オリヴィエ・・・。
貴方なら、分かってくれるでしょう?
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その日は朝から事件が発覚し、日の曜日にも係わらず、午後から慌ただしく、査問を開始する羽目になった。
査問用に用意した、小さな会議室で。当事者の残り二人はその場で病院送りだったので、自然、一番最初に査問にかけられることになった彼は、背筋を伸ばし、私とロザリアの瞳を真正面から見返して、ほとんどの質問に、澱みなく答えた。まるで、予め質問に対する答えが用意してあったかのように。
「秘書の彼が、突然襲いかかってきて、揉み合う内に、気づいたら、あのような事に。」
何故、彼を刺したのか、という内容に質問が及ぶと、少し、伏し目がちにして、彼は胸元を抑えた。
「揉み合って・・・、ねぇ。あまり争いの跡は見られなかったようですけど?」
私は小さくため息を付きながら、視線を逸らした。
「思ったより、揉み合っていないのかも知れませんね。なにせ、突然のことだったので。」
「・・・。では、そもそも何故彼処に3人で?」
「私がオスカーと話し込んでいるときに、彼がオスカーを呼びに来ました。そして、オスカーの有様をみて、激昂して襲いかかってきました。」
ちらり、と。隣に座り、レコーダーで記録を取っているロザリアに視線を送る。時間の無駄・・・よね?と。
「あんな場所でオスカーと二人で話を?」
しかし、話を切り上げる訳にはいかない。それが、義務である以上。
「ええ、あんな場所でしか、話せないことでしたから。」
「それは・・・例の薬についての話ですか?」
「ええ、その通りです。」
「貴方がドラッグ・・・。しかもそれをオスカーに強要・・・。逆なら、少しは信憑性もありそうですけど。聖地を抜け出して、ドラッグを入手して帰ってくる貴方が、私には想像できない。」
それまで、ずっと殊勝な声で、間髪いれずに回答して来たリュミエールは。私のこのコメントを聞いて、少しだけ、沈黙した。その沈黙に誘われるようにして、彼に視線を戻すと。彼は一枚の絵画のように、美しい微笑をこちらに向けた。
「私は、ならず者です。陛下。今回のことで、よくお分かりになりましたでしょう?・・・きっと、『育ち』のせいでしょう。」
「っ!」
『育ち』と言いながら、真っすぐにこちらを見据えた瑠璃に、私は知らず、息を飲んだ。
「やはり、ご存じだったんですね。」
ふふ、とまた彼は伏し目がちにして続けた。私は会議机の上に出したままにしていた自分の右手をじっとみて、それをゆっくりと拳の形に変えた。
「・・・なんのことです?・・・自分の未熟さが、本当に嫌になります。」
儀礼的に、惚(とぼ)けてみせたものの。続けて言った小さな独り言は、彼の問いを認めたも同然だった。
ロザリアが隣にいなかったら、動揺のあまり、何か喚いていたかもしれない。
「未熟だなんてとんでもない。きっと、私がどうしようもなく、狡猾なんです。陛下。」
軽やかな明るい声音に、そちらに再度視線を送ると、彼は私を慰めるかのように、優しげに笑い、首を傾げてみせた。しゃらり、と肩の上に落ちた薄い色の髪が少し。彼の背後の窓から刺しこんでいる光に融ける。
「あら、矛盾してるわ。それなら、何故。狡猾な貴方が、こうも易々と私達に尻尾を掴ませて・・・しかも、今まさに、処分されようとしているの?」
ははっ、と突然。リュミエールは鼻頭に皺を寄せ、今まで見せたことのない、あどけない少年のような笑顔を見せて。
「本当ですね。熱でもあるのでしょう。困ったものだ。」
独り言のように・・・楽し気に呟いた。
私はやはり、それを見ていられなくて。視線を逸らして、漫然と自分の右手を眺めて言った。
「狡猾なんじゃなくて、貴方は慎重なのよ。時折、慎重すぎるくらいに。」
熱・・・それは、どんな熱?
一度浮かされると、もう後戻りできないような、そんな熱?
