茜色の絨毯に呟く想い出





茜色の光線に染まる、庭園のカフェ。
彼は私服で。お気に入りのカプチーノを飲んでいて、足を組み、リラックスした様子だった。きっと彼にとってはママゴトのようなデート。けれど、その時のわたくしにとっては、おそらく丁度良いモノ。
「俺の故郷では、秋になると一斉に、辺りの楓が色づいて、やがて茜色の絨毯を作るのさ。」
と、彼は言った。わたくしも勿論、聖地で生まれ育った訳ではなく、だから、紅葉の美しさは知っている。それが彼の故郷のそれとはきっと異なるのだろうとは思った。だから、わたくしはただ、
「それはきっと美しいのでしょうね。」
と、返した。彼は、アイスブルーの瞳を薄く伏せてから、わたくしを見て、笑った。その笑顔は、わたくしの意地を引き出すような、いつもの小馬鹿にした感じではなかった。
なのに・・・、わたくしはその笑顔を見て・・・。

何故だか、とても悲しくなった。

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補佐官の任務についてから、それなりの月日が経って。いくつかの重たい決断をアンジェリークと共に乗り越えていた。
そして、今。わたくし達は、一つの新たな決断を迫られていた。もう既に経験している程度の筈のその決断は、何故かわたくしの心をかつてない程に、重苦しくしている。
陛下となったアンジェリークは、
「どう思う?」
と、瞳を不安気にしてわたくしを見上げる。わたくしにしか、見せないその色合いに意識的に、微笑みを返す。
「答えは、出ているわ。アンジェ。」
仕事の大切な話は、大抵こうして、わたくしの部屋で二人で飲み物を飲みながら話すようになっていた。勿論、守護聖達やスタッフ達との情報交換は、重要な判断には欠かせない。けれども、二人で本音で話して、納得して決めることも、同じくらい大切なことだった。
「そう・・・。」
もう就寝直前だったので、アンジェはホットミルクに蜂蜜を入れて飲んでいて、カップの中身に何か別のものを見るような、悲しげな視線をやってから、
「そうね。」
と、わたくしに微笑みを返した。

心が、キュッと、何か冷たい水に晒されるような感覚を覚えて、私は自分の表情が引き締まるのを感じた。向いの席に座っているアンジェリークの顔も、陛下のソレになっている。コトリ、と彼女のカップがテーブルに戻される静かな、けれども、確かな音。
「では、明日の朝議で、皆に言うわ。」
「ええ。」
わたくしは、暖かい筈のカモミールティーを、同じくテーブルに戻して、答えた。

するりと立ち上がって、アンジェはわたくしの部屋を出る。その背中は、先程の不安気な瞳の気配等感じない程、しっかりとしている。まるで部屋着のようなパステル色のワンピースには、とても似合わない、決然とした背中。
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
いつになく、静かな声で交わされる、いつもの挨拶。
ゆっくりと扉を閉めて、わたくしは、静かに目を瞑る。何故か、そのまま。長い事、扉に手をかけたまま、佇んでいた。

そうして、炎の守護聖の、『その仕事』は決まった。

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「・・・という訳で、オスカーは、暫く他の任務には当たれません。皆さん、その分の業務の負担は覚悟して下さいね。」
陛下の声は、いつになくキビキビとしていて、やや事務的なものだった。
直前にジュリアスには事情を説明してあったので、ジュリアスからの反論や質問はない。
任務の内容が任務の内容なので、守護聖達の顔つきは、厳しい。それでも、対応しなければならない問題であることは、少なくとも理解されているようで、苦々しい顔、凍るような無表情、引き締められた顔・・・それぞれに、自らを納得させている様子が窺える。ただ一人。オスカーだけは、どうということもないような、いつもの顔つきだった。

ある惑星で起こった、組織的犯罪の調査。まだ文明はそれほど進んでいないので、高度な兵器の使用はないけれど、それでも十分に危険。オスカーに直接対応させた方が、他のスタッフを危険に晒すより、余程被害が少ないのではないか、という仮説をわたくし達が思いついて、たった一日。それで、守護聖を危険に晒すか、スタッフを危険に晒すかを天秤にかけ、トータルの危険度から、守護聖を危険に晒すことを、わたくし達は決断した。
調査計画は、二度の出張を中心として、研究院のスタッフと共に組み立てた。
朝議が終わって部屋に残ったオスカーとわたくし達、三人で調査計画のブリーフィングを行う。オスカーは、ただ「なるほど。」と「わかりました。」を繰り返して、アンジェの説明を聞き、
「では、早速、出立の準備をして、行って参ります。」
陛下の瞳をまっすぐに見つめて言った。それから、わたくしにそのまっすぐな視線がやってくる。それで、わたくしは、
「行ってらっしゃいませ。無事の帰還を。」
と見つめ返して言ってから、瞳を小さく伏せた。
「ハッ。」
彼のはっきりとした声。それからマントを翻す音。澱みないブーツの音。彼が会議室を出てから、アンジェがポツリと言う。
「ごめんね。ロザリア。」
わたくしは、知らず、ずっと伏せたままにしていた瞳を上げて、隣に立つ彼女をみる。わたしくを見つめるのは、痛みに必死に耐える顔。わたくしは、少し首を傾げて問う。
「何故、わたくしに?」
アンジェは、フ、と息を小さく吐いて仕方なさそうに笑うと、わたくしの身体をゆっくりと抱きしめた。
そして私の胸に伏せた顔を埋めるようにして呟く。
「いいの。私が謝りたいだけ。」

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「蒼い瞳のお嬢ちゃん」と呼ばれるのが好きではなかった。女王試験が進むにつれ、それが嫌ではなくなった。けれども、女王試験が終わり、補佐官の座に就くと、彼は二度と、「蒼い瞳のお嬢ちゃん」とは呼ばなかった。
わたくしの名前は、「ロザリア」になった。喜ばしいことの筈なのに、何故かそれを、わたくしは淋しいと思った。
護られる者から、護る者へ。わたくしの立場は変わった。
そのことは、とてもわたくしにとって、誇らしいこと。だから、一抹の淋しさの意味が、余計に分からない。
余計に分からないと思う内に、時間ばかりが過ぎて行く。
「ロザリア。オスカーが一次報告に戻ってくるわ。準備して。」
アンジェリークが突然にわたくしの部屋に訪れ、誰の知らせよりも早くわたくしに知らせる。まだ研究院からは何の知らせも入ってはいない。けれども、女王のサクリアの為せる業か、彼女のこういった時の直感は、絶対だった。
「直ちに。」
答えるなり、執務服に大急ぎで着替える。随分前には、自分で着替えをすることは少なかったけれど、今となっては自分でする方が落ち着くようになってしまった。ばあや以外の者に、わたくしの着替えを手伝わせることに、僅かに抵抗があって、それでこんな風に自然と自分で着替えるのも板についてしまった。
手早く着替えて謁見の間に行くと、程なく、
「オスカー様がお見えになります!」
と女官がいつになく慌ただしい様子で伝える。一抹の胸騒ぎは一瞬。
「このような姿で、土の曜日に謁見するご無礼をお許し頂きたい。」
と、姿勢だけは正しく、けれども、額からの出血を僅かばかりの布で押さえ、執務服のアチコチが破れ、汚れてしまっている状態のオスカーが、大きなストライドで入室する。
ゾッと一気に血が下がる感覚。ステッキを掴んでいる掌が、ジワリと一気に汗を握る。それでも、わたくしはアンジェリークの隣で、顎を上げて立っていた。
「構わないわ。報告を。」
玉座に座るアンジェリークの堅い声。
「ハッ。」
という毅然としたいつもの声音で、彼は膝を付き、わたくしたちをまっすぐに見上げて報告を始める。それほどの勢いではないものの、ジワジワと額の白い布が、赤に染まる。まだ止血できていないのだ。
「・・・潜入操作を、ご許可頂きたいのです。」
ハッと我に返る。違う。聞いていた。報告の内容は、その組織的犯罪に、やはりオスカーの調査でも、現地の警察機関の能力では現時点で対応できないこと。そして、その対応を聖地の警備で行った場合、文化的干渉が大き過ぎること。
だから・・・。だから、彼が組織内部から犯罪の根源である幹部を捉えるのが、最も効率が良いであろうこと。
「その傷は、既に潜入を無許可で行った為に付いたものでは、ありませんわね。」
ふと、アンジェリークが答える前に、誰かの冷静な声が差し挟まれ、わたくしは内心でギョッとする。それから遅れて、声の主は、わたくしだ、と思った。
オスカーは驚いたように一瞬、目を見張り、それから、フッとわたしくを見つめたまま、笑った。
わたくしは、いつだったか、その顔を見た事があるような気がして、それを見つめ返す。
「勿論です。これは、組織が首都の市場に仕掛けた爆弾騒ぎがあったので、市民を保護する警察組織に協力した時のものです。恥ずかしながら、負傷致しました。申し訳ありません。しかし、どの傷も引き続きの捜査に支障はありません。」
申し訳ありません、という時だけ、僅かに瞳が伏せられ、けれども、またわたくしを見つめる、毅然としたアイスブルー。
わたくしは、小さく顎を引いて、
「ならば結構ですわ。陛下。ご許可を。」
それからアンジェリークの方に僅かに身体を向け直し、僅かにスカートを摘んで決断を仰ぐ。
「分かりました。潜入捜査を命じます。必ず、無事に帰還するように。」
アンジェリークの翠の瞳は、まっすぐにオスカーに注がれている。それから、ニコリと笑顔を見せると、
「今ここで、約束して。必ずと。」
と告げた。オスカーはすっくと立ち上がると、右の掌を胸に当て、
「はっ。必ず無事に任務を終え、戻ります。」
言ってから、最敬礼する。
「では、早速。」
と言って、彼はマントを翻し、踵を返して退室する。扉が閉まるなり、アンジェはわたくしに視線を上げて、
「医務室に必ず立ち寄るように、言うのを忘れたわ。ロザリア、追いかけて伝えてくれる?ついでに、ちゃんと彼の身体の状態について把握して、報告してくれると助かるんだけど。」
忘れていたにしては、随分と無表情なその言い方に、違和感を持ちながらも、
「ええ。わかったわ。」
と引き受けて、彼を追いかけて謁見の間を出る。強ばっていた身体は、最初の一歩を踏み出す時に、ギクシャクと堅い動きになる。けれども、扉を出る頃には、ほとんど小走りになるように、わたくしの足は先を急いだ。それから、脳裏をチラリと、女官に頼んでも良かったのじゃなくて?と疑念が過ぎる。それでも、わたくしは、それを振り返って伝えはしない。最敬礼をして見送る女官達を通り過ぎ、
「オスカー!」
と前をゆく青いマントに、ほとんど叫ぶように声を掛ける。彼のストライドは大きすぎ、彼が歩んでいて、わたくしが小走りでも、追いつけるような気がしなくて。だから、わたくしは、はしたない等とは思わなかった。
ピタリと彼の足が止まり、振り返って礼を取る。
「ア・・・陛下から、医務室に寄るようにと伝言です。わたくしも同行致します。容態を確認するように言いつけられていますの。」
なんだか久しぶりの距離感のような気がする。直った彼の目を見上げながら、わたくしは早口で説明する。ドキドキと高鳴る胸の理由が分からない。そう、寧ろ、先程のように、痛々しい彼の額の傷や、傷だらけで汚れている彼の腕や胸に、悪寒を覚えて良い筈。
「容態とはまた・・・。けれども陛下のご指示とあらば。」
苦笑して、彼は口元に曲げた指を軽く当てる。突然、腹が立った。
「陛下のご加護があってこその守護聖の身体です。ご自身の身体を軽く見ないで頂きたいですわ。」
おそらく、わたくしは、彼を睨み上げているのだろうと思う。そして、こんなことが言いたい訳では・・・、とわたくしは自分のあまりの言い様に困惑する。
彼は、驚いたように、再び切れ長の瞳を丸くした。それから、
「申し訳ありません。補佐官殿。以後気をつけます。それでは、医務室に参りましょうか?」
悪辣な笑顔を見せてから、慇懃に最敬礼してみせる。怒ったのね、とわたくしの胸に寒い風が吹き抜ける。けれども、やはり、その様に腹が立つのも事実だった。
「お分かり頂けたのなら結構です。参りましょう。」
瞳を細くして、その謝罪を受け入れると、わたくしは、彼より先に、医務室に向かうべく、ヒールを踏み出した。
医務室に入ると、炎の守護聖が来る事は予測していたらしい医師達も、女王補佐官が同行したことに、俄に慌てる。
「突然のご訪問は、少々彼等に気の毒だったのでは?」
とイヤミな口調のままに、オスカーが言うのに、
「すぐに静まりましょう。些細な事です。」
冷静に応じる。
「なるほど。些細・・・ね。」
彼は肩を竦めてそれを受け止めながら、患者用の椅子に腰を下ろす。唯一落ち着いた様子の壮年の医師が、彼の向かいの椅子に応じるように腰を下ろして、応急処置の布を外しながら、淡白に問う。
「出血は額だけですか?」
「ああ。他は擦り傷と打撲が数カ所。処置は必要ない。」
「残念ですが、処置の判断はお任せ頂きましょう。服を脱いで下さい。こちらで拝見します。」
医師の表情は全く変わらないのに、オスカーはムッとしたように口を突き出して、肩を竦める。けれども、その医師とのやり取りに慣れているのか、反論はしない。それから、傍らに立つわたくしを見上げて、
「仕方ないな。レディにはご退出願おうか。」
ニヤリと、また悪辣な笑み。わたくしは、
「構いませんわ。」
と少し長くなるのかも知れないと、追いかけて来ていた女官の一人にステッキと冠を預ける。炎の守護聖の片眉が上がり、唇がへの字に曲がる。
「俺が構うんだがな。」
わたくしは、フッと笑ってみせた。
「残念ながら、陛下のご指示ですわ。」
「なるほど。陛下の持ち物たる守護聖の身体だ。俺に人権はあるまい。」
ジョークのつもりかもしれないけれど、それはジョークにはなっていない。私はズキリと自分の胸が痛む音を聞く。
彼は唇をへの字に曲げたまま、医師に向き直って立ち上がると、衣服を脱ぎ始める。看護士達が、流石職業人というべきか、顔色を変えずにそれを手伝い、あっという間に彼は黒いブリーフだけになる。渋った割には何事もないかのように、視線を前方にやったまま、医師が傷を一つずつ検分するのを待っているオスカー。
彫刻のような身体は、エロティックというよりは、今は一つの美術品のようで、ただ、わたくしは、その、美しい稜線に描かれる背中を見つめていた。そういえば、初めてわたくしはオスカーの裸体を見ているのだわ、と意味の分からない感想が過る。
「背中を向けて。」
医師の指示に従い、くるりとオスカーが振り返る。わたくしと俄に目が合って、バチン、と態とらしいウィンク。完全にわたくしを馬鹿にしているわ、どこが『レディ』なのだか!と、わたくしは怒りに顔を赤くする。けれども、一瞬遅れて、オスカーの身体が、背中側に比べて、いくつもの傷を作っているのに、目を奪われる。
『組織が首都の市場に仕掛けた爆弾騒ぎがあったので、市民を保護する警察組織に協力した』・・・わたくしは、彼の傷の位置を確認しながら、めまぐるしく状況を思い浮かべた。オスカーのそれより細かい報告は後に上がってくるだろうけれど、おそらく爆弾は爆発した。それも複数。断続的に。そして、突然の市場の喧噪の中を、警察組織と協力しながら、市民の誘導を行うオスカー。
「そうレディに熱っぽく見つめられると流石の俺も照れるんだが、な。」
冗談のような台詞。けれども、困ったように眉を寄せて仕方なさそうに笑むオスカーは、わたくしの『熱っぽい』視線の意味を、正確に理解している。わたくしは、アイスブルーを静かに見上げて答えた。
「どうせ現地からの報告で、後から分かる事ですわ。今分かって、何の問題が?」
オスカーは、また子供のように唇をへの字に引き結ぶ。それから真面目ぶった顔つきになって、
「おっしゃる通りですね。お好きにご報告を。」
と返す。現地に聖地のスタッフは派遣していない。だから、報告は聖地のスタッフからのそれよりは、粗いものにならざるを得ないだろう。わたくしは、そう思って、自分の仮説の精度を上げる事に集中した。後で、現地からの報告とつき合わせれば、アンジェにもより精度の高い報告を上げられるだろう。
「・・・執務に熱心なんだな、相変わらず。」
ボソリと呟くような小さな声に、わたくしはオスカーの脇腹の大きな内出血を見つめていた視点を、引き寄せられるようにして、彼の瞳に上げる。瞳を軽く伏せるようにして、無表情だった彼は、わたくしの視線に気づいたように、
「何か?」
と少し笑んで尋ねる。『何か?』と聞きたいのはこちらの方ですわ、と返そうとして、けれども、わたくしは、迷ってから唇を閉じた。それから、少し考えて、
「わたくしが執務に熱心だと、何か問題がありますの?」
と眉を態と顰めるようにして問う。
「いいえ!全く!!」
オスカーは何故かふてくされるようにして、大袈裟に肩を竦め、
「もういいですよ。これからすぐにまた発たれるのですよね?内出血は熱を持っているものだけ、湿布を貼っておきましょう。」
という医師の声に、前を向き直ってから、
「ハッ。駄目だと言っても、どうせ貼るんだろう。いいさ。好きにしてくれ。」
駄目押しのように悪態を吐いて、処置を受けた。
処置が終わるのを待って、オスカーは医務室で用意された簡素な黒いパンツと白シャツに着替える。がらりと普段と雰囲気が変わって、なんとなくわたくしは視線を泳がせる。
「フッ。惚れ直したか?なんてな。」
と少し顔を近付けて揶揄うように笑う彼に、わたくしは、
「誰がですの。」
と反射的に口先で答えて先に踵を返す。それから、オスカーと共に医務室を後にした。
「すぐに出立の準備をして発つ。補佐官殿は、陛下に報告するんだろう?」
このまま現地まで着いてくるつもりじゃあるまい?とばかりのオスカーの台詞に、
「わたくしが側に居ると、問題があるようなおっしゃりぶりですのね。」
と、答えて、彼を見つめる。額に貼付けられたテーピング。もう止血は済んでいるけれど、それでも尚、痛々しい。視線が交わされる数秒。彼はらしくもなく、視線を一度足元に落とした。それから、鋭利なナイフのような瞳が、わたくしに戻される。
「ああ、困る。」
ズキン、と大きくわたくしの心臓が音を立てて、ゾッと全身が一気に冷え込む。久々に、彼の隣を歩いている・・・そのことが、彼に歓迎されていないのだと遅れて理性が理解して、わたくしは、キュッと右の拳を胸の前で握った。それから、無理矢理に笑顔を作って、スカートを両手で摘んで礼を取る。
「それは失礼を。丁度、陛下に直ちにご報告せねばと思っていましたの。いってらっしゃいませ。」
顔を上げてはいけない気がして、わたくしは、その姿勢のまま、彼が立ち去るのを待つ。
彼がいつものブーツの音を宮殿の廊下に響かせるのを数歩分、聞いてから、わたくしは、直ってそのまっすぐな背中を見つめた。
「ご武運を。」
と時代がかった言葉が口をついて自然と溢れる。口の中で噛み締めるような声だったから、きっと彼には届かない。それで良かった。届かなかった声を証明するように、彼の歩みは止まらず、そのまま、執務室の方へと消える。
わたくしは、くるりと振り返って、足早に謁見の間を目指す。
胸の奥底から、何かが込み上げてくるようで、わたくしはそれを必死に振り切るように前へ前へと足を踏み出す。

