1章:偽りの宴



夢を見た。

陽光に照らされて、奴の明るい色の頭髪が目に眩しい。
腰の丈程もある、見渡す限りの輝かんばかりの新緑の草むらが、一陣の強い風に撫でられて、翻る。
正面から吹き付けたその風に、奴の白すぎる額が露になった。
切れ長の目が薄く伏せられ、長い睫が瑠璃の玉の上に御簾を敷く。
すうと気持ち良く曲線を描いた眉は、気怠げしているようにも、微笑んでいるようにも見え、どこか現実感がない。

ふっ、と自分の口から失笑が漏れる。
現実感がないのは、何も眉やその表情だけではなかった。その男の存在そのものが、どこか・・・手を伸ばせば、そのまま掻き消えてしまうようにも見えたからだ。
俺は自分の身を抱いて、そちらに手を伸ばすのを逡巡する。

ふと、その風が途切れて、男は長い髪を耳にかけ、こちらを振り返った。
真っすぐにこちらを見つめるのは、海の底を覗込んだような、濃い瞳。

「・・・・・。」

その瞳を憮然と見つめ返して、何事か、俺の唇が紡ぐ。

一瞬、その無機質な無表情が、驚きのそれに変わり、瞳が一回り大きく見開かれた。

そして、奴は突然弾かれたように笑い出す。
肩を揺らし、腹を抱え。声を出さずに吐息だけを使って。
俺はその様子に一瞬ほっとして、だがすぐに腹の底から沸き上がってきたおかしさに耐え切れず、大きく吹き出して笑い始めた。

やっと俺は安心して、その男に、二、三歩近づく。その笑いに丸めれた背中を一度小突いて、肩を抱き、体重をかける。

そうだな、そんな笑い方も見慣れれば普通だな。
最初はお前らしくないと奇妙に思ったが。



・・・そんな、夢を見た。

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陛下の私室のある廊下の、更にその奥に、その扉はある。
来る者を拒むように、ひっそりと。
俺は、ほぼ日課のようにその扉を開き、地下に下る。
ランタンの中の光が、周囲を明るく照らさなければ、足元も行く先も、何も見えない暗闇が、その扉の先を満たしている。
階段を降りきると、この空間には凡そ不釣り合いな白い華奢な扉が眼前に現れる。ここからは、別世界。その目印だ。
「入るぞ。」
ノックして、返事を待たずに中に入る。
さあ、と突然差し込む大量の光に瞳の奥が小さな悲鳴を上げる。
光まばゆい白い部屋で、ハープが明るい旋律を奏でていた。爽やかな風が窓から入り込む。

ん?ここは地下じゃなかったかって?
そうさ、その通り。この風も光も、紛いものだ。
一人の男を、慰めるための。

俺はその部屋で簡素な椅子に軽く腰掛けて、俺に構わず演奏を続ける男を邪魔しないように、そっとベッドサイドのテーブルに回る。
そこに置かれたフルーツバスケットの中の林檎を一つ取り上げると、掛けられていた布巾で軽く拭いて、そのままかぶりついた。
シャコンッ
思ったより豪快な音がして、それが口に入る。
と、ふいに優しげなワルツが途切れた。

俺は林檎を手にしたまま、男に視線を投げた。
「俺が用意したタキシード、似合ってるじゃないか。」
この男がここまできっちりした礼装を着るのは珍しい。ハープを前にそんな格好をしてると、自分は演奏会に招かれた客のような気分になる。
高い位置で纏められているの青銀色の髪は、後れ毛の束が耳の後ろに少し散っていた。
「やはりこういう格好は息が詰まって好きになれませんね。ウィングシャツはともかく。この、腰のものが。よくこんなものを着けていて、疲れませんね?」
と、手を止めた男は悪態を付く。
「カマーバンドか?似合ってるぜ?らしくはないけどな。」
目を軽く眇めて言って、林檎をもう一齧り。俺も今日は同じく礼装だ。昼は執務服だったが、晩餐はタキシードに切り替えた。
「お前は・・・着ないと思ってたよ。」
自分の声が、知らずトーンダウンするのを他人事のように聞く。
奴はハープにやった手元を見たまま、それをおかしがって笑った。
「何故です?今日は晴れの日だ。私だって日陰の身ながら、お祝いくらいします。」
なるほど、それでさっきの明るい曲か、と俺は思う。
「なんて曲だ?」
「『仮面の舞踏会』」
間髪いれずにリュミエールは答え、ハハ、と明るく笑って肩を寄せ、続けた。
「少しブラックジョークが過ぎますね。」
と。
俺は、フン、と鼻から息を吐き出してから、
「仮面を被ってるのは誰だ?あの新入りか?お前か?それとも、俺か?」
とその瞳の奥に向かって視線を投げ、問いかけた。
リュミエールは、さぁ?と肩を竦め、
「お腹が減りました。それ下さい。」
と、俺の林檎を指した。俺は、振り向いて新しいのをバスケットから取ろうとする・・・が、
「そっちじゃなくて、そちらを。」
にこっと外面で笑われる。これをか?と、俺が若干吃驚して自分の手にある食い欠けの林檎を指さすと「ええ、ソレを。」と一度頷く。
変な奴、と俺は思いつつ、それを放って、自分は新しいのをひょいと取り出して齧った。
カリリ、と控えめな音がしたのを聞いて、俺は食う口を休めずにリュミエールの方向を見やる。奴が、こちらに視線を送ったまま、これ見よがしに舌を使って俺の齧り後をなぞり、林檎を齧るのを目撃してしまった。
「〜〜〜っ・・・。」
ここで、動揺したら奴の思う壷だ・・・と思いつつ、俺は視線を部屋の他の場所に飛ばして、林檎の酸味に集中し、煩悩をやり過ごす。