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俺の査問は、事件から15日後に行われた。
「身体はもういいの?」
『壮絶な効果をもたらす、解毒作用の薬』と、ルヴァに調べてもらったものを打って、毛穴も含む体中の穴という穴から毒を出す羽目になり、あまりの壮絶さに後悔した、などとはとても言えない。
それに、結果として、思ったよりだいぶ早く復帰出来ることになったのだから、文句を言う筋合いでもない。
「ええ、もうほとんど抜けました。」
心配よりは、どこか苛立ちや焦燥の方が勝っている顔付きの、陛下の質問に。俺は微笑を沿えて返答した。
査問は、通常なら簡易にでも査問委員会を立てるものだが、部屋は小さな会議室で、部屋にはロザリアと陛下の二人だけだった。機材はといえば、大きめのレコーダーが一つ。ロザリアの前に置かれているだけ。しかも陛下もロザリアも俺と同じ高さに・・・それも歩いて10歩もないような距離に、長方形の長い会議テーブル越しに座っていた。
あんな事件の後だ。護衛くらい、つけてもよさそうなものだが、警備は部屋の外だ。監視カメラもない。どうやら、俺は過度に信用されているのだな、と頭の片隅で思う。
「・・・と、リュミエールは言ってるのだけど。オスカー、少しで良いから、何か・・・話してくれませんか?」
普通、話の帳尻を合わせるのを防ぐために、他の者がどんな話をしているかは伏せるものだが、ここでもやはり、陛下は定石を取らなかった。
「リュミエールが、そう言っているのでしたら、それが事実です。俺に、他にお話しすべき事は、ありません。」
伸ばした背筋、膝の上の拳はそのままに、真っすぐに陛下の明るい翠色を見返す。
まるで、賜った信頼を、切って捨てるかの如く。
「二人して、何を・・・必死に守ろうとしてるの?私も、貴方たちを守りたいと・・・思ってるのだけど、その気持ちは受け入れてもらえないの?」
陛下は一度、悪戯っぽく笑って。
「・・・。」
俺の沈黙に失望したように、瞳を煙らせる。煙った視線がゆっくりと落ちた先は、テーブルの上で利き手を下にして交差させられた、小さな両手だった。その指先は、華奢すぎて、頼りない。俺達は、この手に護られているのか、と思うと不思議な感じがした。
「守護聖の処分の方法、貴方は私より、ずっとよく知っているでしょう?彼のサクリアは未だ「尽きる気配など微塵もない」んですよ?『私に、そんなことをさせたいのですか?』という言い方をしても、貴方は持ち前のフェミニズムで私の味方になってくれないの?」
口調には笑いが交じっていたが、それでも俺には十分「悲痛な心の叫び」に聞こえた。
内規によれば、罪を犯した守護聖は、サクリアが尽きるまでの幽閉。加えて、公式の記述は見当たらないが、女王陛下にはサクリアが早く尽きるように、人為的にその力を奪い、幽閉期間を短くすることも可能だとか。陛下の仰っしゃるところの『そんなこと』は、長期間彼奴を幽閉することか、彼奴からサクリアを奪うことか、あるいはそのどちらもかもしれないが、何れにしろ、俺には知る由もない。
「アンジェリーク・・・。」
ロザリアが、ほとんど声を使わずに陛下の名を呼ぶ。
陛下に、言いたくないことを無理に言わせているのは、俺だ。なのに、当事者の俺は何事もないかのように、平然と陛下を見つめ返しており、悲痛な面持ちで、陛下を気遣っているのはロザリアだった。
「・・・。」
だが。・・・「無駄に、する気か?オスカー。」と、自分を戒め、グッと、喉の奥に込み上げてきそうになる何かを堪える・・・それを身体の微細な変調に、滲まないようにする訓練は積んでいるつもりだった。俺はただ、まっすぐに。その金髪の少女にみえる、宇宙を統べる人を黙って見ていた。
「何か、言いたいことはないの?」
何かを諦めたような小さなため息の後、早口に陛下は聞いた。
「リュウ・ムライを、査問にかけるのは、ご容赦下さい。陛下。彼は混乱しています。精神的にも、かなり参っています。」
その質問には、これまでの緊張が嘘のように、滑るように台詞が口をついた。
「・・・貴方の台詞とは思えませんね、オスカー。仮にも、貴方が雇っていた秘書でしょう?精神的に参っているから査問には応じられないですって?どれだけ我が儘なことを言っているか、お分かりでしょうに。」
固い声音と視線だった。