謁見の間の前にたどり着いてから思った。
これは、泣き出してしまいたい時の感覚に似ている・・・と。

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その日の夜。アンジェと二人でわたくしの私室のリビングに資料を持ち込んで、現地から上がって来た報告や研究院からの観測データを吟味していた。
「オスカーでなかったら、きっと被害が出ていたでしょうね。」
と、アンジェは呆れるように言って、疲れたように額に手を当てる。原始的な爆弾は、何故事前に発見できなかったのかと思われるくらいに多数市場に仕掛けられていた。オスカーが介入したタイミングは、絶好と言えばよいのか、遅すぎたと言えばいいのか。ただ、オスカーは市民の安全を確保しながら、確認すべき箇所を口頭で伝え、現地警察はそのいくつかを爆発前に撤去することに成功したとある。
そう、結果的に、わたくし達の判断は、内容もタイミングも、少なくとも間違ってはいない。
「まずは、オスカーの技量とその成果、わたくし達の判断に喜ぶべきだと、思うわ。」
アンジェは、わたくしの声を聞いて、見つめていた資料から目を上げて・・・悲しそうに笑んだ。
「いいのよ。」
ポツリ、と静かな部屋に、彼女の呟き。
「?」
わたくしは、問うように視線を彼女に当てる。彼女は小さく口を開いて、それからキュ、ともう一度結んだ。躊躇うような間。
「何?言って、アンジェリーク。」
ソファの上で、姿勢を正して、両膝の上で手を組み合わせて、言葉を待つ。それでもなお、躊躇っている彼女に、視線で促す。
「あの・・・。あのね。ロザリア。」
やがて、根負けしたように、アンジェはおずおずと口を開いた。
「ロザリアは、無理をしてると思うの。」
「無理?わたくしが・・・?何を?」
「うん・・・。そうだよね、分かんないと思う。」
彼女も姿勢をわたくしと向かい合うソファの上で姿勢を正して、それから、ハーと長い溜め息を吐いた。
「・・・・・?」
彼女の言おうとしている事が、常ならばスルリと予想できる筈なのに、分からない。それで、余計に困惑する。
「あの・・・さ。ロザリアは、私達は、恋をしちゃ、いけないと思う?」
突然、全く関係のない話になって、ますます脳内が混乱の一途をたどって、私は思わず反射的に眉を顰めてしまった。
「アンジェ、貴方・・・。どなたか好きな方がいるの?」
ブンブンと横に振られる頭。
「全ッッ然ッッ!残念ながらッ!・・・じゃなくって、質問に答えてよ!」
プゥ、と膨れた頬に、わたくしは状況も忘れて思わず吹き出してしまう。それから、笑いを押さえて答える。
「別に構わないと思うわ。だけど、なんだって、そんな事を気にするの?」
「そう。なら、相手が守護聖なら?」
ニコッと笑って彼女は言って、わたくしは、『全然と言っておいて、やはり好きな方がいるのかしら?』と思いながら、
「少し難しいかもしれないけれど、両立しないということもないのではないかしら。・・・何故?」
再び問うのに、彼女は一向答える気配がない。
「そう。守護聖との恋と、女王補佐官の執務は、ロザリアの中で両立するのね。」
フムフム、と態とらしく頷くアンジェ。
「ええ・・・。って補佐官?!わッ、わたくしの話ですの!?」
混乱のままに、つられるように答えてから、
「そうだよ?」
得意げに言うアンジェに、カァッと一気に自分の頬が紅潮するのを感じる。な、何を言っているの、この子ったら・・・。
「なんで?私が恋をするかもしれないのと同じように、ロザリアも恋をするかもしれないよね?」
「何を言っているの・・・。こんな時に、する話では・・・。」
狼狽えるようにバサバサとローテーブルの上の書類を無意味に触って、わたくしはモゴモゴと口ごもる。
「こんな時、だから・・・だよ。」
ピン、と一気に張りつめるような空気に、彼女のまっすぐな視線を感じて、わたくしはアンジェの翠に知らず吸い寄せられるように視線を当てる。彼女の女王然とした無表情は、視線が合って数秒、へらりといつもの顔に戻る。
「まー、ロザリアにはちょっと難しい話だったかなー!」
と、冗談のように混ぜっ返す彼女に、けれども、先程の瞳の気配をまだ感じているわたくしは、応じることがすぐには応じることができない。グ、と力を入れるように無理矢理に唾を呑み込んでから、
「わたくしに難しいこなど、ないわ。」
と、ツンと他所を向く。
「そうかなぁ?」
恍けるような柔らかい声音。まるで子供に言い聞かせるみたいな。
「そうよ。」
視線を戻して、そのへらりとした笑顔を見つめる。
「・・・・そうかなぁ?」
だんだん眉根が寄って来て、泣きそうな顔になってしまい、
「そんな顔をしても駄目よ。」
ピシャリと振り切るように言う。大体、こういう時のアンジェは泣き真似なのだ。言い過ぎたかしらと、いつも思ってはしまうけれど、わたくしはそこで踏みとどまる。
「チェ、駄目か。」
どさりと脱力するようにアンジェはソファの背もたれに身体を投げ、うーん、と両手を上げて伸びをする。全く、油断も隙もない・・・。それから、頭を切り替えるようにして、わたくし達は、書類の精査と、研究院への観測への指示だしの内容、それから現地との連絡の頻度の変更等について、方針を固めた。
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
もう、空が白み始めている頃に、そんないつもの挨拶を交わしてアンジェを見送る。
パタリと閉じるドア。
わたくしは、またドアに手をかけたまま、知らず佇んでいた。

「フッ。」と。瞳を伏せて笑うオスカーを思い出していた。
どこで見たのだろう、あの表情を。

『そう。守護聖との恋と、女王補佐官の執務は、ロザリアの中で両立するのね。』
不意に無関係なアンジェの言い様を思い出して、タイミングがタイミングだけに、一人で赤面してしまう。
全く、アンジェったら、何を言っているのだか・・・と内心でブツブツと文句を言っているうちに、やがて少し、感傷的になる。
もし、わたくしが、守護聖の何方かと恋に落ちたなら・・・。
両立するだろう。きっと。
わたくしには、自信があった。
けれども、この感情は、恋には程遠い。

