馬鹿馬鹿しさに尽きる、その日。




「それで結局、君はどうしたいの?」
普段の持って回ったような皮肉と、唐突な印象を与えるストレートな聞き方の差が、どこから来るのか、俺はもう知ってる。だから、思わず口を開けて笑ってしまって、ギロリと睨まれて慌てて口を閉じた。
「いつも言っている通りですよ。ずっと一緒に居たいんです。貴方と。」
彼に釣られるようにチョット意地悪な言い方をした。
「でも無理でしょ?」
彼は向かいの席で、グルリと冷たいお茶(と言っても、俺の知らない名前のお茶だった)をストローで苛立ったようにかき回す。さらりと菫色のストレートの髪が前に落ちて、なんだか綺羅綺羅してるなと思った。
知らないうちに魅入っていたようで、
「無理、でしょう?」
彼はもう一度繰り返して、俺にキツい眼差しを送る。
彼の仕事は芸術家で、今では自分の事務所を持つ程だった。つまり、「類い稀なる成功」をおさめつつある、芸術家。彼の作品を中心とした常設のギャラリーも存在し、彼は簡単にはこの街を離れられない。
それで、彼の恋人である俺は、彼より少し年下の20歳(といっても、彼は自分の誕生日を教えてくれないので、これは俺の推測に過ぎない)で、これから留学のために、国外に出ようとしていた。
確かに、状況を考えれば、ずっと一緒にどころか、今まさに、離ればなれになろうとしている。
それも、俺の我が儘で。
俺は、ちょっと困ったように笑ってから、目の前のアイスミルクティを、からりと彼を真似するように、ストローでかき混ぜた。氷が少しだけ解けて、崩れる。
「俺、セイランさんと、ずっと一緒に居たいって思ってます。」
もう一度繰り返すと、ハーッ!と芝居がかった溜め息が俺の語尾に重なり、彼は両肩を竦めて首を振った。
「埒があかない。留学に行きたい、一緒に居たい、僕はここを離れられない・・・それで?君は積み木で遊びたいけど、お腹が空いて、どっちも嫌になって泣き出す幼児宜しく、目の前の積み木のお城をぶち壊したい訳?」
前髪を苛立ったように、細く白い手でかきあげる。
「もっとハッキリ言うと、結婚したいです。」
「はぁ!?」
彼の珍しく大きな声で、カフェにいる客達の視線が俺達に集中する。周りからはどんな風に見えるんだろう。きっと恋人同士には見えない。それがちょっと悔しいなと思って、だけど、一瞬の後に、どうでもいいやと思えた。
「駄目ですか。」
「なっ!・・・・何を言って・・・。」
目を見開いたまま、叫び出しそうになって、チラリと周囲の客達に視線をやってから、唐突に小さなささやき声になって続けた。段々と彼の白い陶器みたいな頬が、桜色に染まる。耳まで真っ赤になる彼は、とても可愛い・・・でも怒られるからそんな事は言わない。俺はテーブルに両手で頬杖を付いて、その可愛さを黙って満喫する。