俺は、分かって、いないのかもしれない。
「では、せめて。俺の同席をお許し下さい。」
自分が一体、何をしているのか。
「・・・。彼にとっては、そっちの方が辛いのではないの?」
陛下からは聞いたことのない、深刻な、深く長いため息の後。陛下は両手の少女のような指をぎゅっ、とテーブルの上で絡め、小さな声で言った。
「陛下。彼は俺を守ったのであって、陥れたのではありません。ですから、彼は、俺が同席した方が良いのです。」
淡々と返すと。
「・・・、お好きにどうぞ。オスカー様。」
見ているこちらが痛々しく思うような、柔らかな笑顔で、少女は昔の呼び方で俺を呼んだ。
俺が一体「誰」に甘えているのかを、彼女は態と、俺に教えてくれようとしたのかも知れない。
それしか能がないかのように、相変わらず不動の姿勢で陛下を見ている俺にうんざりしたのか、
「では、オスカーへの査問を一旦終了します。30分後。このままリュウ・ムライの査問をこの部屋で行います。」
少しだけ、ふてくされた少女のような表情を滲ませて、陛下はスケジュールを告げ。ロザリアに「記録を止めて」と手を振った。
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陛下とロザリアが退出してから、俺はゆっくりと席を立った。
ふぅ、とため息を吐いて扉を開き、廊下に出ると。華奢な男が、自慢の肩を露出した私服を着て、廊下の大窓に身体を預け、物憂げな表情で外を眺めていた。
その男はゆっくりと、こちらを振り返って、
「はぁ〜い☆元気ぃ?・・・って、ンなわけ、ないか。」
一瞬だけ態とらしい明るい笑顔を作って。人差し指と中指を伸ばし、こめかみの辺りにくっつけると、それを少し真横に振ってみせ。最後は自嘲気味に笑って肩を竦めた。
俺がそちらに歩みを進めたのを認めてから、男は視線を窓の外に再び投げる。囁き声でも十分に聞き取れる間合いに俺が入った頃合いに、男は言った。
「愛されちゃって。」
―誰に、だ?
思ってはみたものの、聞く気になれず。俺は黙ったまま、足元から天井までの細長いガラス窓に、左腕の肘から先を当てて陰を作り、映り込みを軽減すると、オリヴィエと同じ方向に視線を投げた。
「アンタが用意して、リュミちゃんが仕上げた、この茶番劇に。なんでアタシまで、巻込まれてるんだか。」
男がフッと嗤ってから、俺の横顔を見上げているのが、目の端に映る。
俺は視線を動かさないままに、ぼぅっと外を眺めていた。
「アンタさー。リュミちゃんの思惑、分かってンの?」
俺の鈍い反応に苛ついたように、男はピンクに染めた前髪を乱暴に掻き上げた。
「リュウを、彼奴は信用してなかった。だから、態々来たんだろ?その上、俺の気持ちも慮って、リュウの分まで泥を被ってくれるんだとさ。」
俺はハッ、と高く笑って目を伏せた。
「有り難くて、涙が出るぜ。」
実際には涙など、これっぽっちも出やしないが。
「ドラッグの持ち込みと使用、それに傷害?人が死ななかったのがせめてもの救いよねぇ・・・って、オスカー。」
ぐい、と無理やり執務服の襟を左手で掴んで、男は俺を振り向かせる。右手はお得意の人差し指でビシッだ。
俺は頭一個分下にある、オリヴィエの顔をぼんやり眺めた。
「アンタがあの子を信頼してやまないのは結構だけど。何をもって信用の担保にしてる訳?」
俺はそれを言葉で説明する術を持たない。
「俺が信用すると決めた人間は大丈夫なんだ。今までずっとそうだった。」
分かる訳がない。第一、他人に分かってもらおうなどと思ったこともない。自然、乾いた声で俺はやる気なく答えた。
「アーラッ、大した自信だことっ!それで結局このザマって訳。」
大仰に高い声で言ってから、憎々しげに吐き捨てて、男は眉を寄せた。いつの間にか、奴の右手も加勢して、俺は胸元を両腕で掴まれ、ガクガクと振るわれた。
「ねぇっ?!・・・ねぇってば!?」
なんとか言え、とばかりに何度も聞かれる。気の済むまで好きにさせてから、奴の激昂が収まった頃合いを見計らって、
「そうだ。」
長い睫を見下ろし、短く答えた。オリヴィエは、俺の無表情を見つめたまま、クスッ、と小さく笑って項垂れた。
俺は何かヘマをやっただろうか?いや、やっていない。ただ、リュミエールが・・・奴が。俺とリュウのゲームを横取りし、横取りした割には、俺に対して気を使ってくれている。
それだけだ。