そう・・・。ほど、とおい・・・。

わたくしは、知らず、ふと笑って。左肩で纏めていた髪を解いて、リビングに戻った。
それから、思う。

けれど、万が一にも、彼を失うだなんて、考えられないわ・・・と。

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『お嬢ちゃん』と。彼女を呼んでいたのが、随分昔のような気がする。
最初に感じたのは、頑さだった。小さな身体を護るのは、彼女のプライド。貴族としての、淑女としての。それは年齢に似合わぬ完成度で、それなりに見事なものだと俺は思った。
だが、俺は知っている。
そういう頑さの中に護られる、柔らかな心が、あの人にもあって、あの方にもあるように、彼女にもあると。
女王試験が進むにつれて、けれども彼女は変わった。
微笑んでも、怒っていても、どこか堅さを感じさせていた表情は、やがて柔らかな笑顔が混じるようになり、年相応のはしゃいだ様子が混じるようになり・・・何故かそれは、周囲の者達を、ほっとさせていた。
その直接的な原因は、陛下の・・・当時は金髪の女王候補だったのだろうし、間接的には、俺はジュリアス様の影響もあったのだろうと思っている。もちろん、ささやかながら、俺だって、他の奴らだって、貢献したに違いはないだろうが。
彼女の年が、もう少し上だったなら、きっと俺は間違いなく恋に落ちていた。
最初に感じたのが、年下の者に感じる庇護欲のような感情だったから・・・、だから気づくのが遅れて、気づいた時には手遅れだと思った。らしくもなく。
気づいた時には、陛下の隣で補佐官を務めるようになっていた彼女は、どこか神聖さをその身に纏っていて。俺はその存在に敬愛の念を感じざるを得ない。
その上、時折勘違いしそうになる俺の身を案じる視線も、俺の身に当てられるまっすぐな視線も。陛下の持ち物たる俺に対する、執務上の至極当然なものなのだと、何度も痛い程実感している。
おそらく、相手が女王だろうが、相手が補佐官だろうが、俺は恋に落ちたら、その座から彼女を奪い取ることに、罪悪感など抱かなかった。それは随分前に豪語していた通りに。
けれど、これは果たして恋だろうか・・・?
あるいは、タイミングが違っていたなら、今の関係性も違うものになっていた・・・?
「ハッ。後悔は主義に反するし、タラレバなんぞ、地獄に堕ちればいい。」
・・・全く。俺も、ヤキが回った・・・
「何か?」
執務補佐官に詮無い自問自答を遮られて、自分が手を動かしながら、口まで動かしていた事を知る。これをヤキが回ったと言わずになんと言おう。俺は小さく自嘲した。
「いいや。ああ、それは持って行かん。」
「聖地との通信はなさらないので?」
彼が荷物に加えようとしていたのは、小型の通信機。おそらく、向こうの文明では、発見は難しいだろう耳の中に装着するものだった。
「ああ。潜入中に聖地とやりとりしても、時差があるばかりだからな。」
手早くささやかな荷造りを終える。
「そう・・・ですか。」
「フッ。『助けて』という頃には手遅れだろ?」
冗談めかして言うと、
「冗談でもお止め下さい。」
生真面目に過ぎる返事。俺は、悪かったという意味で、肩を竦めてから、片手を振る。
「忘れてくれ。大任を前に、ナーバスになってるんだろう。」
「そのようには、お見受けしませんが。」
溜め息を吐かれて、俺は笑う。
「ハッ。這ってでも帰る。陛下にお約束したからな。」
執務補佐官は、さきほどまでのやや砕けた雰囲気を一変させて、俺を直立の姿勢で見つめて、口を開いた。
「お言葉を返すようですが。」
俺も、その気持ちに応えてまっすぐに彼を見つめ返す。
「這って頂いては困ります。二本の足で、立ってご帰還下さいませ。」
しっかりと言い終えてから、最敬礼。守護聖相手にこのような手厳しいことを言うには、それなりの覚悟が必要だろう。部下に恵まれていると言わざるを得まい。
「その通りだな。俺が悪かった。」
彼に甘えているのを自覚して、謝罪を口にすると、
「いいえ。とんでもないことです。くれぐれもお気をつけて。」
と、彼は姿勢を戻して続けた。俺は小さく微笑みを返して、
「では、着替えて出る。」
告げてから、既に用意された現地のチンピラに相応しい、破れたジーンズとTシャツ、黒ジャケットに着替えるべく、私室に入った。

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「オットー!」
「ここに。」
既に馴染みつつある、ここでの名で呼ばれ、俺はライターの火を束の間のボスに、片膝をついて、恭しく捧げる。大振りのソファ(玉座と呼ばれる)にふんぞり返った体躯の良い50代の男―ロイ―は、それにタバコを近付けて火を取ると、フワリと紫煙をくゆらせた。
聖地時間では僅か、けれども、潜入して既に60日程が経過していた。それでも組織のメンバーには『異例のスピード出世』と言わしめる速度で、俺は組織の幹部ポジションに接近していた。この組織のボス、件(くだん)のロイの舎弟扱いではあるが、今では、主要な会議でも同席を許されている。
次の大規模なテロは、14日後に迫っていた。しかし、この惑星の地元警察が検挙できるだけの証拠物品を確保して、組織の外に持ち出すのに、十分に実現可能な期間が残されていると言える。
なんだってこんな七面倒くさいことを、守護聖が手ずから?と問われれば、答えは決まっている。この解決方法が宇宙にとって、最もローコストだから・・・俺にも、異論はなかった。おそらく、他の誰が行うよりも、俺が潜入して、これが片付ける方が、リスクが少ないだろうと思える。勿論、聖地による介入によって、文化的干渉をある程度許容するという選択肢があれば、それが最もローコストではあるのだが。
「そうだ。お前に見せたいものがある。」
頭の中で、どのタイミングで何をどのように片付けるかということを算段を詰めていると、「思いついた」というような気軽さで、ロイは俺の顎を掴んで引き寄せる。首が不自然に伸ばされて鬱陶しいことこの上ないが、ロイがよく親しい部下にする仕草の一つだ。
「みたいか?」
タバコを咥えたまま、器用に男は首を少しばかり傾けて、にやりと笑う。俺は態と顔を顰める。
「二週間後の祭より、面白いものなんか、俺にはありませんが。」
「ふ、ははは!本当にお前はクレイジーだな。だが、祭の前に景気付けってのも、オツなものさ。お前にはチョット早いかもしれんがな。」
何故かその笑い方に嫌な予感を覚えて、ますます顔を顰めてしまう。
「フン。」
俺の顎を指先で払うようにして突き放すと、
「おい。さっきの、連れて来い。」
ロイはその指を立てると、別の男-寡黙な用心棒で、常にロイが側に侍らせている男で、ブルーノと呼ばれる-に軽く合図する。男はロイと俺にしか分からないくらいに小さく顎を引くと、そのまま部屋を出ていった。
部屋の扉が開く前に、聞き慣れた声を聞いた気がして、ゾッと一気に心臓が冷える。
「・・・・!乱暴にしないで!」
すぐに扉が開いて、果たして、嫌な予感は見事に的中した。
ー・・・ロザリア!
俺は意識的にポーカーフェイスを作り、掌の汗を誤摩化すように、そっと拳を握りしめる。脳裏で、これ以上無い程に、高速で事態打開の糸口を探す。
「どっから迷い込んだものか分からんが、磨けば光りそうな上玉だろう?」
いつものようにセットされておらず、ラフに下ろされた蒼い髪は、ブルーノに左手で鷲掴みにされている。その手を引き剥がそうと暴れる彼女の両手を、慣れた様子でさっさと右手で一纏めに拘束し、ブルーノはロイの玉座の前にロザリアを突き出した。
勢い余って数歩前によろけるものの、すぐにロザリアは直立の姿勢を取る。
タイトなジーンズに、ぴたりとした黒のハイネックという簡素な服であっても、毅然とした態度と表情が、隠せない気品を漂わせていた。
俺を一瞥することもなく、ロイをまっすぐに見下ろし、ロザリアは先制するように口を開いた。
「貴方、何者ですの?」
まるでそれは、庶民を前に誰何する貴族そのものの口調で。
「ハッ!『何者ですの』と来たか。どこの嬢ちゃんだか知らんが、威勢のいいオンナはキライじゃない。」
ロイは、タバコを右手で口元から取り上げ、玉座の肘掛けにゆったりと下ろす。左手で肘掛けの上に頬杖をついて、斜めに品定めするようにロザリアを見上げる。
「人に名を尋ねる時には、まず自分から名乗る、とジュニアハイでは習わなかったか?」
クスクスと堪えきれぬ笑いを漏らしながら、ロイが言うと、クッ、と喉を鳴らして、ロザリアは笑い、右手で肩に掛かる蒼い髪をゆっくりと後ろに流した。
―ヤメロ・・・。
「残念ながら。」
一度、そこで口を閉じて、彼女は妖艶な笑みを浮かべる。
―ヤメルンダ・・・。
俺の内心の静止は届かず、彼女は口を再び開いた。
「わたくしには、無礼者に名乗る名はなくってよ。」
ブチ、とロイがキレる音が、聞こえた気がした。ロイは荒っぽい仕草でタバコを床に捨てると、ガタリと立ち上がって、それを靴でもみ消す。
「おい。」
地を這うような低音。それだけで、ロザリアの後ろに控えていたブルーノは、ロザリアへの距離を一歩詰め、彼女の細い方を乱暴に掴み、彼女の身体を自分の方に引きつけて一瞬の後、鳩尾に容赦なく一発を入れる。
気を失って倒れる彼女をブルーノは腕一本で支えて、『どうしますか?』と問うようにロイに視線をやる。
「フン。静かになったな。小娘が。」
満足気に腕を組んでロザリアを見下ろすロイに、俺は細心の注意を払って、声を掛けた。
「ボス。」
立ち上がって、俺はニヤリと笑う。
「この娘。俺なら、3日で従順なイイオンナにしてみせますよ?」
ロイは、僅かに切れ長の瞳を広げ、
「ほぅ?」
と片眉を上げる。
「お前はオンナに興味がないのだとばかり思ってたが。面白い。オットー、お前に任せてみよう。」
オンナを毛嫌いしてるフリをしていたのは、俺がロイの側に居る間は、できるだけ女性を巻き込みたくないからだった。まさか、こんな横槍が入って、その方針を撤回する羽目になるとは。
「ボスに無礼な口を聞いたオンナは、態度を改めさせる必要がありますから。」
何事もない風に応えてから、俺はロザリアにゆっくりと歩み寄り、その身体を抱き上げ、その頬を出来るだけ大きな音が鳴るように、けれども、痛みがそれほどないように注意しながら、右手を振り下ろして叩く。
パァン!
大きな音が鳴って、ロザリアが瞼を開ける。俺は、その細顎を右手で顔が変形する程強く掴み、その瞳を覗き込んで、悪辣に笑った。
「おい。暫くの間、俺がお前の飼い主だ。その貧相な脳みそでも、覚えられるように躾けてやるよ。」
ロザリアは、瞳を大きく見開いてから、唇を震わせると、何か叫ぼうとでも言うのか、大きく口を開けた。俺は顎を放して、乱暴にそれを封じる。
「んんんんーーーーーー!!」
怒りに燃えて光る瞳。俺は、俺の演技力に感謝すべきかもしれん、と訳の分からない諦観に襲われる。ゾクリ、とその目によからぬ興奮を覚えてから、それを振り払うように俺は素早く彼女の鳩尾を殴る。
クタリと再びロザリアの身体が脱力した。
泣きたい気分だったが、それを滲ませない訓練は積んでいる筈だった。俺はひょいとその細身を肩に担いで、ロイを振り返る。
「俺の部屋で拘束しておきます。すぐにボスが気に入るように仕上げます。」
恭しく、ロザリアを担いだまま、右手を胸に当てて、礼を取ると、満足気にロイは笑んで、再び玉座に腰を下ろした。
「楽しみだな。」
―全く、タノシミだ。
俺は内心で毒づきながら、コツコツと冷静に足を運び、むき出しのコンクリでデザインされた、その部屋を退室した。

俺に与えられている部屋は、舎弟のそれに相応しく、それほど広くはない。それでも、個室が与えられているのは特権と言えた。ベッドと書類も乗らない小さなテーブル。俺はロザリアの身体をベッドの上に下し、水を汲むべく部屋を出る。共有スペースからグラスを二つとって、水と酒のボトルを抱え、自分の部屋に戻ると、ロザリアがドアが閉まる音に反応してか、僅かに身じろぎした。
「・・・・ん・・・。」
俺はドアに鍵をしっかりと掛けて、小さなテーブルにグラスとボトル2本をなんとか置き、壁にもたれて目覚めを待つ。程なく、羽布団の上で寝ているロザリアが、布団を掻くような仕草を見せて、身体をゆっくりと起こした。寝起きの無防備な顔つきは、まるで先程の殺気と気品が綯い交ぜになった危険な顔つきとは真逆の印象だ。俺は、壁にもたれて両腕を組んだまま、腹の底から、猛烈に怒りの感情が沸き上ってくるのをギリギリで噛み殺していた。
「・・・オスカー。」
やっとで目が合うと、彼女は、あろうことか、俺の名を呼び、安心したように笑った。耐えきれずに、俺は右手を横に伸ばし、壁を猛烈な勢いで殴る。
ダンッッッッ!!!!!
と、コンクリに相応しい、鈍い音がして、小指から手首に掛けて切れた。ザリ、と壁を血で汚しながら、俺は彼女を睨みつける。
急に正気に戻ったように、彼女は瞳を見開き、それから、俺から目を逸らした。
「怒って・・・いるのね。」
呟くような声は、頼りなく、僅かに震えを含んでいる。
「当たり前だろうッッ!!」
言い終わらぬうちに、思わず叫んでから、俺は声を潜めて彼女の胸ぐらを両手で掴み上げる。
「俺がまさか、補佐官殿、来て下さって有り難うと喜ぶとでも思ったのか?一体、何を考えてるッッ!!!!」
ほとんど吐息だけで罵り、至近距離で暫し睨み合う。彼女の瞳は、すぐに先程のように、据わったものへと変わる。そして彼女も応じるように吐息を使って冷静に、けれども怒りに満ち満ちた言い様で返す。
「何故、通信機を持たずに潜入を?貴方のその軽卒な判断で、陛下はこれ以上無い程に心配なさっているのです。」
「ハッ!!!!俺が軽卒!?・・・言うに事欠いて、軽卒だとッッ!?!?」
俺はあまりに呆れ返って、両手を放した。ロザリアの腰がベッドに落ちる。かつてない乱暴な扱いに、彼女はロイに見せたような怒りの視線で俺を睨み上げた。
「軽卒はどちらだッッ!リスクを考えたら、お前がココに来るなど、あってはならぬことだと言うことくらい、分かるだろうッッ!陛下はどうやって説得した!ジュリアス様は!ルヴァは!!引き留めが無かった等とは言わせんぞ!!」
俺は噛み付くように、けれども部屋の外には絶対に聞こえぬ音量で、捲し立てる。ロザリアは、落ち着き払った様子で、乱れた髪を後ろに流した。
「言っていません。」
「なんだと・・・?」
「ですから、陛下にも、ジュリアスにも、勿論ルヴァにも相談していません。わたくしは、独断でここに来たのですわ。」
事も無げに言い放つ彼女に、呆れ果てて、声も出ない。
「一体、何を考えてるんだ・・・。君はもう一人の小娘じゃない。全宇宙を支える陛下に仕える、補佐官なんだぞ・・・。」
呻くように呟いて、俺は額に手を当てた。
「補佐官は、女王とも、守護聖とも違いますわ。」
キッパリとした台詞に、俺はおそらく、彼女と同じように怒りに燃えている瞳で、彼女を見つめる。並の女性が受け止められる筈の無い、その視線を、彼女はなんでもないかのように、見つめ返してくる。
「何を当たり前のことを・・・。」
「女王補佐官には、サクリアもなく、この宇宙は、女王補佐官が不在の場合もありうる。陛下や、守護聖とは、その意味で、全く異なる存在だと、わたくしは言っているのです。」
絶対的な、支配者然としたその言い様に、俺は知らずそれに聞き入ってしまってから、遅れて、堪えがたい、猛烈な怒りに再度襲われる。
「貴様ッッ!!意味が分かって、言っているのかッッ!!」
俺は人生で初めて、女性を殴ってしまいたい衝動と戦っていた。同時に、俺にこんな戦いを強いる彼女は、なんと残酷な女なんだ、と思う。震える拳を必死で握りしめて、俺は蒼い瞳から視線を逸らす。
いっそ、何もかも、投げ出しちまいたい気分だった。
もう、任務どころの騒ぎじゃない。一刻も早く、ロザリアを連れて、ここを離脱する。その方がよっぽど重要な・・・と思ってしまってから、彼女の言う事に一理あることに気づかされて、愕然とする。