彼は、ソワソワと彷徨わせていた視線を、俺の顔に当てると、今度は眉根がギュッと寄せ、不快そうな目つきになる。
「そのだらしない顔。僕が断るなんて、思ってもないってことかい?」
ハッ、と彼は息を吐き出して、すっかりいつもの調子に戻ってしまった。それはそれで、見応えがあるんだけど。
「駄目ですか?」
急に不安になって問うと、彼はフフフと笑ってから、コホンと一息つくように咳払いして、
「駄目も何も。話が逸れてるじゃないか。」
と言ってから、再び俺の目を見つめた。それは、真意を問うような、真面目でまっすぐな瞳だった。
「そうかな?俺は、留学に行きます。セイランさんは、ここで仕事を続ける。でもずっと一緒に居ましょう。帰国したら、一緒に住みたい。・・・変ですか?」
ぎゅ、と彼はまた眉根を寄せた。今度は、不快そうにではなく、何故か、辛そうに。それから、悲しげな笑み。
「馬鹿だね。君は。」
彼の『馬鹿だね』には慣れているけれど。今度は俺の方が、彼の言う意味が分からない。
「なぜ?」
「君は、分かっちゃいない。君はとても若くて、ほとんど初めての恋ってヤツに、舞い上がっているだけさ。留学して、周囲の女の子からチヤホヤされて、離れて暮らす年上の男に『結婚したい』なんて言った事をすぐに後悔するのさ。」
彼は自嘲気味な笑みで、ほとんど一気に呟いた。なのに俺は、嬉しくなって、思わず笑ってしまった。
「馬鹿だなぁ。セイランさんは。」
「何が?」
また不快そうに、だけど今度は片眉だけがギュッと器用に寄る。
「分かっちゃいないのは、セイランさんですよ。俺は変わらない。だけど、セイランさんは、いつだって自由でしょう?だから、プロポーズして、俺は貴方を縛ろうとしてる。でも、俺の後悔を心配してくれるなら、大丈夫ですよね?セイランさんこそ、後悔しないで下さいね。」
セイランさんをまっすぐに見返して、きっぱりと言った。彼は何か眩しいものを見た時のように、目を細めた。それから、ほんのりとまた赤くなって、でも続いた言葉は。
「調子の良い事だね。期待せずに、待っておく事にするよ。」
相変わらずの手厳しいもので、彼はするりと背もたれに掛けていた薄水色のショールを取り上げて席を立つ。そのまま一挙動で伝票を取り上げられる。
「あ!」
俺が無様な声を上げ、慌てて立ち上がるのに、彼はクスリと鼻を鳴らして苦笑する。
「君がプロのテニスプレーヤになったら、安心して奢ってもらうよ。」
年の差以上に、なんだか色々釣り合っていないのを、はっきりと口にされた気がして、俺は口をつぐむ。でも、何か言わずにはいられず、
「何をおごって欲しいか、考えておいて下さいね!」
と返した。フフフと笑うセイランさんは、本当に悔しい事に、やっぱり俺より随分大人に見える。でもカッコイイと思う。この人より、一刻も早く、カッコイイ男にならないと・・・。俺は、強く決意した。