だが・・・それが結果として、俺にとって居心地の悪いものなのは、やはりリュミエールの行動を予測し得なかった俺自身のせいなのだろう。
「アンタには、大事なものが多すぎる。それに・・・その全部をアンタ一人で護りきるには、アンタは周りに愛され過ぎてる。いい加減、それに気付いたら?」
項垂れたままに、馬鹿にしたような低い声で、小さく言って、オリヴィエは俺の服から手を離し。ドン、と一度拳を俺の胸に当ててから、去って行った。
暫く。俺は其処に、じっと佇んで、小さくごちた。
「あまり・・・俺を甘やかすなよ、オリヴィエ。」
俺は、未だ自分の前から動こうとしない、オリヴィエの幻影を見て、笑った。
今にも泣き出しそうに寄った眉。マスカラでボリュームアップした睫に縁取られたダークブルーが、俺を責めていた。
窓に背を預け、両腕を組んで、窓の外に視線を戻す。
そこにあるのは、オリヴィエも眺めていた、焦げ茶の・・・煉瓦造りの平屋建。
そこに、リュミエールは事件後、留置されている。今日、リュウの査問で真偽がはっきりしたら、内々の書類裁判で奴の幽閉はおそらく確定するだろう。異議申し立てなど、書類嫌いの彼奴がするはずがない。第一、する理由もない。
幽閉先が何処かまで、俺は知らないが。
『アンタさー。リュミちゃんの思惑、分かってンの?』
リュミエールの、思惑?
分かる訳ないだろうが。
自慢じゃないが、彼奴の考えなぞ、俺は分かった試しがないんだからな。
『その全部をアンタ一人で護りきるには、アンタは周りに愛され過ぎてる。』
難しいことを、言うなよ。
俺は、自分の内側だと決めた人間には、手を伸ばすと、決めているんだ。
だが、今回のように、それが何かとトレードオフになる時には?
俺の知らないところで、誰も。
俺の為になど、手を伸ばさないでくれ。
そんな高等な算段は、俺には無理だ。
俺は、どんな複雑なタイムスケジュールだって、こなす為の解を見つけだす自信がある。
だが、『そんな』算段は俺には無理だ。
ただでさえ、男は嫌いだが。他人の罪を黙って被るような、そういう・・・
「気障な男は、もっと嫌いだ。」
俺はその建造物を睨んだままに、目を眇めて。クッと喉詰まらせ、短く笑った。
--
「リュウ・ムライ。今から、私がひとつ質問します。必ずイエス、と答えるように。いいですか?これは私からの直接の命令です。」
程なくして始まったリュウの査問の第一声が、これだった。しかも、これ以上はあるまい、という仏頂面で、早口に。
「ロザリア、記録開始して。」
「はい、陛下。」
例の長テーブルに二人は再び座り、俺は少し離れた壁際に椅子を用意し、その様子を横から眺めていた。リュウは、先程の俺のように、ポツンと置かれた椅子に、窓を背後にして、陛下とロザリアを前に。きちんと背筋を伸ばして座っている。
「この調書を黙読しなさい。そして、読み終わったら、その内容が事実であれば、イエス、事実でなければノーと答えなさい。」
・・・無茶苦茶だ。こんなのは、査問ではない。
俺は陛下のあまりに荒っぽいやり方に、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
リュウはと言えば、困惑した表情で、席を一度立ち、テーブルにポン、と置かれた一枚の紙を受け取り席に戻って、一通り目を通すと、更に怪訝そうに、眉根をギュッ、と寄せた。
暫く、紙の内容と、陛下の仏頂面を交互に見比べてから、俺の方にちらっと視線を送る。俺は、冷や汗を背にかきつつ、何も見えない振りで、壁の一点を見つめてじっとしていた。
「??・・・イ、エス。」
リュウの戸惑ったような声。
「以上で、リュウ・ムライの査問を終了します。」
ほとんど睨み付けるような仏頂面のまま、陛下は投げやりに言うと、ガタッ、と席を立った。ロザリアも静かにレコーダーのスイッチを止め、その後に続く。
ロザリアの後ろ姿を数秒眺めていたが、急に何かに背中を叩かれたように、勝手に身体が動いて、俺は慌てて二人を追った。
「・・・・へ、陛下!」
俺は扉を開くなり、廊下を歩く陛下の後ろ姿を呼び止める。
「なんでしょう?オスカー。」
陛下は身体全体で半分ほど振り返った。まるで彼女が女王候補だった頃のように、ジロリ、と俺を睨む。
「いえ、その・・・。なんでもありません。」
呼び止めた時に伸ばした手を、どうしていいのかも分からず、俺はそのままの情けない格好で固まって、言った。