―女王補佐官が、不在の場合もありうる・・・。

確かに、そうだった。守護聖や女王と違い、女王補佐官は置かれない場合もありうる。だから、俺には許されない。任務を放り投げて、目の前の、この女性を安全なところに、送り届けるだなんて、こと、は・・・。震える唇を隠すように、俺は右手で口元を押さえる。
「・・・何故、来た・・・。・・・どうして・・・。」
最早、それはロザリアに対する問いではなかった。
「フッ・・・。」
彼女の笑うような吐息を漏れ聞いて、俺は、その恐ろしく残酷な女を、ただ、見つめる。
「けれども、貴方の無事が確認できて、良かった。」
俺には滅多に見せないような、柔らかな笑み。
「は、・・・は・・・。」
笑い声のような、泣き声のような、自分の情けない声を聞く。『任務に熱心だよな。本当に・・・。』それから、やっと現実と向かい合う。
「もう、いい。・・・事態を打開しなきゃならん。次の大規模な攻撃は、14日後に迫っている。それまでに、地元警察が検挙可能な形で、事態を収束させる。余計な仕事を増やしてくれたな。君を無事に、その日まで護る必要がある。」
なんとか冷静さを取り戻すように自分に念じながら、言葉を紡ぐ。だが、恨み言を言わずにはいられなかった。
「結構ですわ。先程も言いましたけれど、女王補佐官の身の安全は、この宇宙にとって、絶対の条件ではありません。わたくしは、自分の身は自分で・・・」
ツン、と撥ね除けるように、そっぽを向く彼女に、俺はもう一度、ほとんど何も考えずに、左手一本で、彼女の胸ぐらを掴みあげ、こちらを向かせる。
「黙れ。」
噛み付くように低音で唸ると、彼女はカッと一気に怒りで顔を赤くした。ゴクリ、と彼女の喉が鳴る。今更、たとえ僅かにでも、俺に怯えるのか?君が・・・?俺は自分の唇が、悪辣に捲れ上がるのを自覚した。
「この任務の無事の終了を、君がほんの少しでも願うのならば。」
一度そこで唇を閉じ、彼女の胸ぐらを掴む手に力を込めて、一層顔を近付ける。ほとんど内心は、祈るような気持ちだった。
「宇宙の為に、この惑星(ほし)の為に、俺の言う事を聞け。いいな。」
もう一度、コクリと彼女の喉が鳴った。
「わ・・・、わかりました。」
不承不承、といったように、彼女の唇が重ったるく動き、頬を紅潮させたまま、彼女の視線が泳ぐ。その言葉に、俺はホッと安堵の息を吐いて、その身を解放する。
「分かれば良い。」
俺はもう一度長々と溜め息をついて、髪を掻き上げてから、ブルーノに掴まれていた彼女の腕や首を確認する。俺の手が自分の身体に伸びるのを、鬱陶しそうに彼女はまた他所を向く。俺は彼女の隣に腰掛けて、身体を捻って彼女の方を向く。
「鳩尾も確認させてもらうぞ。二度も殴られているだろう。」
両肩に手を掛けて、言い聞かせるように言うと、彼女はムッとしたように、眉を顰めた。
「一度は貴方に殴られたのですけど?」
「口答えはいい。」
「ちょ・・・!」
半ば無理矢理にタートルネックを巻き上げると、案の定、特にブルーノに殴られたのだろう部分が、内出血している。しかし、内臓まで痛んでいるような感じはなかった。こんな時ばかりは、まるで年相応の少女のように、赤くなって唇を震わせて耐えるような表情の彼女に、俺は思わず吹き出してしまった。
「何故笑うの?」
無礼が過ぎる、というような口調に、けれども、トップスを捲られて、臍上までとは言え、肌を晒している恰好が不似合いで、余計に笑いを誘う。クック、と喉を鳴らしながら、服を元に戻してやると、
「あのッ・・・!」
何か言ってやる、という顔つきは、先程までの俺が気圧されるようなものではなく、やはり女王候補時代を思わせる印象。
「なんだ。」
「その口調、なんだか慣れませんわ。」
居心地悪そうに身体を揺って抗議する彼女に、俺は今度こそ、ハッハッハ、と声を上げて笑った。この状況で、まさか、そんなことを気にしているとは・・・。
「チンピラと小娘。女王補佐官殿に対するように、敬語を使うのじゃおかしいだろう?当分の間、『君』は、『お前』だ、『お嬢ちゃん』。」
何故か、彼女は驚いたように、ビクン、と身体を震わせた。
そして、言ってから、気づいた。
「それで、偽名は考えてあるのか?」
「ロザンヌ。」
俺は再び呆れ返る。
「ほとんど何の捻りも無いな。」
「・・・。あまり、普段の名前とかけ離れていては、呼ばれた時に違和感があるかと・・・。」
珍しくゴニョゴニョと言い訳のように言う彼女に、俺は彼女の乱れた前髪を掻きあげてやって、
「『リズ』、にしよう。これなら、そんなに違和感がないだろ?」
と、首を僅かに傾げて提案する。彼女はふて腐れたように口先で応えた。
「お好きにどーぞ。えぇと・・・貴方はなんという名前なの?」
まるで、初めて会うようなその台詞に、俺は奇妙な感慨を覚える。
「オットー。」
「『オットー』・・・。」
覚えたての名前を繰り返す蒼い瞳に、今度は謂れの無い苦痛を覚える。
「・・・?どうかして?」
変な顔でもしていたのだろうか。
「・・・いいや。」
自分でも説明しようのない内心の戸惑いに、それ以上の追求をどう逃れようかと考えたところで、都合よく、

コンコン

と、無機質なノックの音が割って入る。俺は、気を失っているフリをしろ、と耳元に吹き込んで、彼女がベッドに横たわるのを確認してから、立ち上がってドアに近づき、
「誰だ。」
「俺だ。」
聞き慣れた声に鍵を開けてドアを開く。入り口に凭れるようにする俺の肩越しに、ブルーノは中を伺う。それから、俺の入り口に掛けた右手をジッと見つめてくる。視線に気づいて、すっかり忘れていた負傷を思い出す。
「ああ。あんまり言う事を効かんから、つい激高した。また気絶してるよ。全く、躾け甲斐のある小娘だ。」
疑問を解消してやると、
「ボスからだ。」
男は常のように短く言い、俺に小さな紙袋を押し付けてくる。
「・・・?なんだこれは。」
受け取ってから問う。
「知らない。伝言もある。」
「なんだ?」
「『シャブ漬けにして壊すなら、俺に言ってからにしろ』。」
フッ、と内心の動揺を押し隠して、俺は笑った。
「なるほどな。了解した。」
俺の返事を聞くと、要件は終わったとばかりに、男は踵を返す。俺は緊張感を部屋から押し出すようにして、扉を閉め、再び鍵を閉める。
紙袋の中身を確認すると、黒革の首輪と手錠だった。現実をまざまざと思い出して、ウンザリする。
取れる手だては、そう多くはない。
俺は、ある程度のことは覚悟せねばなるまい、と改めて思った。

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「本当に拘束する必要が?」
『不満』と顔に書いて、わたくしは抗議する。
「俺は、今回の件で、君を信用していない。」
有無を言わさず、オスカーはわたくしの両手を手錠で拘束して、鎖でベッドに繋ぐ。部屋のトイレには自分で行けるけれど、ドアにはギリギリ届かない距離。
「買い物に行ってくる。すぐに戻るが、絶対に声を上げるなよ。」
犬に命令しているような口調に、知らず反感を覚えるけれど、オスカーは気にする様子もなく、ジャケットを羽織ると、さっさと出て行ってしまった。ガチャリ、と駄目押しのように、外から鍵の掛かる音。わたくしの腕はドアにはどうやっても届かないのだから、鍵を掛けたのはわたくしの身の安全の為だろうとは頭では理解できる。
ベッドの上で、やや途方に暮れるように座ったまま、腕を目の高さに持ち上げると、ジャラリ、と鎖の重たい音。両手も顔をなんとか挟めるくらいにしか広げられない。思わず、ハァ、と重たい溜め息が吐いて出る。
後悔はしていなかった。彼の無事を確認した。それに、相当怒らせたけれど、彼は任務を続行している。机というには小さ過ぎるテーブルに、無造作に置かれた黒革の首輪。多分、アレをそのうち、付けさせられるのだろうと思うと、気が滅入らない訳ではなかったけれど・・・。そんなことは、大した問題ではないと思った。
聖地を無断で出ようと思った時、自分が女王でなく、女王補佐官で良かったと、心の底から思った。つまり、死んでも良いと思った。きっとわたくしは、この先、何が起こっても、後悔しないだろうと思える。そのことが、倫理観に欠けると、どんなに理性で考えていても、爽快な気分だった。
『オスカー様は、聖地と連絡を取る必要はないとのご判断から、通信機を置いて行かれました。』
という執務補佐官の台詞に、足元が崩れ去るような絶望感を味わった。
わたくしとアンジェはオスカーの実力を信用して、この任務を任せると判断したのだとか、そういったそれまでの経緯や考えは、その瞬間から、『どうでもよい』、あるいは『意味の無い』ものになってしまった。
現地時間で、30日を経過しても、なんの連絡も取れないという状況下で、とにかく、わたくしは、オスカーの無事を何らかの方法で確認しなくてはと思い、それで『聖地初の暴挙』かもしれない愚行を犯す決心をした。
それから数時間後、信頼できるツテを使って、果たして、わたくしは、この地に降り立った。なんとも『幸運』なことに、潜入操作の訓練など露程も受けていないわたくしが、果たしてオスカーの無事を確認することができた。そのことに、とても満足していた。少ししか見ていないけれど、組織とオスカーの関係は、それなりに安定したもののようだということに、何より安堵していた。
だから、オスカーが見た事がないくらいに激怒していても、見知らぬ土地で手錠に拘束されていても、このどこか爽快な気分を、引きずっている。
それから、
『黙れ。』
という、彼の唸るような低音と、見る者を凍り付かせるような、鋭い視線を思い出して、ゾクリと身体の芯が震える。その、怯えのような、喜びのような、不可思議な感覚を、何か不謹慎なもののように感じて、わたくしはそれを振り払うように首を振る。

―・・・わたくしは、気でも違ってしまったのかしら・・・。

思わないではなかった。よく、分からない。・・・何故、こんなにも、オスカーの無事に拘っているのか。ただ、拘って、拘った結果、愚行を侵し、けれども目的を達成した自分に、満足している。数日前の自分が、今の自分を知ったら、きっと『なんと無責任で身勝手な女王補佐官』と思っただろうし、『女王補佐官の資格等ない』と嫌悪しただろう。今のわたくしでも、頭ではそう思う。そう思っている、のに・・・。

下らない堂々巡りになってしまって、わたくしは自嘲してから、背中からベッドに倒れる。ジャラジャラ、と追いかける鎖の音。そうこうする内に、ずっと晒されていた緊張感が安心に変わったからか、眠気が襲って来て、眠りに落ちた。