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一週間だって、持つものか。
僕はほとんど確信していた。互いに合わないスケジュールの合間をぬって、それでも僕らは週に二、三度は会って、その度にセックスしていた。彼の若さは、魅力的ではあるけれど、僕にとっては同時に脅威でもある。大して年は違わないけれど、彼は実年齢より少し若く見える時があるし、流石スポーツ選手というべきか、体力は底知れない。二人で街を歩けば、必ずといって良い程、女の子達は彼を振り返る。若き雌にとって、彼は十分すぎるほど魅力的な雄だろう。誰よりも僕が分かっている。
そう。・・・分かってる。

誕生日を明かさない僕に、彼は、「それじゃあこの日を貴方の誕生日にしましょう。」と、聞き方によってはやや独善的に、選んだ日がある。それが三月五日。僕と彼が出会った日だった。

彼は上京したという女の子の従兄弟と共に、僕のギャラリーを訪れた。明らかに「連れてこられました」という体の彼は、けれども、いくつかの作品の前で、足を止め、ジッと魅入っていた。ちょっと縒れたジーンズに、赤いTシャツ。空軍のイミテーション・ジャンパー姿の彼は、誰がどうみても、金なんか持っていそうもない、只のガキ。けれども、真剣に作品を見つめる立ち姿は、何故か惹かれるものがあった。商談に結びつきそうでもない客に、僕は自分から声を掛けたりしない。だけど、その時は、気づけば隣に立っていた。まるで僕に気づく気配もなく、作品を見つめ続ける彼。その時、彼が見つめていたのは、『佇む孤独』というタイトルの油彩の連作の内、好きな色を心の赴くままに塗りたくったものだった。僕が売れ出すかどうかの頃に描いた、割と初期の作品で、はっきりいって主張したいことと、表現上の情報量とが、釣り合っていない。一言で評せば、『拙い』。でも何故か気に入っていて、手放したくないものだったので、値段をつけていなかった。
「これがお気に召しましたか?」
僕は、いつもの商談のように、何気なく声を掛けた。ハッとしたように、彼は顔を上げて、身体ごと、僕に向き直る。一瞬の真顔は、なんと表現すればいいか。少なくとも、ヒトではなかった。僕は、時代がかった白い布を巻き付けた、白い羽を持つ青年の姿をした何者かを幻視した。僕を一瞬にして、画廊から天空へとかっさらうような、突き抜けた空色の瞳。
けれども、彼はその美しい真顔を一瞬で、年相応の、照れたような顔つきに歪めてみせた。それから頭に片手をやり、
「すみません。俺。普段、絵とか見ないから、意味なんか全く分からないんですけど。」
と決まり悪そうに頭髪をかき混ぜる。僕はホッと安堵の息を吐いて、
「失礼ですが、そのようにお見受けします。」
と笑い、
「安心して下さい。拙いものですが、この絵は我ながら気に入っていて。売り物ではないんですよ。」
と続けた。売りつけるつもりはないよ、という意味だった。けれど、彼は、驚いたように、目を見開いた。
「え?この絵は、貴方が描いたんですか?」
あまり驚かれた事が無いので、僕はちょっとした違和感を持ちながら、
「僕が描いたようには、見えませんか?」
と聞いた。彼は、ブンブンと頭を振って、
「いや!ええっと、あの・・・。」
と段々と真っ赤になって、俯いてしまった。僕は、彼の困惑を読み取れずに、ちょっと持て余す。面倒臭い。『鑑賞中にお声掛けしてすみませんでした』とでも言って、離れようかと口を開きかけた時、彼がまた若々しい突然の動作で顔を上げる。
「あの!あんまり切ない絵だったから!でも、貴方はとても自信があるように見えて。それが意外で・・・。」
僕は、口をポカンと開けたまま、彼をぼうっと見やってしまった。
「あ!やっぱり変なこと言ってますよね。何言ってるんだろ、俺・・・。」
彼はますます途方に暮れたように、ガシガシと頭をかいた。僕は、思わず吹き出して、そのまま腹を抱えて笑い出してしまった。ギャラリーでは、数人の客達が、驚いたようにこちらを見やる気配。こんな風に、人前で笑い転げるのは、いつ以来だろう・・・もしかしたら、初めての事かも知れないと、僕は場もわきまえずにチラリと考えた。
すみません、という意味で、集まった注目にエクスキューズするように片手を上げて、まだ収まらない笑いの気配をなんとか口元で押し殺す。
「ごめ、ごめんなさい・・・。フッ・・・。」
なんとか言語らしきものを発音して、にじみ出て来た涙を指先で拭いながら、彼に視線を戻して、笑んだ。
「貴方には、絵を視る才能がおありだ。」
僕は心から褒めたつもりだったが、皮肉に聞こえたのだろう。彼はキュッと唇を噛み締めて、一層困った顔になる。
「本当ですよ。」
僕は顔を真面目にして続ける。
「この絵は、確かに今のように生活が安定していない時期に描いたものなんです。僕は、『学校』というモノがとてつもなく嫌いでして。ほとんど独学で絵や彫刻をしてきました。これは、やっと絵が売れ始めた頃のもので。」
そこまで言って、思いつく。
「ああ・・・だからかな。何か、僕の忘れてはいけないものが、ここにある気がして。それで手放せないのかもしれませんね。」
僕は、自分の絵に、視線をやる。苛立ちをそのままぶつけたような、直線と直線の複雑怪奇な重なり。ふと、アトリエで孤独と立ち向かう男の背と、その背を見つめる羽の生えた青年の姿を見た。今思えば、僕は、僕の描いた絵に、気に入る再定義が得られたという事実に、とても浮かれていたのだ。
彼に視線を戻すと、彼はややポカンとした、まだあどけなさの残る顔で、僕を見つめていた。
「貴方の絵を描いてみたいな。宜しかったら、連絡先を教えて下さいませんか。」
ギャラリーを一回りしてきたらしい彼の連れが戻って来て、次のギャラリーに行くというので、慌ただしく連絡先を交換した。それが、彼と僕の出会いだった。