何が優しさの守護聖だ。エロの守護聖にでも転向しちまえ。お前なんざ。

齧るところのなくなった林檎の芯を惜しみながら一度しゃぶって、俺は其奴をごみ箱に放り投げた。「ナイッシュー!」自分で褒めてやって、俺はリュミエールを再度視界に収める。
「戻らなきゃまずいな。一度戻ってまた来る。」
会場に顔だけ出してすぐにフケたことを思い出して、ジュリアス様と一度くらい話をしとかんとな、と思い立つ。
「いつまでも昼にしとくなよ。外に合わせてリズム作らないと身体おかしくなるぜ?」
軽く忠告してやって、林檎の芯を俺の真似をするかのように、ごみ箱にシュートしているリュミエールに、俺は人差し指を向けた。
見事ゴールに収まった芯を満足気に見送ってから、少し呆れたみたいな表情(かお)が、
「今の私に体調管理をする必要が?」
と、皮肉めいた口調で返す。

ずきん、と何かが俺の中で一度大きく音を立てる。

「そんな言い方、やめとけ。」
と短く言って、俺はぎゅ、と腕を組んで自分を抱いた。
「誤解しないで下さい。今の私を、私はとても気に入っていますよ。こんなに安心して貴方を見ていられるのは・・・あの件のお陰です。」
なんのてらいも迷いもなく、リュミエールは明るく言って微笑んだ。

その明るさが、かえって俺を不安にする。
これで良かったのか?
これで・・・いいのか?

何度も投げかけられ、いっそ古びて埃塗れになった問いが、また、その草臥れた頭をもたげる。
カタン、と席を立つ音。足音をさせずに、こちらに近づく気配。
伸ばされた細い指が、顎を撫でる。
「『誰にも、言わないで下さい』。」
耳元で囁かれた言葉に、俺は俯いたまま苦笑する。

まるで呪文だ。
俺には選択権などないと。
だから、迷う必要などない、と?

「ここは見た目に合わず、空気が悪いな。スイッチはどこだ?」
顎に掛けられた手をぎゅっと上から握り直して顔からはがし、聞く。
「出入り口に。ここは退屈です。さっさと戻って来て下さいね。」
にっこりと笑顔を作って、爽やかに言い放たれた。
俺はボウタイを締め直しながら、洗面台により、それが曲ってないかだけ確認して、出入り口に向かってステップを踏んだ。
恭しく、奴に向かって頭を下げてから、スイッチを入れる。

明るい太陽の光に包まれていた白い部屋が、月光に照らし出される黒い部屋に。
まるで此奴の外面と内面。切り替えるのは手元のスイッチひとつ。
簡単だ。

暗闇の中ぼんやりと浮かびあがったタキシードの。すらりとした青白い立ち姿は、一枚の絵画のようで。
俺はその画に、にやっと笑いかけてやって、
「気が向いたらな。」
と減らず口をひとつ。

俺には選択権などない。

此奴が、力尽るまでこの暗闇に繋がれるのと同様に。
俺は、太陽の下で生きながら内腑を喰われる。
大した違いなんてない。

どこで間違ったんだったかな、と。
俺は白い扉の外に出て、体重をその戸に預けた。

『辛気臭い顔しないでよねぇ、やんなっちゃう。』
とため息を付くオリヴィエの声が耳に聞こえるようだ。
そうさ。今日は祝の宴。
歓迎されるのは軽いステップと美味い酒。
辛気臭い奴は門前払いされちまう。

せいぜい、華を添えてやろうじゃないか?