優しい指の感触。わたくしは微睡みの中で、もっと触って欲しいと思う。
髪、額、頬・・・。指の背、腹が交互にわたくしを撫でる感触は、どこまでも優しい。つ、と首筋に指が下りて、くすぐったさに身じろぐと、スッと指は何処か遠くへ逃げてしまう。
「あ・・・。」
思わず声を上げて、わたくしは目を開ける。すると、呆れ返ったような顔で見下ろすオスカーが居た。
「フン。この状況でスヤスヤとご就寝とは。全く、恐れ入るぜ。」
ふて腐れた少年みたいに言われると、思わずムッとする。どれほどわたくしが心配したか、知りもせずに、よく言うわ・・・。思ってから、知る筈等無いと思い至って、苦笑する。顔に掛かった髪を掻きあげようとして、ガチャリと金属の音に阻まれ、適わない。顔を振るって髪をどかそうとすると、オスカーの手が伸びて、スッと髪を避けてくれた。
その優しい動きに、さっきの指はオスカー?と一瞬思って、目覚めた時の、彼の呆れ返った顔つきを思い出し、『そんな筈がある訳もないのに』と、自嘲する。
苦笑の理由を尋ねてか、不思議そうにわたくしを見つめるオスカーと、はたと目が合ってしまう。
「何を・・・、買って来たの?」
何故か家族に対するような自分の口調と、寝起きでうまく声が出せず、掠れている喉を鬱陶しく思いながら、尋ねると、
「あ、あぁ。・・・服だ。」
と、彼もどこか違和感を感じているように、複雑な顔をして応える。ガサゴソとベッドの上に置いていたらしい包みを開けて、わたくしの身体を起こしてから、ビラリとそれを眼前に広げる。
黒いドレス。スパンコールがついていて、少し派手過ぎる。まるで夜の女性達が着るようなソレは、わたくしに似合うものとは思えない。
「わたくしが、それを着るの?」
また、わたくしの顔には、『不満』と書いてあったに違いないのに、
「当然にな。」
オスカーは憮然と言って、わたくしの手錠を鍵を使って手早く外す。労るように、わたくしの手首を彼の親指が撫ぜて、わたくしはまた、何か勘違いしそうな自分を内心で嗜める羽目になる。彼が女性という女性にこの上なく優しいことを、わたくしは良く知っている筈だった。
「着替えろ。俺は向こうを向いている。」
服と一緒に、ストッキングやアクセサリーの類いが入っているらしい紙袋を押し付けられて、わたくしは、不承不承それを受け取る。気が進まないけれど、ここに居る間は、オスカーの言う事を聞くと決めた。これ以上、我が儘を言って、彼の仕事を妨げるのは本意ではないのだし・・・と、ベッドから立ち上がって、オスカーの買ってきたものをベッドに広げる。オスカーはくるりと後ろを向いて、腕を組んだ。その背中をチラリと見やってから、こんなに近距離に殿方がいる状況で、まさか着替えをする羽目になるとは、もう話す機会もないけれど、父様や母様が聞いたら卒倒するわ・・・と思いながら、思い切って、服を脱ぐ。全て脱ぎ終わってから、黒いレースのパンティに足を通す。色が黒いのは気になるけれど、デザインはエロティックなものではなく、普通と言えた。それから、ストッキング。ガーターベルトは付けたことのない、大人っぽいデザインだった。これにもドレスと似たようなスパンコールが付けられている。こういったものをオスカーが吟味しなれているのかと思うと、なんだか呆れるような、恥ずかしいような気持ちになってしまう。身につけてみると、スパンコールのお陰か、あまり下着然としていなくて、却って落ち着くデザインなことが分かる。なるほど、と意味の分からない感心をしながら、身につけ終えた。
ブラジャーはお臍上までの編み上げのコルセットと一体になっていて、これも一見して派手なデザインだけれど、まるで洋服のよう。胸の下からお臍までのラインが、僅かにコルセットに隠れきれずに肌が見えるけれど。なんだかオスカーから間接的に下着の選び方のレッスンを受けているようだわ、と思いながら、一通り下着を付け終えて、ワンピースのドレスに手を伸ばす。目の前で一度広げてみる。ギリギリ鎖骨が見えるか見えないかの、寧ろ禁欲的なデザイン。ただ、随分身体にフィットしているようだった。背が大きくファスナーで開くようになっていて、足と腕を通すと、まるで誂えたようにぴったりのサイズだった。袖にフリル、首もとにフリルが僅かについていて、タイトでシンプルなラインを描く、足首までのスカートは、右側が大きくスリットになっていた。ストッキングのラインでギリギリで踏みとどまるような大きなスリットは来た事が無くて少々心許ない。
そこでハタと気づく。わたくしのウェストやバストのサイズを、オスカーはどうやって知ったのかしら・・・?まさか彼の前で裸になったことはないし、勿論教えたこともない。
訝しみながら、背中に手を回してファスナーを閉めようとして、決してわたくしは身体の堅い方ではないけれど、さすがに首元までファスナーを引く事ができないことに気づく。
―・・・どうしろと・・・?
ばあやに助けを求める訳にもいかない。何か、紐やクリップでもあれば、自分で出来るのだけれど・・・。
「終わったか?」
ゴソゴソとしている音がいつの間にか落ち着いてしまっていたのか、オスカーが背を向けたまま、声を掛けてくる。う・・・、と私は詰まったような声を上げてから、結局、選択肢が一つしか無いことを自分に認めた。
「あの、背中のファスナーが・・・。」
言い終わる前に、オスカーが、
「こちらに背を向けて。」
と言う。
「わ、わかりました。」
思わず敬語になってしまってから、なんでわたくしが『申し訳ない』なんて思わなければならないのよ!と少し腹を立てながら、オスカーに背を向ける。
サッとオスカーが歩み寄る気配があって、わたくしの髪を肩から前に流して、サッとファスナーを締める。オロオロしていたのが馬鹿みたいに、あっという間だった。こういうシチュエーションに手慣れているのだという事を見せつけられているようで、なんだかまた恥ずかしいような、変な気分になる。
「ありがとう。」
態と堅い声で応えて、振り返ると、オスカーは一瞬奇妙な顔をしてから、顔を隠すように、右手を口元にやる。どうせ、似合わないと言いたいのだろう。選んだのはわたくしではないのだから、とわたくしは開き直って両腕を組んで彼を見上げる。
「こんな服、着た事がないのだもの。似合わなくて当然ですわ。」
それに、彼はプッと吹き出して、口元を隠していた手を拳にする。全然隠れていないから、意味がないわ。わたくしはフン、と鼻を鳴らしてみせた。
「鏡がないのが残念だな。似合って・・・いなくもない。」
女性に賛辞を惜しまない彼をしてこれなのだから、わたくしの予想は正しいのだろう。ムカッとしながら、わたくしは左手を彼に突き出して、
「それで?靴はありますの?」
と問う。
「当然にな。」
彼は苦笑したまま請け負うと、部屋の入り口に置いていたらしい、別の包みをわたくしに持って来た。開けてみると、黒の裏革のウェッジヒールのパンプス。ただ、ウェッジ部分が透明なクリスタルになっていて、パッとみた感じはウェッジに見えず、パーティ等に合うような5センチヒールに見える。そして、青い薔薇の飾りがついていた。
「掛けて。」
いつの間にか、彼の口調が、わたくしが女王候補だった頃のもののようになっていて、犬に命令するような感じが抜けているわ、と思いながら、わたくしは、促されるままに、ベッドに腰を下ろす。
まるで自然なことのように、彼はわたくしの片足を取ると、その靴を履かせる。青い薔薇は、黒いリボンを編み上げるように足首に巻き付けた上で、ブローチのように踵の上3センチ程度の部分で、留める仕組みになっていた。黒いクリスタルビーズが数個だけ薔薇の花びらに縫い付けられていて、、多分、歩くと控えめに光る。黒いドレスに、黒い靴?と思っていたけれど、この青薔薇が色のアクセントになるのだろう。
もう片方の足を取られて、そちらも履かせてもらってから、立ち上がる。先程より、少し彼と目線の距離が近い。
「ふむ。」
と彼は無表情に言ってから、狭い部屋で距離を取ってわたくしを眺めた。似合わないと分かっているのに、こうしてマジマジと見つめられるのは居心地が悪い。まして、こう無表情だと。わたくしは、自分の身を抱くようにして、それに耐える。
「回って。」
と言われて、くるりと回ってから、もういいでしょう!と言おうと思ったタイミングで、
「失敗したな。」
と言う呟きが、背後から聞こえた。
「ちょっと!あんまりではなくって?!」
そのボソリとした呟きに、余りに腹が立って、くるりと振り向いて、わたくしが人差し指で彼を指差して言うと、
「そういう意味じゃない。」
と真面目に返されて、返答に窮する。遅れて、そう言う意味じゃないなら何だって言うの?!余計に腹が立って来た。
「ナッ・・・・!」
腹立ち紛れに何か罵ってやろうとして、急に距離を詰められて、言葉が出てこない。
「髪は・・・上げない方がいいな。」
する、と髪を顔の両脇から持ち上げられて、なんだか目のやり場に困ってしまう。腹が立っているのに、それをぶつける機会を逸して、唇が不本意に震えた。暫くわたくしの髪を弄んでから、左肩に流すように纏めると、ベッドの上に広げられたアクセサリーから、髪留めを取って、キュ、と挟み込むようにして留める。大きな黒い蝶のデザインは、けれども、半透明や不透明のクリスタルが沢山ついていて、地味なような派手なような不思議な印象だった。
彼は完全に単なるコーディネーターのような顔つきで、自分の顎を一度撫でてから、例の小さなテーブルの上に置かれた、首輪を手に取る。
「まさか・・・。」
ほとんど無意識に呟くわたくしに、寧ろ彼は、
「仕方が無いだろう!誰のせいだと思ってるんだッ!」
吐息に混ぜるような小さな声で、けれど完全に怒る。確かに、わたくしのせいだわ、と思うのだけれど、どうしても彼を睨み上げてしまう。
彼はその黒革の首輪を、わたくしの首に付けて、苦しくないギリギリの太さにして、また距離を取った。怒ったような顔は、まだそのままで。わたくしはふて腐れるように視線を外してしまう。
「手慣れてらっしゃるのね。サイズもお教えしてもないのに、よくご存知のようだし。」
ブツブツと恨み言が漏れでてしまうと、彼はハッ、と例の悪辣な笑い声を漏らした。
「特技でね。」
肩を竦められて、わたくしはムカムカする気持ちをなんとか胸に押しとどめる。
「今回は、その特技に救われているということを、理解してもらいたいもんだな。」
続けられた台詞は意味が分からないし、ふてぶてしい態度が鼻につく。
「これで、取りあえずはすぐに殺されるということはなさそうだ。後は、『リズ』。お前の努力次第ってところだな。」
オスカーは滅多にないことに、視線をわたくしから外して、言い退けた。わたくしは、『悔しい』と思った。彼に命の保証をされているということが、悔しい。
「なんだか知らないけれど、直視もできないのに、よく言うわね。『オットー』。だけど、あんたの言う通りに踊りを踊ってみせましょう?あんたはわたくしの束の間の飼い主のようだから。」
慇懃に胸に手を付けて、首輪を見せつけるように首を傾げてから礼を取ると、オスカーは一気に間合いを詰めて、わたくしの胸に付けた右手を乱暴に掴む。素早い動きと、オスカーとは思えない乱暴な態度に、内心でとても驚く。それは、この部屋で目覚めてすぐの時の、怒り狂ったオスカーのそれだった。
「痛いわ。放して。」
手首の痛みを無視して、冷静を装い、瞳を逸らさずに言うと、至近距離に顔を近付けたオスカーが、
「いいか。ロイには・・・組織のボスには、絶対に今みたいな態度を取るな。」
空いた右手でわたくしの鼻先に人差し指を当てる。ムッとして、
「何故?」
睨んだまま噛み付くように問う。オスカーは唇を堅く引き結んで数秒を数えてから、
「・・・どうしてもだ!言う事が聞けないなら、俺は任務を下りるぞ。」
噛み付き返すように応える。真剣な瞳は、冗談とは思えない。わたくしは、自分の我が儘で迷惑をかけているのだというこの状況を急に思い出して、唇を引き結ぶ。
ロイの前でそうされたように、顎先を掴まれ、
「分かったのか?返事はどうした。」
また、犬に言うみたいに言うのね。わたくしは、
「言う事を聞くわ。『オットー』。」
と、それでも収まり切らない怒りをなんとか噛み殺して言う。オスカーは、わたくしの顎を掴んでいた手を離して、左手でわたくしの手首を強く掴んだまま、自分の髪をくしゃ、と潰した。それから、深く俯いて、
「分かったなら、いい。」
と呟いた。前髪が彼の表情を隠していて、何を考えているのか分からない。ただ、どうしようもなく・・・胸が、痛かった。