「オスカー。悪くないわ。悪くないの。だけど、もっと良くなって。」
陛下は、ふぅ、とため息を吐きつつ、長い睫で大きな翠を隠して、難しいことを言った。
「??」
意味が分からず、俺が困惑したままに固まっていると、
「『なんでもありません。』行きましょう、ロザリア。」
彼女は重たそうなスカートを少し持ちあげて、俺に背を向けた。
少女は、いつの間に、女性になるのだろう。
頼りなかった少女は、いつの間にか、俺の考えの及ばないような昂みに上りつめていて。
いつの間にやら、置き去りにされたらしい俺は、彼女の見ている景色を想像すら出来なくなっていることに気付いた。
--
な、なんだったんだ。ありゃ・・・。
思わずには、居られない。置いていかれた『調書』とやらには、何をどう調べたらこうなるんだ?という滅茶苦茶が書いてあった。しかも、俺のような下っ端に、女王陛下直々の命令が下ったと思ったら、その内容たるや、「必ずイエスと答えろ」だ。
「一体、何が起こってるんだ?」
小さくぼそぼそと問うてはみるものの、誰もいない室内だ、勿論返事などない。
首の皮一枚、リュミエール様に繋がれたからと言って、守護聖様に毒を盛ったとなれば、極刑だってあり得るだろうと思っていたが。
「〜〜〜〜ッッ!!」
バリバリと頭を掻く。元々オツムの出来があまり良くないんだ。誰か説明してくれよ・・・と思ったところで、査問が終わってすぐに慌ただしく出て行った、赤い髪の男が部屋に戻ってきた。
顔を合わせるのは、『あの日』以来で。しかも俺は、さっきは査問開始ギリギリに連れてこられたので、禄にこの男と目もあわせていない。
久々に見たアイスブルーは、視線がかち合うなり、ニヤッと、例の不敵な笑いで迎え撃つ。
一瞬、思考が停止した。が、
「顔を貸せよ、リュウ。嫌とは言わせないぜ?」
射るような視線と共に掛けられた言葉に、ああ、そういう事か、と納得する。いくらでも貸してやるさ、と俺は思った。
俺はゲームに勝ったはずだ。なのに、望む結果は得られなかった。
殴れよ、いっそ、殺ってくれ、と俺は思い、視線を落として苦笑してから、踵を返して部屋を出た男の背中の後ろを、ただついていく。
連れて行かれた先は、男の執務室だった。
部屋に入るなり、男は扉の閉まった音を確認して、歩みを止めた。
それに合わせてこちらも、その背中を睨みつけたままに、ピタリ、と直立する、と突然。ヒュ、と小さく男の口が鳴ったと思う。
ビシィッッッッ
俺に背を向けたままに繰り出した男の裏拳は、狙いすましたように俺の右頬に決まり、俺はいつものように気を張っていなかったのと、最早何もかもどうでも良かったのとで、それを真面に食らい。顔が吹っ飛んだ勢いで、その場に横から倒れた。
無意識に受け身を取っちまったのは、ご愛嬌だ。
口の中が熱くなって、すぐに液体だらけになる。俺は気にせず、それを床にペッと吐き出した。もう、「掃除しろ」とも言われやしないだろう。
ゴロリ、と寝返りをうって、天井を向くと、上から男はニヒルな笑みで俺を見下ろした。
「イイザマだな、似合ってるぜ?」
フッ、と男は自分の顎先を長い指で撫でた。
俺はぼんやり、それを見上げていた。
と、男は不意に笑い顔を引き締めて腰を折り曲げ、俺の胸倉を掴み、ぐいっと腕力で引き上げる。
俺はなされるがままに、俺の目をジッと見つめる無機質なアイスブルーを見返す。と、信じられない言葉が、その真剣な顔から飛び出した。
「俺が身内だと決めたものは、俺の身内だ。外には出さない。お前は・・・その意味では、リョウが死んでから、ずっと身内だ。」
「・・・。」
絶句、とはこういう事を言うのだろうか。全く、言葉が出ない。
「どうした。お前は俺の、忠実な部下なんだろ?返事は?」
眉がくい、と吊り上がり、遅れて口の端が片方、少し上がった。
B級映画の悪役みたいな、その表情。俺は小さく、クスリと笑い。俺の胸倉を掴み上げている男の手首を掴んで、立ち上がる。
「・・・。アンタ、長生きしねぇよ。」
ぼそりと漏れ出た独り言に。男は、いつものように芝居がかった、得意げな調子で言い放った。
「ハッ、長生きなんざ、するつもりもないがな?」
瞳の奥に刺きささるような、鋭く挑戦的な視線。
周囲を威圧するのに、何故か・・・辺りを惹きつけてやまない。
この俺が、アンタの身内だと?