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「遅かったな。アヤツの処か?」
壁際でワインを回しながら、ジュリアス様は小声で俺に囁く。こっそり抜けたつもりが、しっかりマークされていたらしい。
「ええ、まあ。」
俺は、曖昧な返事をしながらノンアルコールのカクテルもどきを作り、酒盛りに参加しているフリをする。
「酒を、止めたのか。」
軽いため息交じりに、間髪いれずに指摘される。「フリ」はこの方には意味がなかったらしい。
俺は苦笑しつつ、グラスを眼の高さに上げて口を付けた。
「どうりで付き合いが悪くなった訳だ。」
ジュリアス様も苦笑を返す。たしかに、夕食に誘われると、酒を勧められるのは分かり切っているので、最近は断ることが多かったかもしれない。
「新入りはどうです?」
俺は話を変えた。
「うむ・・・まあ当たり前ではあるが、サクリアが安定せず、微弱だな。本人は気づかぬだろうが。周りがな。」
俺とジュリアス様の視線は自然と、会場の中心でマルセルやティムカ達に話しかけられて、戸惑いつつも、賢明に返事をしている一人の坊やに集中する。
ゼフェルの髪に、青いメッシュを入れたみたいな短髪。彼奴の瞳より若干薄めの青い目玉。年は・・・いくつだったか忘れたが、14、5歳ってところだろう。昼間の挨拶で、鳥が好きで、オウムを持ち込んだとか言ってたから、きっとマルセルとは話が合うのだろう。
中性的な顔立ちと、切れ長の目、そして白磁のような肌だけが、彼奴を思わせる。
「彼が、俺と同じ高さに座るとは。まるで摂政制ですね。裏で力を発揮するのは地下世界に潜む食えない狸・・・いや、狐ってところですか。」
思わず皮肉が口をついて出る。その言葉に、片眉を上げただけで、目を伏せたままジュリアス様はグラスに再度口を付け、
「どこかの皮肉屋が伝染しているようだが・・・あの者の引き継ぎや世話係は、お前に一任することにした。」
涼しい声で言ってから、美しい群青が悪戯っぽく俺を見上げた。
「なっ、なんですって?」
ぶふっ、と吹き出してから、
「俺は彼奴の癖なんて移ってません!それに・・・世話係?!俺がですか?」
思わず囁き声としては最大級の悲鳴のような声が出る。
「彼奴?彼奴とは誰の事だ?それに、お前が一番、前任者と親交が深いだろう?だから適任と思うが。」
ったく、お人が悪い。
しかも親交が深い、というなら闇の方をご指名戴きたい。俺は彼奴のことなんか、未だに、これっぽっちも分かった気がしないというのに。
「ジュリアス様は昨今、丸くなられたと思ってましたが、サドっ気にもお目覚めになったとは・・・。」
俺が青筋を立てつつ、命ぜられれば反論できない身を憂いて、せめても減らず口を叩くと、
「お前は苛めがいがある。」
と、不敵な笑みを送られて、真っ向から叩き潰された。
ぐえ、と、ヒキガエルの鳴き声でも真似したい気分だ。
足元が崩れさっていくような感覚に襲われつつも、なんとか踏みとどまって力無く乾いた笑いを返す。
「早速挨拶をしてきたらどうだ?昼はただの自己紹介だっただろう?世話係は世間話のひとつでもしてやって、早く新任者が仕事になれるように尽力すべきであろう?」
ははは、と俺はもう一度乾いた笑いを返し、もう一度口を付けてグラスの中身を飲み干す。
「仰せのままに。」
短く答えて胸にゆっくりと手を当てると、ジュリアス様は少しだけ曇った表情で笑う。
表向き、退任したことになっている守護聖の存在を知っている者は、時折、皆こんな顔をする。
ジュリアス様も、ルヴァも、陛下も、ロザリアも。そして、なんとなしに気づいているのだろうクラヴィス様とオリヴィエも。