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オスカーと再会して三日目。既に『言う通りにする』という約束の下、二日目からわたくしの手錠生活は終わっていた。それでも、部屋の外には一歩も出る事が適わなかったのだけれど、今日、やっとオスカーの部屋から出ることができた。一日目に彼が買って来た服を身につけ、彼に連れられて部屋を出ると、程なく、通りすがりの男達とすれ違う。ジロジロと見られ、口笛を吹かれるのは、とても気分が悪い。けれど、彼に『微笑めとは言わないから、睨んだり、目を合わせたりするな。』と言いつけられているので、何も見えない素振りでオスカーの背中だけを見つめて歩く。
どうやら、この建物は、組織の連中が共同生活をするためのアジトのようだった。通り抜ける共有スペースには、ビリヤード台があったり、テレビがあるリビングのようなスペースがあったり、キッチンがあったりして、酷く無秩序で、彼等の倫理観に相応しく、雑誌や書類や、よく分からないガラクタのようなものが、床に放置されていたりして、雑然としている。
医療品なのか、注射器や包帯といった衛生用品らしきものも、アチコチに転がっていて、ここで怪我や病気をしたら、あんな不衛生なもので治療されるのかと思うとゾッとした。
オスカーも好奇の視線に動じる事無く、目的地に向かってどんどん進む。細い階段やいくつかの共有スペースを抜けると、程なく、大きな両開きの扉の前でオスカーが立ち止まって、腕を組む。
『打合せ通りだ。計画続行。』
の合図。オスカーは、
「開けてくれ。」
と扉の前に立つ、長身の男ーわたくしをこの部屋に以前、無理矢理連れて来た男だったーに声を掛ける。返事も無く男は扉を開く。オスカーがコツ、コツ、とブーツを鳴らして歩み進むのに、わたくしも続いて部屋に入る。
部屋に入ると、扉の真正面に設置された、一人掛けの大振りのソファに座った男が、わたくし達の姿を認めるなり、
「ハッ!!ブラボー!というべきだな。」
態とらしく拍手をしてみせる。構わず歩み進んだオスカーが、膝をついてその前に頭を垂れ、わたくしも不本意極まり無いものの、任務なのだと言い聞かせて、片膝をつく。右膝を付くので、スリットが割れて、ガーターベルトが僅かに覗くけれど、仕方が無い。
「お待たせしました。」
言ってから、顔を上げるオスカーに、
「短期間でよくあのじゃじゃ馬を馴らしたな。お前にはそういう才能があるということか?」
と笑い、小さく手をこまねく。オスカーが一度立ち上がって、彼の脇に再び膝をついて控え、私を見やった。
「そういうことでしょう。」
イヤミに笑うのは、それが演技だと分かっていても、まるで別人を見ているようで落ち着かない。『貴方に、そんな場所は似合わないわ。』と思ってから、その任務を言い渡したのが自分であることを思い出す。
「近くで見たい。」
ロイが肩肘を付いたまま言うのに、
「リズ。ボスの前に出ろ。」
と、オスカーが命じる。立ち上がって、一歩、二歩、三歩、とゆっくりと姿勢正しく歩む。
「止まれ。」
オスカーの声に応じて、わたくしはピタリと動きを止める。
「フッ・・・。本当によく懐いてるじゃないか?」
ロイの視線が親しげにオスカーに当てられ、オスカーがそれを誉れとばかりに、
「痛み入ります。」
と受ける。
「これだけの上玉だ、何かに使えるかも知れんな。」
「はい。」
「しかし、なんというか・・・。従順すぎて、面白くなくなっちまったな。」
ロイがタバコに手を掛けると、オスカーはポケットからライターを出してするりとロイの前に出す。ロイの顔が近づくと同時に火が付いて、タバコに火が灯る。まるで阿吽の呼吸。随分前から、ずっとそうしてきたような。
「お言葉を返すようですが、詰まらないくらいに従順な方が、手駒としては使いやすいのでは?」
「フゥ。ハハ・・・。まあ、それもそうか。」
交わされる含み笑いを、わたくしは直立したまま、無表情に見つめる。これで、わたくしの役目は終わったと思っていいのだろう。手駒として認識されて、使いたい時に使える。それで十分だと言われている。
下がれ、という『オットー』の指示を待っている時に、若い男が部屋にやや慌ただしく入って来た。サッとボスの前に膝をついて、若い男は口を開く。
「ボス。緊急でお話が。」
「構わん。どうした。」
「例のもの、計画通りに移している最中で、少しトラブルが。」
ロイの視線がチラリとオスカーに行き、オスカーが小さく顎を引く。部屋の中には、ブルーノ、オスカー、ロイ、そしてわたくし。それで、ロイはタバコを咥えたまま、先を問うた。
「どんなトラブルだ。」
「若いヤツで、新しく入ったのが、別の組織とも通じていたようで、ブツの一部をパクりました。捉えて、事なきを得ましたが、情報が漏洩している可能性が。」
「フン。指示元はゲロったのか?」
「いいえ。」
「連れてこい。」
小さく空いた左手の人差し指を招くようにすると、若い男とブルーノが連れ立って退室する。
「オットー。」
「はい。」
「どう思う?」
「・・・。ヤンのところでしょうか。」
「だろうな。」
笑んでから、ロイはチラリと一瞬、わたくしを見やった。
「この女、使えるか?」
ピクリ、とオスカーがほんの僅かに身じろいで、
「まだ、早いかと。」
と淡白に言う。ロイがタバコを持ち上げると、呼応するように、オスカーは玉座の脇に置いてあったらしい小さなアッシュトレイをさっと持ち上げる。ロイのタバコがそこに捻るように当てられ、火が消えた。
ロイが徐に立ち上がると、オスカーがその前に僅かに一歩出る。
「・・・なんだ?」
困ったようにオスカーは眉根を僅かに寄せ、それから笑んで、口を開いた。
「早すぎます。例の花火が終わってから、ヤンのところに送り込めるようにします。」
なんの話をしているのだか、追えないけれども、わたくしの処遇について話をしていることは分かった。口を開こうとして、オスカーの手が、自分の身体の後ろでわたくしの方に向けられていることに気づく。『待て』の合図・・・と思って、何も言わずに直立を続けていると。
「そうか?」
とロイが笑って、オスカーの肩を押しやるようにしてわたくしの前に立った。自然、わたくしの視線は、ロイを見上げるようになって、瞳が合う。
「ほう?この女、俺の目を見るのか。」
面白気に笑う意味が分からない・・・と思ったのは一瞬。グイ、とロイの右手がわたくしの腰を引きつけると、左手がわたくしの顎を掴み、ロイは顔を傾けて、無理矢理に唇を合わす。何をするの!と突き飛ばしたい衝動を、『何をされても一切抵抗するな。人形のようにしていろ。』と言ったオスカーの必死さが滲む真剣な顔つきをギュッと閉じた瞼の裏に思い出して、なんとか堪える。
一瞬、ロイの唇が離れ、
「おい。口を開けろ。」
と言われて、『なんで開ける必要が?』と訝しみながら、言われた通りに、小さく口を開ける。余計に面白がるように、ロイは笑みを深くして、また顔を近付けてくる。ロイのぶ厚い舌が、わたくしの口の中に入って来て、荒っぽく咥内であちこち、撫で回す。気持ち悪さに、思わず、身体が堅くなって、拒絶するように手の位置がジワジワと上がってしまう。突き飛ばすことだけは、と思って、また目を瞑り、耐えていると、長かった苦痛の時間がやっと終わった。
「は・・・。」
やっと呼吸する事が許されて、唇を解放された瞬間、自分の胸に手を当てて、思い切り酸素を吸い込む。強い視線を感じて、知らず、視線の主を探すように瞳を彷徨わせて、鬼のような形相をした、ロイの腕ごしに、直立するオスカーと目が合う。オスカーは、目が合った一瞬の後、まるでそれが嘘だったかのように、
「フッ。」
と苦笑するように、声を上げると、ロイを見やった。
「だから、申し上げましたでしょう。早過ぎる、と。」
「フッ。まさか、お前が味見してないとは思わなくてな。」
ロイは満足気に私の顔の脇の髪を触ると、くるりとわたくしに背を向けた。玉座に戻って座りながら、
「確かに、すぐには使えんな。それにしてもお前、女に興味がないとは思っていたが、まさかソッチか?」
オスカーはクスクスと笑ってロイを見つめ、
「まさか。小娘にその気になれなかっただけです。」
さも当然のように言う。瞬間、カッと顔に血の気が上ってしまう。オスカーがこちらを見ていなくて良かったと思った。
「フ。お前は年増好きか?まあいい。この女、お前の部屋に戻しておけ。ヤンのところだと確認できたら、お前の言うように、花火が終わってから送り込もう。それまでにしっかり仕込んでおけよ。」
「はい。勿論です。」
オスカーが笑んで返す。
「『裏切り者』がこっちに来たら、ブルーノをお前の部屋に呼びにやろう。」
「承知しました。」
やりとりを終えて、オスカーが、わたくしに、
「帰るぞ。」
と笑んだままの顔をやる。怒っていたと思ったのは、見間違いだったのかも知れない。十分な成果に、満足ささえ感じられる顔だった。
黙って、彼の後を付いて、退室する。無言のまま、来た道を辿って、『オットー』に与えられた部屋に戻ると、オスカーは部屋の扉をいつものように施錠する。それから、笑んだままでわたくしを振り返って、わたくしと目が合うと、急に無表情になった。
やはり、怒っているの・・・?
「何か・・・」
何か、粗相をして?と、尋ねようとして、ドン、と急に壁に突き飛ばされる。
「・・・!」
急な事に、声も出ない。至近距離でオスカーがわたくしを無表情に見つめると、口早に囁いた。
「今から、俺はキスをするが、嫌なら2秒以内に、顔を背けるんだ。いいな。」
あまりに事務的な言い様に、意味を取るのが遅れ、何から質問すればいいのか分からない、と思ったところで、言葉の性急さとは裏腹に、ゆっくりと、オスカーの唇が、私の唇に当てられた。
数秒間の沈黙の後、暖かい唇が離れていく。
「何故、拒絶しない。」
知らず、瞑っていたらしい目を開けると、弱り切ったように眉を顰めてわたくしを見下ろすオスカー。壁とオスカーに阻まれて、身じろぎも出来ず、わたくしはただアイスブルーを見つめる。
無言の応酬の後、オスカーは、ハァ、と遣る瀬なく溜め息をついてから、問うた。
「初めて、か?」
「・・・・?何がですの?」
ギュ、と余計に彼の眉が寄って、わたくしの頭上で壁に当てられている拳が、ギュ、と握られる音がした。
「ロイが、初めてかと聞いたんだッ!」
囁き声。それでも十分に彼の苛立ちを感じられる。
「え?・・・キスが?え、ええ。初めて、ですけれど・・・。」
困惑に困惑を重ねて、彼が何を言おうとしているのか、何に腹を立てているのか分からないままに答える。それから、まるで恋愛経験がないことを吐露しているようだわ、と思って、顔にまたジワジワと血が上ってくる。
「それが、どうかしたんですの?」
努めて冷静さを装い、わたくしは気を取り直して、アイスブルーを挑戦的に見つめる。
「ハッ!なんでもないことだと・・・?」
まるで傷ついたみたいな彼の顔に、ドキリとする。だけど、わたくしが傷つくならともかく、オスカーが傷つく理由が思い当たらない。
「わ、わたくしは、死を覚悟してここに来たのですわ。今更・・・。」
『キスごときで・・・』と、言おうとして、急になんだか恥ずかしい言葉な気がして、口にするのを躊躇してしまう。視線が知らず彷徨ってしまって、
「補佐官殿には恐れ入るな。そうか。任務の前では初めてのキスごとき、どうってことないって?」
悪辣な言い様に、『誰の為だと・・・』と言ってやりたくなって、視線を上げると、やはり、そこにはいつものニヒルな笑みを浮かべる、彼が居た。だけど、その目は泣いてしまうのじゃないか、と思わせるようなソレで、またドキリとする。
わたくしの顎先に、状況に不似合いな優しさで、彼の長い指が当てられて、わたくしは、知らず、目を閉じる。また、彼の唇がゆっくりと当てられ、唇を舌先でなぞられて、ピクリと全身が反応し、自然と口が薄く開いてしまう。そこに、勢い良く舌が押し入って来た。けれど、ロイのそれとは、全く違って、身体が何故か暖かく痺れるような・・・。上顎や歯列を舌でなぞられると、どんどん身体が熱くなって、なのに、どうしてか、力が抜けていく。
「ん・・・・ふ・・・。」
吐息が鼻から漏れるような声を出してしまって、いつの間にか全身脱力して、ほとんどオスカーに抱きしめられるみたいになっていることに気づく。わたくしの手は、縋るように彼の胸元の布を握りしめていた。
ボウッと頭の芯が痺れてしまっているままに、彼を見つめていると、彼は、クシャリと顔を歪めて、
「もう、いい。」
と呟いた。
『もう、いい。』
・・・何が・・・?
胸に何かが競り上がってくるような感覚。何故か泣くのを堪えるように、わたくしは必死に自分の胸の辺りに意識を集中していた。
「悪かった。」
謝罪?誰に対する?何に対する?わたくしは、握りしめたままになっている、彼の服から、ぎこちなく手を離す。
「ベッドに行けよ。疲れただろう。俺も全く、大人気ない。」
ここでは、度々あることなのだけれど、彼はらしくもなく、視線を合わせずにわたくしに言った。
『俺も全く、大人気ない。』・・・では、さっきの『悪かった。』は、『子供に対して、大人気ないことをして、悪かった。』ということなのね。
わたくしは、コクリと顎を引いて、ベッドに座る。
「服も、もう脱いでいい。」
ああ、そうだったと思う。もう一度立ち上がって、なんだか酷く重苦しく感じる身体を、ノロノロと動かし、小さなクロゼットから、自分が着て来た服を取り出す。確かに、疲れている。緊張が解けたのかも知れない。わたくしが着替えるときは、いつもそうであるように、彼はわたくしに背を向けている。それがそのまま、彼のわたくしへの拒絶な気がした。
その背中を見ながら、着替え終わって、ドレスをクロゼットに仕舞う。
パタン、というクロゼットの音で、彼は振り向いて、
「もう寝ろ。」
事務的に言うと、ベッドサイドの小さなテーブルからタバコを取って、火をつけた。わたくしは、言われるまま、ベッドに腰を下ろして、ごそごそと布団を引き寄せ、ベッドヘッドに背を預ける。彼がタバコを吸うのを、初めて見るわ、と疲れた頭で、なんとなく思って。ただ、その小さな明かりを見つめる。ゆっくりと天井に上って行く紫煙。嗅ぎ慣れないタバコの香りは、きっとロイとは銘柄の違うものなのだろう。
沈黙。
わたくしと、目を合わせないまま、彼が二本目を吸い終わったところで、ノックが鳴った。
「寝ておけよ。」
彼は、疲れ切った笑顔でわたくしをやっと見る。伸ばされた手が、一瞬迷うように、宙空で止まって、それから、くしゃくしゃと子供の髪を掻き回すようにする。その、優しさが、痛い・・・と思うのに、身体と心が冷えて固まったみたいに、わたくしは無表情だった。立ち上がって彼が部屋を出るのを、ただ見送って、パタリとドアが閉まり、また鍵がかかるのを、ずっと見つめる。
数秒後、ポロリ、とドアを見つめる瞳から、涙が溢れた。

泣くの・・・?
なんで・・・?