三月五日。僕と彼の出会いの日。

彼が僕の下を旅立ったのは、夏真っ盛りの八月。それから既に半年以上が経って。週に一度のスカイプでの遠隔デートは、これといって刺激にならない。「一週間だって、持つものか。」という僕の予想は外れていたけど、彼の私生活なんて知る由もない。僕は「キープ」ってヤツをされてるのかもしれないし、と思ったりもして、だけど年上の男を「キープ」する事に、若き彼にメリットがあるとは思えないな、とも思っていた。
遠隔なんだから、僕だって自由に浮気させてもらうさ、と思ったりもしているのに、何故か僕は目の前を通り過ぎる魅力的な男共を、通り過ぎるままにさせている。彼に操を立てるなんて、馬鹿馬鹿しいと思った。
彼と付き合うようになって足が遠のいていたバーにはかなりの頻度で行っている。それに、行けばそれなりに声は掛けられる。だけど、「その気になれなくてね。」と皮肉に笑って、グラスを空けるばかりだった。
モヤモヤしてばかりの身体と心を、ひたすら、キャンバスとワーク(彫刻前の素材)に、一心不乱に傾ける。自分がゲイだと気づく前は、いつだってそうしてきた。だけど、なんで今更こんな思春期みたいな気持ちを味わわされてるんだと苛立って、それをまたキャンバスとワークにぶつける。
「なんで!!お腹が!!減るんだよ!!」
僕は意味も無く対峙しているキャンバスに向かって絶叫して、狂ったようにアトリエで嗤った。身体が衰弱しているのを感じて、ばたりと床に寝転ぶ。集中力が切れたのは、多分、空腹感というより、エネルギー切れだ。いつから食べてなかったかな・・・と僕は思いながら、目に入った消しパンに手を伸ばし、口に入れた。すっかり水分が抜けて、炭臭いそれは、水なしには呑み込むのに苦労して、結局噎せて吐き出してしまった。掃除が面倒だ・・・。僕は水くらい取ってくればよかったと思いながら、吐いた物を視界から追い出すように寝返りをうった。

・・・会いたい。

思いついた瞬間、涙が出た。誰も見てない。心配いらない・・・。そう思って、引きつけを起こすようにして泣いた。なんだ、意外と元気じゃないか、僕は・・・。脳のどこかで冷静に自分を観察しながら、僕はワンワンと声を上げて泣いた。なんで彼がいいんだろう。馬鹿馬鹿しい。金のなさそうな只のガキ、そう思ったじゃないか。そう思ったのに・・・。

・・・会いたい。

これが恋ってやつかな、等と下らない事を思ったら、また嗤えて来た。スケッチブックを開けば、いつでも彼の素描に出会える。だけど、それが彼をどの程度まで忠実に捉えていたのか、今はもう思い出せない。スカイプでみるwebカメラの解像度なんか、当然、彼を思い出す解像度には足らない。手の甲を額に乗せて、僕は頭痛を誤摩化しながら、なお、嗤った。

・・・会いたい。

実に単純で稚拙な欲求に、僕はほとんど嘔吐しそうな不快感を覚える。『僕は馬鹿だ』と思った。
疲れ切っているのに、何故か身体が火照って来て、僕は無造作に作業用の綿ズボンと下着をずり下ろす。力の入らない両手がもどかしい。
急くように触ると、彼の指先を思い出す。壊れ物のように優しく触るのに、時折、抑えきれなかったというように性急な動きが加わる。彼の顎から伝う汗。上がる吐息。情欲に濡れる、空色の瞳。こんな時だけ、君は酷く男臭い。先走りを指先に絡めながら雄身になすり付けると水音が加わる。
「あ・・・・ハッ・・・・ァッ・・・・!」
前を右手に任せて、横向きに転がり、先走りを掬い取った左手を後ろに回す。つぷ、と少しの抵抗があって、僅かに指先が潜り込む。不快感と違和感。だけど、その先にある快楽を知ってる。それに、彼はここで怯むような動きは見せないから。だから・・・。
「アァァッ!!」
ずるりと一気に中指を根元まで潜り込ませ、前立腺を弄るように探す。何処にあるかなんて分かり切っているそこはすぐに見つかる。彼がするように、そこをやや無遠慮に行ったり来たりして、それですぐに、吐精感に至る。後ろから競り上がってくるような快楽に、僕は慌てて前を弄る右手の動きを速める。
「あ、あ、あ・・・・あああああ!!!」
大袈裟に僕は叫び、気をやった。ビュ、ビュ、ビュ・・・と断続的に、行く宛のない僕の精子が汚れた床にぶちまけられる。鼻を突くような精液の匂い。僕は、女の子に生まれれば良かったのかな。・・・いや違う。男で良かったんだ。・・・本当に?
僕は怠い身体を無理矢理起こして、下半身裸になり、床に転がっていたティッシュボックスを拾い上げて、ぺたりと行儀悪く胡座を掻いて座る。粗っぽく処理してから、床にそのままゴミを捨て、シャワーを浴びることにした。どうせ、この部屋に敷いていたビニールシートごと、もう取り替えなきゃ鳴らないだろう。イーゼルや椅子を全部一度どかすのは面倒だけれど、仕方が無い。
場違いに明るい陽光が窓から燦々と差し込んでいるのを渇いた目で一瞥してから、僕はペタペタと間抜けな音をさせつつ、バスルームに移動した。