アンタの思考回路は一体全体、どうなってるんだ?ひょっとして自分がされたことをもう忘れちまったってのか?
俺は、目を伏せ、肩を竦めようとして。
瞼の裏に、兄貴の人の良い笑顔を見た。
その画像に驚いて、目を開ける。
目下のアイスブルーは、阿呆のように開いた俺の瞳を見て、今度はふっ、と力を抜いて笑いかけた。
じわ、と急激に何か暖かいものが、込み上げてくる。ずっと、寒い風に晒されていた、暗い胸の底が。
・・・熱い・・・。
「ふっ・・・ぐ・・・。」
情けない嗚咽が勝手に漏れて、俺は片手で口を覆った。目を伏せたら、ぼろ、と涙が床にこぼれ落ちていく様が、まるでスローモーションのように映る。
何も言わずに、男はじっと側に佇み。暫くしてから、ぽん、と手を伸ばして俺の頭の上に手を置いた。
その感触に。昔、同じように、兄貴が俺の頭に手を置いた時のことを、鮮明に思い出した。
アレは、俺がまだ7,8才の頃だったろうか。
兄貴の手は、上から自然に、ぽん、と俺の頭に落ちた。
『親父は、お前に期待してるんだ。俺への指導より、お前に対しての方が厳しいのは、お前に道場継がせるつもりだからだぞ。』
『ひっ・・・・ぐっ・・・。道場なんて・・・いら、ねっ・・・もん!』
『あのなぁ・・・。親父の実子で男子は俺とお前だけだ。俺よりお前の方がセンスあるってことだろう?』
『オレ、兄貴に勝ったこと、ない、しっ!』
鼻水でぐちゃぐちゃになった手を、闇雲に顔に擦り付けて言えば。兄貴は頭一つ分高い位置から、俺の頭を優しく胸に抱えた。
『馬鹿だな。まだ体格が違うからだ。そのうち、お前は楽々俺を超えちまうさ。』
兄貴の優しい声が、上から降ってきて。だが、俺はちっとも嬉しくなどなかった。
『レイ叔父は、「俺が道場を継ぐ」と言ってた。俺、レイのおっさんの邪魔なんかしたくねぇよ。』
兄貴の服で、鼻水と涙を拭いて、やっと落ち着いてきた俺は言って、
『オレ、兄貴とずっと一緒が良いっ!!道場なんか継がない!』
その胸元をぐい、と下に引っ張った。子供心に、俺が実家を継げば、兄貴がどこか別の場所に行ってしまうことが、分かっていたのだと思う。俺を見下ろした兄貴の顔は、どこか参ったな、と言ったように笑っていて。
『まだ・・・分からないと思うけどな、俺達はいつまでも一緒に居られる訳じゃない。』
一度、ふっ、と息を優しく吐いてから、服を掴んだ俺の手をゆっくりとはがして、俺の両肩に手を置いて、視線を俺の高さに揃えた。
『お前はな。俺なんかじゃなく、もっとでかい目標を見つけろ。一生掛けても、踏み越えられないくらいのな。』
大きな鳶色の瞳が、ふわりと細められる。
俺は、その様子に見とれて、そのとき、兄貴が何を言っているのか・・・多分、理解しなかった。
兄貴が居なきゃ、俺はどっちに歩けばいいのか分からない。
道に迷った少年のように。
親とはぐれた幼児のように。
不安が湧き上がってくる。
足下が、ふわふわして、自分の「日常」が何処にあるのかも分からない。
「っっっ―――っ!!」
手の平で抑えてくぐもった声が、まだ漏れ出ていくのを止めない。20も超えたイイ大人が、一体何を泣きじゃくっているのか、俺にもよくわからない。俺は目の前にあったマントに顔を埋めて、よく分からない気の高ぶりが、治まるのを待った。
終。
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