分かり切っている。
もう、分かってしまった。わたくしは、オスカーが好きなのだ。
なのに、わたくしは、彼にとっては、護るべき、一人の子供なのだわ。
もう、『お嬢ちゃん』と呼ばれるのも、優しく頭を触られるのも、優しく笑いかけてもらえるのも、少しも嬉しくなくなるのだろう。
そう思うと、次から次へと涙が出て来て、止まらなくなる。
嗚咽を上げる訳にはいかなかった。膝に掛けた布団を握りしめて、小さく身を縮こませる。膝の上に、顔を伏せて、声を押し殺して、只管泣いた。

『そう。守護聖との恋と、女王補佐官の執務は、ロザリアの中で両立するのね。』

両立などしない。
だから、わたくしは、聖地を飛び出して、ここに来た・・・。
それでも、ここに来たことを、後悔はしていなかった。
もう暫く、オスカーと共にここに居る。昨日や一昨日のように、幼子と添い寝するように、彼はわたくしの隣で寝るだろう。任務が終わるまでは。
わたくしに背を向けて、できるだけ身体を離して寝る彼を思い起こす。枕はわたくしに寄越して、自分は自分の腕を枕にして寝ていた彼。
『寝ておけよ。』
彼の声を思い出して、ギシギシと固まってしまったような身体を懸命に動かし、なんとか身体を伸ばして、寝る姿勢を取る。離れていても、僅かに伝わってきていた彼の体温は、今はない。ただ、宙空に彼の背中を思い描いて、そっと手を伸ばす。
その幻は、空気に解けて・・・。
わたくしはギュッと自分の身を抱いた。

―恋って、もっと暖かなものかと思っていたわ。

自分の無邪気に過ぎる思いつきに、クスクスと自嘲して、また泣けた。
もし、無事に任務が終わって、聖地に帰ることが出来たなら・・・。
そしたら、きっとわたくしは女王補佐官に戻ろう。
何を馬鹿な、血迷った行動を取ったのかしら、と。きっと笑って今の自分を見過ごそう。
できる。
きっと、できるわ・・・。

----

ドアの開く音で目が覚めて、身体を起こす。鍵が閉められる音。
「起こしたか。」
オスカーの低音に、目を上げるけれど、姿が見えない。暗闇。もう夜になっているんだわ、と思う。
つかつかと歩み寄る音。
近くに彼の顔が寄って、やっとアイスブルーだけが、光って私の視界に写る。
「明後日、警察の押収が入る。」
小さな囁き。また、タバコの香りがした。それに混じって、嗅ぎ慣れない・・・なんだろう、鉄錆のような匂い。任務が終わる、と遅れて認識した。
「明日・・・もう、今日か・・・の未明に、ここを出るぞ。」
暗闇で良かった。泣き腫らした顔を、見られなくて良かったと思う。
「分かったわ。」
くしゃくしゃと、またわたくしの頭をかき混ぜる彼の大きな手。無意識に、その手に自分の手を当てて、いつもと違う感触に、疑問を持つ。
「怪我をしたの?」
「ああ。ちょっとな。」
暗闇で探るように彼の身体を確かめようとして手を伸ばして、
「服も、着替えたの?」
先程と違った形状に気づいて、尋ねる。
「ああ。」
短い返事。それ以上は、知らなくていいということだろう。鉄錆の匂いは、血の匂いかもしれない。誰の・・・?
「手の他は、怪我をしていない?」
「ああ。」
また同じ温度の声。嘘かも知れない。納得していないわたくしが分かるのか、クス、と小さな笑い声。
「なんなら、また裸になって見せようか?」
揶揄うような言い方は、もう気にならない。
「ええ。明かりをつけて、見せて。」
ちょっと驚くように、彼の瞳が光る。それから、
「女王補佐官には、守護聖の身体を検分する必要があると?」
と、また揶揄うような声。
「ええ。」
淡白な返事は、何も考えずに、上がった。
「分かった。」
短い返事と共に、彼がわたくしから離れ、部屋の電気が灯る。真新しい服を着ているオスカーが、上半身をサッサと脱いで、傷ついていない事が分かるように、背を向ける。
筋肉質な均整の取れた身体は、どこも傷ついてはいない。
ぼーっと見ていると、
「もういいか?」
と後ろを向いたまま、オスカーが聞く。
「ええ。」
答えて、オスカーがまた服を着込むのを、また、ぼーっと見つめる。
「ただ、血の匂いが・・・。」
自分の呟きに、少し吃驚する。尋ねるつもりはなかったのに、と。オスカーも少し驚いたように、一瞬手の動きを止めて、それからTシャツを完全に身につけてから、
「鼻がいいんだな。」
と笑い、それから迷うような沈黙を数えて、
「拷問したからな。それでだろう。」
と言った。ゴウモン・・・。それから、『裏切り者』の件を思い出す。その裏切り者の拷問を、オスカーが担当したということだろうか。血を浴びるような拷問を一瞬思い描いて、ゾッとする。
「そんな顔をするなら、聞かなきゃいい。」
眉を顰めでもしただろうか。彼が拷問したということが、不満なのではない。任務なのだから。
「貴方が無事ならば、それでいいわ。」
ピクリ、と彼の片眉が持ち上がる。それから、苦しげな笑み。
「フッ。本当に、仕事熱心なんだな。」
「仕事熱心な女王補佐官は、ここに来たりしないわ。今のわたくしは、出来損ない。」
思わず反射的に呟いて、それから、ハッとする。とてもマズいことを言ったのかも知れない。それに、何も考えなかったけれど、よくよく考えたら、今のわたくしは、泣き腫らした顔をさらしているのかも知れなかった。なんだか、急に全てがどうでも良くなって、愚かな自分の行動に、思わず小さく苦笑を漏らす。
「フッ・・・。フフ・・・。」
「出来損ない・・・?どういう意味だ?」
真剣な声音に、目を上げると、まっすぐにこちらを見つめる、生真面目な視線にぶつかった。わたくしは、わたくしと違って、『仕事熱心な守護聖』に、笑んだ。
「いいの。忘れて。どうでも良いことよ。」
呟くように言って、また、身体を横たえようと腰をずらす。
「本当に、どうでも。・・・もう、寝ましょう。」
言いながら、布団を被ろうとすると、ギシッ、とオスカーがベッドに膝を乗り上げて来て、わたくしの肩をそっと掴み、それを止める。
「何・・・?」
もう、頭が回らなくて、本当に眠たかったから、不満が顔と声に出てしまう。
「俺は、どうでも良くない。」
目の前にある顔を、本当に綺麗な顔、とわたくしは思った。
「わたくしは、どうでも良いわ。」
まるでおかしな言い合いをしている、とどこか他人事のように思う。ムッとしたように、彼が顔を顰める。
「誤摩化す気か?」
誤摩化す・・・?わたくしは苛立った。何故、この人は許してくれないんだろう。わたくしは、もう忘れようとしているのに。任務は後僅か。この期間が終わったなら、わたくしは女王補佐官に戻れるのに。そうよ、きっと戻るのに!
「うるさい。」
いつも、この部屋では吐息を使って話すのに、わたくしの声とも思えない声は、大きな音ではないものの、しっかりと音を伴って、部屋に響いた。それから、ドッと名付けようのない感情が押し寄せて来て、わたくしは、目の前のオスカーの胸を拳で思い切り叩いた。
「うるさい!」
ドン、という音。慌てたようにオスカーがわたくしの口を大きな手で塞ぐ。
『泣くまい』と思う前に、ボロボロと涙が零れでて、オスカーの手の中で、くぐもった嗚咽が漏れる。
「ふ・・・・!!・・・・・!!」
弱り切ったようにオスカーが顔を歪め、それからベッドに完全に乗り上げて、ギュゥッとわたくしの身体を抱きしめた。オスカーの胸は暖かい。余計に泣けて来て、わたくしは彼にしがみつくようにして、泣き続けた。暫くそうしていると、
「落ち着いた・・・か?」
と、身体を伝って優しい声がした。スン、と自分の鼻が鳴る。
「ごめん、なさい。」
少しだけ、わたくしを抱くオスカーの腕の力が弱まって、腕の中で、彼を見上げる。困った顔。勿論、困らせている自覚はあった。
「取り乱して・・・。」
ごめんなさい、ともう一度、言おうとして、オスカーの声に遮られる。
「すまない。」
ギュッとまた抱き込まれて、それから、勢いよく、額や耳に、キスの雨が振る。押し倒されるようにして、ベッドに背中が沈んで、部屋の明かりを背後にする、彼を見上げる。
「キスをしても?」
困った顔のまま、首が傾げられる。なんでそんな事を聞くの?と尋ねるべきなのに、わたくしは両腕を彼の頭に伸ばして、自分から口づけた。勢いが良すぎて、唇の感触より、歯がぶつかってしまう。
「ツッ!」
彼は、痛みに顔を顰めてから、急に破顔すると、自分の切れてしまった唇を指先で撫ぜた。プッとわたくしも何を考えるより前に、吹き出して、声を抑えてクスクス笑う。口元を両手で抑えて、それでも笑いが止まらない。なんなんだろう、変だわ、とても変だわ、とわたくしは思う。
「もしかして、俺の身を案じて、執務を放り投げて、ここへ来たのか?」
ギシリと彼が肘ごと腕をベッドに付く。秘密は、バレてしまった。両手を彼の首に絡めたまま、わたくしは、どこか達観して、背をベッドに預けた。
「そうね。愚かな女王補佐官だわ。」
見上げる彼が、笑んでわたくしを見つめ返すのに、違和感があった。小娘の、可愛らしい片恋に、同情でもして下さるのかしら。
「男として好かれているのだと、自惚れても?」
自惚れる・・・?いつでも自信たっぷりの彼に、全く似合わない言葉選びに、わたくしはまた小さく笑ってしまう。それから、自嘲する。
「ごめん、なさい。・・・あの、わたくし、今は少し・・・大分、変ですけれど、きっと冷静な女王補佐官に、戻れます。」
なんとか視線を彷徨わせながら言って、彼の首から手を離し、彼の胸に手を当てる。『もう、離れて頂いて、大丈夫』という意味で。なのに、その手が、彼の暖かい手に、ギュッと掴まれる。
「・・・あの?」
訝しんで視線を上げると、
「それは困る。」
と真剣な顔。至近距離で見つめられて、わたくしは顔に血が集まってくるのを感じる。
「な、んで・・・。貴方が困るの?」
戸惑いを隠せず、狼狽えたような情けない声で聞くと、オスカーが眉根を寄せ、笑った。
「俺も、君を好きだからな。」
・・・・?なん、て・・・?思わず固まっていると、優しく、唇が重ねられた。夢を見ているのかも知れない、と思って。けれども唇の暖かい感触に、夢でもいいと思った。
優しく擦り合わされる、舌と舌。どう反応していいのか分からなくて、でも必死に答える。
「フ・・・・ん・・・・。」
長い口づけの終わりに、『なんて幸せそうな顔をするんだろう、この人は・・・。』と思うような笑顔で、オスカーがわたくしを見つめる。急な衝動に駆られて、両手で彼の頬を抓る。
「はにふるんだ・・・。」
いい男が台無しの台詞に、わたくしは笑う。
「夢かと・・・思って。」
つ、と頬を伝う水の感触に、自分がまた泣いているのだと知る。随分、泣き虫になったんだわ、泣くのを我慢するのは、得意な方だと思っていたのに。骨張った指が、優しくわたくしの涙を拭って、目尻に優しいキス。そのまま、額や耳を、優しく指先がくすぐる。
「このまま、抱いちまいたい気分だが。」
不穏な台詞に驚いて知らず伏せていた目を開けると、また、困った顔がわたくしを見つめている。
「やめておくぜ。ただ、今日はこのまま、君を抱いて寝たい気分なんだ。いいだろ?」
いいながら、彼はゴソゴソと布団に入ってきて、ぎゅ、とわたくしの身を抱いた。ちょっと苦しい。でも、この上なく心地よい苦しさ。男の人の腕って、とてもとても重たいんだわ、と思って少しまた赤くなる。とっても温かい。タバコとも、血の匂いとも違う、嗅ぎ慣れない匂いに包まれて、わたくしは目を瞑る。鼓動が早鐘を打って、それが伝わるのじゃないかと思うと恥ずかしい。
「今日は地獄と天国を味わって、気持ちが追いつかないな。」
わたくしの額に、オスカーの吐息がかかる。
「それはわたくしの方ですわ。何も分からない。」
クスクスとオスカーがわたくしの髪を梳きながら笑い、
「じゃあ、分からないまま寝ちまおう。明日は忙しい。」
寝られるかしら、と思いながら、彼の腕の中で懸命に寝ようとしていると、程なく、彼の寝息が聞こえて来た。そういえば、ここにきて、一緒のベッドで寝ているのに、彼の寝息を聞くのは初めてだわ。いつも私の後に寝て、先に起きていたんだと気づく。きっと、今日は本当にとても疲れているに違いない。起こさないように、腕の中でそっとずりあがって、首を伸ばして彼の寝顔を見つめる。
長い睫毛が、細かく動いている。
いつもの鋭い瞳が、瞼に隠れてしまうと、なんだか別人のよう。瞳が彼の印象の大きな部分を占めているのだと思った。
このままでは、寝られそうにないわ、と思って、そうっと、寝返りを打って、彼に背を向ける。規則正しい寝息は乱れたりはしなかったけれど、わたくしの身体の上に乗っていた腕が、ずるりと、わたくしの身体から落ちそうになって、それから、ギュッと抱き直すようにまたわたくしを引き寄せる。背中に、ぴったりと彼の胸の感触。
暖かくて、とても安心する。
わたくしは、やっとそれで、帰って来た眠気に、自分の身を委ねた。