やや熱過ぎるシャワーを頭から浴びていると、膝から勝手に力が抜けて、僕は木偶のように床に頽(くずお)れた。シャワーヘッドを見上げると、視界がぼやけて、目が痛い。湯が直撃してるんだ、当たり前かと思いながら、僕はそれでも目を瞑らない。

どんなに不安でも、結局、僕には待つしか選択肢なんかないのだと思う。
仕方ない。
ザーザーザーザーと天然のものとは異なり、休む事無く落ちてくるやや熱過ぎる雨を瞼をゆっくりと下ろし、視界から閉め出す。すると、ドタドタとやや騒がしい音が、シャワーの向こうから聞こえて来た。なんだろう、隣や上で、引っ越しでもしているのかな・・・。
けれども、聞こえるか聞こえないかの音は、やがてはっきりと足音になり、ジャッと、安っぽい軽い音をさせて、バスルームの扉が突然開かれた。暖かく蒸された空間に、突然ひやりとした風が舞い込んで、僕は吃驚して、入り口を振り返る。
「・・・なんだ!吃驚させないで下さいよ!シャワーがザーザー言ってて、浴びてる気配もないから、倒れているのかと思って・・・・!!」
心底ホッとした、というような顔で、胸を抑えて、栗色の髪した彼が言う。
僕は、ぼろり、と何を感じるまでもなく、反射的に大粒の涙が固めから溢れるのを感じた。大丈夫。濡れてて分からないさ。
「な・・・ん、で・・・・。」
ホッとして、気が抜けたのか、ラフにバスルームの入り口に体重を掛けるようにして、彼は笑った。
「ふふ。吃驚させようと思って。結果的に、吃驚したのは俺でしたけど!」
言い終わってから、如何にも可笑しそうにアハハと眉根を寄せて爽やかに笑う。
驚かせようと思って、突然帰国した・・・事実は分かったのに、心が追いつかない。僕は耐えきれずに、クシャリと顔を歪めた。彼は再び目を丸くして、慌てて服のままバスルームに飛び込むと、シャワーコックを捻って温水を止めてくれた。出会った日にも着ていた、空軍のイミテーションジャンパー。僕はそれに縋り付くようにして泣いた。
「ごめん。ごめんなさい。」
静かな声と、背中を撫でる暖かな手が、僕をますます泣かせた。