誰のせいだ?
俺のせいだ。間違いなく。

俺は、ケラケラと笑い声をあげるお子様集団に分け入って、少年の前に跪いた。そして下からその瞳を見上げる。自分の弟やランディにそうしてきたように。
少年は長い睫を伏し目がちにして、俺の瞳をじっと見下ろした。
「昼間、自己紹介したよな?炎のオスカーだ。君の世話係を命じられたんだ。少し口うるさいだろうが・・・仕事の事などを教える。よろしくな。・・・ソル?」
だったよな、と俺はうろ覚えの名を呼ぶ。
少年は、俺が差し出した手を、まだ幼さの残る手できゅっと握り返した。
「宜しくお願いします。オスカー様。分からない事、ばかりなので。色々、教えてください。」
どこか、ボーッとしたような、途切れとぎれの口調だったが、挨拶はきちんと出来るらしい。
俺をぼんやり見下ろす眼に、にこっと笑いかけてから、くしゃっとその頭を撫でて、首筋をぐっと掴む。
「いい子だ。分からないことがあったらいつでも聞いてくれ。」
突然のスキンシップに驚いて見開かれた瞳に、俺は再度笑いかけてやって、床についた膝を上げる。
後ろから、
「オスカー様は、すぐそれだ。」
と、ランディのぶぅたれた声がする。俺は、はっと息を吐き出して、
「おいおい、そんなにでかくなってまで、よしよしして欲しいのかぁ?」
眉をつり上げて振り返り、わっしゃわっしゃとその髪を乱暴に掻き混ぜてやった。そのまま隣にいたゼフェルの頭もついでに掻き回す。
「いででっ!!おいおっさん、俺までランディ野郎と一緒くたにすんじゃねぇ!!」
吠えられて、「誰がおっさんじゃ。」と拳骨をかまし、その場を離れる。

再び壁際族をやって、適当なところで抜けようと息をついた俺に、
「はぁい☆相変わらずガキ共の掌握がうまいねぇ。」
いつもの軽い調子で、オリヴィエが声を掛ける。
美しく装飾の施された爪に支えられた細みのグラスの中で、スパークリングワインがキラリと光っている。
「別に。慣れてるだけさ。」
俺は再びかちゃかちゃと、手慰みにカクテルもどきを作成する。
「あら、素っ気ない。」
壁に体重をかけて、華奢な肩を竦めて見せた男は、いつにも増して華やかにデコレーションされていた。
「ケバいな。やりすぎちまったんじゃないか?極楽鳥。」
グラスを傾けながら俺が失笑すると、
「失礼な奴!アンタみたいにさりげないお洒落なんつー無難なラインをウロウロしてる奴にアタシのファッションセンスは理解出来ないね!!」
人差し指で俺の鼻先をビッと指さして、フン、とばかりにそっぽを向く。豊かなパッションブロンドが頭(かぶり)に合わせて揺らいで光った。室内の豪奢な照明を細かく跳ね返して眩しい。
俺は眼を細めて、どこか遠くを想った。
こんな、時の流れも風も。何もかもが、止まってしまったような場所でなく。
明るくて、風が強くて。
見渡す限りの、広い草原。
「・・・なんつー顔してんの・・・。」
絶望的な声音に、はっ、と我に返る。
今日の目標は、こいつに辛気臭い顔しないでよね、と言われないことだったんだが。どうやら失敗だ。
「すまないな。辛気臭い顔してたか?」
俺はグラスを持ったまま、両手を上げて、自嘲気味に言う。
「んー。辛気臭いっていうか。・・・・・・・つまり、アホみたいな顔よ。」
暫く考え込んでからオリヴィエはそう言って、手持ちのグラスを煽って空けた。
「なんか作ってよ、オスカー。スカッとするやつがいい。」
ジュリアス様と同じ、どこか陰りのある笑顔が言う。
「まかせとけ。」
俺は明るい声音を作って男相手には滅多にしないウィンクをし、酒を選び始めた。
「アンタさー・・・。なんか・・・。」
オリヴィエが遠くをみつつ、ぼんやり呟く。
何を言われるのか、と、一瞬固まって、俺は持っていたボトルを危うく取りこぼしそうになり、わたわたと慌てた。
その様子を知ってか知らずか、
「いんや、やっぱやめとくわ。」
どこか男らしい声が、諦めたようにそう言うのを、俺は内心ほっとして聞いた。
メジャーなど使わずとも、正確な量を注げる自分の手の動きを、どこか他人の手でも眺めているような気分で眺め、作り上げたカクテルを渡す。
一口飲んで、
「んまい!これ、なんて言うの?」
オリヴィエは明るい表情を取り戻して言った。
そういえば、名前はつけてなかった・・・と、なんとはなしに、ブルーのメッシュが入った頭をぼんやりと見つめ、
「『仮面の舞踏会』」
と俺の口が呟くように言った。
問い手は、一瞬。面食らったようにその豪奢な睫を称えた瞳を大きく開いてから、
「はっ!アンタも言うようになったね。誰の影響?」
せっかく明るくなった表情を曇らせて肩を竦めた。

しまった、今日の俺は最悪だ。
脳みそのどこかで自分を窘める声がする。

どこで、間違ったんだったか。

俺は眼を閉じて、ぼぅっと思い出していた。
彼奴が、地下に封じられる以前のことを。

終。
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