やっと落ち着くと、彼は僕と一緒にアトリエの片付けをしてくれた。片付けが終わって、僕は白シャツと黒のベルボトムを身につけ、お湯を沸かして茶を淹れる。
「プーアル・ティーでいい?」
「なんでも!」
まだ掃除の仕上げをしているらしい彼の返事を背中で聞きながら、僕は茶器を暖めて、二人分の茶を入れた。丁度お茶を入れ終わって、いつ買ったのだか分からない干菓子を小さな皿に乗せて合わせて出した頃合いに、彼はキッチンカウンターに寄って来て、腰を掛ける。僕もキッチンからカウンター側に回って、隣のハイチェアに腰掛けた。
「おかえり。」
「ただいま。」
僕はカウンターに向かって言ったのに、彼は完全に横に向き直って、ニコニコしながら返事をする。
「俺は、淋しかったですよ。」
はっきりと切るようにして、彼は宣言して、茶を一口啜る。ずーっと僕の方を見つめている気配。あまりにも隙がなくて、僕はいつ、彼を盗み見ればいいのか分からない。こんな事なら、さっき、部屋を片付けてくれている時に、真剣に眺めておけば良かった。
「僕も。淋しかった。」
唇を尖らせて言う。『淋しかった』なんていう陳腐な言葉では到底足りないと思ったけど、彼にはこれで充分だろう。お茶を飲もうと思って、カップを近付けたのに、ガバリと抱きつかれて、盛大に零す。
「アッツッ!!!!」
「わ!ごめんなさい!!」
僕の手を彼が乱暴に掴んで、キッチンに引っ張って行き、冷水に晒す。お茶の掛かった左手がジンジンと熱いのか冷たいのか分からない感覚に支配されて行く。それをギュ、と掴んで水道に当て続ける彼の右手。それから、僕の腰を抱く、左手。ずぶ濡れになったジャンパーは脱いでいるので、安っぽいプリントTシャツ越しに、彼の体温が伝わってくる。ドキンドキンドキン、と胸が鳴っていて、僕は馬鹿馬鹿しい、生娘じゃあるまいし、と自分に呆れる。
「あのですね。」
彼は、僕の手を逃がさないぞとばかりに流水に当てたまま、口を開いた。耳元で彼がしゃべるので、少しくすぐったくて僕は笑う。彼はらしくもなく、少し畏まった声でまた、
「あの!」
と咳払いしてから、もう一度声を上げる。
「なんなんだい?」
僕は笑って彼を見上げる。
「多分、セイランさんは忘れてしまったと思いますが。」
まだまだ改まった雰囲気を崩そうとしない彼に、やや困惑する。
「忘れてしまった?」
「今日は、あの。」
彼は、僕の赤くなって、やがて白くなった手を見つめて、それから、流水からゆっくりと僕の手を引き上げた。キッチンに掛けてあった、タオルでやや几帳面すぎるくらいに、彼は僕の手を拭いてくれる。なんだか過保護にされているみたいで、これもまた、くすぐったい。
「一体どうしたの?」
冷えて感覚の無くなった僕の左手を、彼は何かの供物を捧げ持つように、両手を添えて持ち上げて、ちょっと困ったように眉根を寄せた。
「???」
それから、右手をジーンズのポケットに突っ込んで、徐に引き出すと、僕の左手に、するりと何かを嵌める。
「あ、やっぱり・・・。また痩せたんですね。ちょっと緩いや・・・。」
彼は無表情に、呟いた。
銀色に輝く、無骨な形のシルバーリングが、僕の左手で輝いている。
僕は呆然とその鈍い光を見つめた。
「覚えてないと思いますけど。今日は、三月五日なんですよ。留学する時に、約束はしたけど、結局何も渡さなかったから。あのこれ、一応俺が作ったんです。セイランさんみたいに綺麗なものは何一つ作れないけど。だけど、気持ちと時間は込めて・・・。あの、聞いてます??」
彼は、僕の薬指にハマったものを、指先でクルリと回しながら、ボソボソとらしくもなく呟き続ける。僕はまた大きな声で泣き出しそうになって。だけどそれをスゥと空気を大きく吸って、なんとか胸に押し込める。
「聞いてるさ。つまり、結局どういう意味なんだい?」
僕は首を傾げて彼を意地悪く見上げた。彼はムゥ、と少しだけ怒った顔になって、それから、深呼吸した。何か憑き物の落ちたような、真摯な顔になってから、
「ずっと一緒に居ましょう。僕たちが出会ったこの日にかけて約束しましょう。」
と言った。
「そうですね。ずっと、一緒に居ましょう。」
と自然、笑って応えた。ガバリと彼に抱擁されて、それから彼の胸の中で付け加える。
「僕の誕生日のこと。まだ知りたいですか?」
ガバリと今度は荒っぽく解放される。
「え?あ、はい。勿論です。」
「僕は孤児なので、誕生日がないんですよ。でも、付けられていた手紙から、2月13日じゃないかと、孤児院の院長先生はおっしゃってました。」
彼は、満面の笑顔で、
「これからは、やっとお誕生日祝いがちゃんとできますね!!二人の出会いと、セイランさんの誕生日と、俺の誕生日。ずっとずっと、お祝いしていきましょうね!!」
僕の両手をギュッと一纏めに握って言った。

多分、彼がこんな風に喜んでくれるだろうと。一瞬も眉をしかめたりしないと、僕は知っていた。知っていたのに、僕はとてもとても安心して、彼と居て良かったと思った。
微笑み合い、見つめ合っていると、また、彼がガバリと僕を抱擁する。
「苦しいですよ。」
「その苦しさはね、セイランさん。」
「はい?」
「幸せっていうんです。」

僕は、『馬鹿だなぁ』と心の底からまた思った。
勿論、彼と僕と。
そして、今日の事だ。

終。



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