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朝日の気配を感じて、目を覚ます。目を開けると、目の前に、オスカーの胸があった。
「おはよう。」
頭上から振って来た挨拶に、横向きに寝たまま、顎だけを上げると、オスカーがわたくしを笑んで見つめている。まだ、抱きしめられたまま。背を向けて寝た筈なのに、いつの間にか、また向かい合っている。寝起きの顔を見られているのだ、と気づいて、突然恥ずかしくなる。おかしいわ。昨日も、一昨日も、寝起きの顔等見られている筈なのに。
「見ないで。」
といって、彼の胸に近づいて、顔を隠す。
「嫌だ。」
と返って、彼が無理矢理にわたくしの顎を持ち上げて、視線を合わせようとする。パシパシと互いに片手で応酬し合って、戯れるようにしていると、
「じゃあもういい。」
ふて腐れたような声がして、彼はわたくしの身体に、片足と片腕をしっかりと乗り上げて、しっかりと抱きついた。これじゃあ、まるで子供がしがみついているみたいではなくて?と思って、笑ってしまう。でも、身体の大きさは、わたくしの方が大分小さいから、きっと外からみたら、ほとんど抱き潰されているようにしか、見えないのでしょうけれど。
「起きたくないが、起きなくちゃな。任務の締めくくりだ。ここが、正念場って訳だ。」
本当に嫌々、という声を聞いて、職務には時にジュリアスより真面目なのでは、と思っていたので、意外だわ、と思う。
「いってらっしゃい。」
「ああ。」
笑んで見つめ合って、どちらからともなく、キスをする。
幸せな朝。
ジャケットを着込んで、装備を確認して、身につけ、部屋を出るオスカーを、ベッドから見送ってから、わたくしは、今日の夜にここを旅立つ準備を、何かした方がいいかなと部屋を見回す。
せっかく買ってくれたドレスだけれど、特に持って行きたいものではない。ただ、記念にと思って、靴についていた蒼い薔薇を取り外してポケットに入れる。
そうして、何もすることがなくなってしまった。
ただぼーっとしたり、うつらうつらしたり、部屋に置いてある常備食(あまり美味しい訳ではない乾燥した固形食と、水しか無い。)を摘んだり、一人で今朝や昨夜を思い出して笑ったりして過ごして、やっと日が傾いてきた。
待ちわびた、鍵を開ける音がして、ドアが開き、オスカーが入って、すぐにドアと鍵を閉める。
「夜まで時間があるな。デートって訳にもいかないが。」
オスカーはわたくしの両肩を持って、回れ右をさせると、どんどんと背後からベッドにわたくしを追いやる。追いやられて、ついにベッドに乗り上げて、
「ちょっと、何がしたいの?」
と、非難しながら振り向くも、彼は笑んだまま、肩をどんどん押してくるので、ずるずる壁に背がぶつかる。
「よいしょ。」
と、彼は隣に座り込んで、大きく足を開くと、隣に座ったわたくしの身体を器用に向きを変えさせて、ひょいと持ち上げる。自分の足の間に座らせられ、背後から抱きしめられると、気恥ずかしいなんてものじゃなかった。
「わ、わたくし、ぬいぐるみじゃないわ。」
ギュ、と抱きしめられながら、血が上っているだろう顔を自覚しつつ、抗議すると。
「そんな風に思った事は無いな。」
と淡白な返事。ぐい、と身体を前に倒されて、首筋に落ちるキス。話が噛み合ってない!うぅ、とわたくしは謎の呻き声を発する。
「夜まで僅かだが、ずっとこうしていたい。」
そんな風に言われると、抵抗できなくなってしまう。
「なんだか、ずるいわ。」
「フッ。許されるなら、いくらでもズルくなるぜ。」
首もとで笑われると、くすぐったい。肩を竦めてやり過ごしていると、
「うーん。だが、この距離は危険だな。」
と、身体が起こされて、真面目ぶった声が落ちてくる。
「何が?」
彼の胸に頭を当てるようにして、顎を伸ばして上を向くと、大きな身長差のお陰で、下を向く彼と目があった。
「何が?と来るか。本当に残酷なやつだな、君は。」
「・・・・?」
怪訝さを隠さず見つめ返すと、彼は私を抱いたまま、小さく肩を竦めるような仕草をした。
「オーケー。はっきり言おう。君を裸にして、俺も裸になって、抱き合ったり舐め合ったりしたい。これでいいか?」
明け透け過ぎる台詞にボッと一気に顔が赤くなる。
何も言い返せずにいると、今度は少年のように悪戯っぽく笑われる。
「もっとはっきり言った方が?どこを舐め合いたいかというと・・・」
「ケッコーです!」
わたくしは、吐息を使って、けれども、ほとんど叫ぶような口調で言って、くるりと身体を反転させて、彼の唇を両手で塞ぐ。
「だが、ここじゃ無理だ。俺が我慢できそうにない。」
チュ、と唇を尖らせて、彼がわたくしの掌を取り、口づける。我慢できそうにない・・・?我慢する、じゃなくて?疑問符が顔についていたのか、
「声とか、音を。」
と、真面目な視線がわたくしを見つめる。一瞬、意味を取りかねて、頭の中で考える。『俺が我慢できそうにない。』『声を。』組み立て終わって、へにゃへにゃと脱力する。
この人はなんて馬鹿なんだろう、と本気で思った。
「誰にも聞かせる訳にはいかないからな。だから、こうして。仕方ない。『お話』でもするか。」
もう一度わたくしを背中から抱き直し、仕方ないという割には、やけに嬉しげに彼は言った。守護聖達の情報を集めるために、『お話を聞かせていただきたいのです。』という、奇妙な『お願い』を繰り返していた女王候補時代のことを言っているのだろうとすぐに分かる。
「なんのお話を聞かせて下さいます?」
わたくしは、笑って問うた。
「そうだな・・・。」
懐かしそうに目を細めて、あれこれ話す彼の落ち着いた声を、背中越しに聞く。
美味しくない固形食を摘んで空腹をやり過ごしながらの、楽しい時間はアッという間に過ぎて。
やがて、夜中がやってきた。
彼は、前に両手を出すわたくしに、手錠をかけ、わたくしが着て来たジーンズとTシャツの格好の上から、全身がすっぽりと隠れる黒いフードを着せる。
「さて、脱出と行くか。」
「ええ。」
言いながら、表情を硬くする。『死んでもいい』なんて、もう思えなかった。『なんとしてでも、生きて帰る』と思った。そして、何故か心は落ち着いていた。
オスカーと一緒だからかもしれない。
姿勢を正して、まっすぐオスカーを見上げると、オスカーが、
「フッ。いい面構えだ。」
と、親指でわたくしの頬を撫でる。褒められているとは思えないけれど、貶されたとも思わなかった。
彼は、手錠のスペアキーを、わたくしのジーンズのポケットに入れる。指先で、取れるようになっていた。これで、離ればなれになっても、時間さえ掛ければ、自分で自分の手錠をなんとかできる。
「じゃあ行くぞ。」
手錠の間から伸びた鎖の先をオスカーが持ち、部屋を出発する。夜中というより、もう明け方も近いけれど、カードゲームに興じたり、ゲラゲラと数名で話し合う組織の人達で、共有スペースは賑わっていた。そこを静かに二人で通り過ぎる。
以前、ロイの部屋に移動したときもそうだったけれど、オスカーに声を掛けるものは誰もいない。チラチラ見たり、口笛を鳴らしたりするだけ。
それは、この短期間で、オスカーがこの人達から、十分恐れられていることの現れかもしれない。何事もなく、通った事の無い細い道をズンズンと歩き、いくつかの鍵付きの扉を抜けると。
やっと、建物の外にでた。
ビュゥ、と風が吹いて、少し寒い。そらが白み始めているのか、少しだけ、明るさがあった。
オスカーが立ち止まり、
「ブルーノ。」
と声を出す。出てすぐの路地。建物の壁に背を預けて、ブルーノが立っていた。
「行くのか。」
ブルーノは、壁から背を離し、わたくし達に対峙する。
「ああ。」
と、オスカーは落ち着いた声で答えた。
「そうか。」
ブルーノは、少しだけ、唇の端を上げた。僅かな変化だったけれど、笑った、のかもしれない。
オスカーは再び歩み始め、ブルーノの隣を擦り抜け際、
「お前はどうする?」
と聞いた。
「俺は。敵を、取ってから。」
呟くようにわたくし立ちを追いかける声は、よくは聞こえなかった。
「そうか、急げよ。」
オスカーは呟き返しただけで、構わず、どんどん進む。わたくしは、一度だけ、ブルーノを振り返った。ブルーノは、まるで見送るように、ジッとわたくし達を見つめていた。
殺風景で、やや治安の悪そうな路地をいくつか抜けると、市場に出た。そこで、オスカーは公衆トイレのような建物の陰に入って、わたくしの手錠を外し、フードも外す。うまく、抜け切ったということなのだろう。そこから、オスカーはもの凄い勢いで仕事を片付け始めた。既に動き始めていた地元警察の危険物応酬の段取りの確認や、組織の人間の退路を断つ包囲網の指示。一通り指示だしが終わって、数時間後。この上なく理想的な形でこの案件は閉幕した。
すなわち、被害者ゼロ、件の組織の人間は全て捉えられ、彼等の危険物や薬物の取引のルートも全て、地元警察が管理する事となった。けれど、組織の人間のリストに、ブルーノらしき人物の名が挙がっていない。それに、ロイの名は、死亡者リストに入っていた。
「死んだな。俺も、一発は殴らなきゃ、気が済まないところだが。」
パン、とオスカーは指先でリストを叩いた。
「ブルーノの、名がないわ。」
わたくしが尋ねると、オスカーは肩を竦めた。
「そんなヤツ、居たか?」
わたくし達を見過ごしてくれたブルーノ。何か事情があったのだろうか。
彼とオスカーの間の、裏取引とか?
そんな感じはしなかった。・・・ただ、事情を互いに分かり合っているような、そんな空気があって。
わたくしは、そこまで考えて、笑った。
「そうね。居なかったかも知れない。」

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「おっかえりー!!」
どんな非難をされても構わない、と覚悟を決めて、わたくしはアンジェを尋ねたのに、アンジェは全く気にした素振りもなく。寧ろ、わたくし達の生還はもとより、わたくしが聖地を飛び出したことすら、賞賛する勢いで、わたくし達を迎えた。
荘厳で厳粛な雰囲気の、謁見の間に全く似合わない、彼女の気軽さに、やや力が抜ける。
「報告、結構オスカーから上がってるレポート読んで分かってるつもり。ブルーノさんの特赦も決済しておいてたよ。他に何か報告する事ある?」
ブルーノは、後から聞いたのだが、家族をロイの組織に殺されて、復讐のためにあの組織に居たらしかった。
「いいえ。差し支えなければ、本日と明日、私と女王補佐官殿に、休暇を頂けると有り難いのですが。」
間髪いれずに、オスカーが一息で暇を乞う。非常識だわ、とわたくしは思わず眉根が寄る。わたくしに至っては懲罰があって当然だというのに。
「勿論どうぞ!ただ、一応オスカーは成果報酬として休暇で、ロザリアは自宅謹慎ってことにしとくね!オスカーがロザリアの家に行くのはいいけど、ロザリアがオスカーの家に行くのは駄目ってこと。いい?」
「十分です。」
わたくしの全く分からない所で、話がどんどん勝手に進んで行く。
「あの、アンジェ・・・。」
わたくしは、このままではいけない、とやや強引に口を差し挟む。すると、
「うーん。私、こう見えて、今回の件で、色々疲れてるんだよね。話なら後にしてくれる?とりあえず、オスカー、帰って来たばかりで悪いけど、ロザリアが謹慎処分なので、家まで送り届けて欲しいの。駄目?」
「喜んで。」
また勝手に話が決まって行く。アンジェがそれほど疲れているようには見えない。心配をかけたのは確かにわたくしが悪かったけれど・・・。何から言おうとまた口を開こうとすると、オスカーがわたくしの両肩を強引に掴んで、くるりと向きを変えさせる。
「では、オスカー。責任を持ってロザリアが謹慎に入る事を見届けます。」
「よろしくー。」
背中越しにやりとりするという実にオスカーらしからぬ無礼な態度を取って、わたくしを背中からドンドン押し、謁見の間から、ついに追い出す。
「もう!なんなの!」
わたくしが、アンジェとオスカーの結託しているような様子に、どうにも納得がいかずに振り返って声を荒げると、オスカーは大袈裟に肩を竦めて、フゥ、と役者ぶった仕草で溜め息を吐いてみせる。
「困った補佐官だな。君は。」
「・・・・。」
自覚はあるので、それを言われると痛い。
「陛下に相談も無く、単独で危険行為に及んだ君に、謹慎処分と陛下が仰せだ。俺は休暇に入りがてら、君を部屋に送る。何か問題が?」
「ない、わ・・・。」
くしゃ、と彼の手がわたくしの髪を撫でた。
「陛下の心遣いさ。有り難く頂戴しよう。」
呟くような声は、何故か笑みを含んでいる。心遣い・・・?理解が及ばず、訝しむように彼を見上げると、彼は参ったな、と呟いて、自分の顎を撫でた。
それから、また役者ぶった仕草で、徐に口を開く。
「そうだな・・・。ここで口にするのは憚られるが・・・。」
「ナッ!何も言わなくていいわッッ!!」
慌ててわたくしは裏返った声で静止する。
「そうか。分かってくれたなら良かった。」
彼はわたくしの腰を抱いて、歩み進める。
「あの、オスカー。恥ずかしいわ。」
「そうか?出張で体力的にお疲れの補佐官殿を支えながら歩く仕事熱心な守護聖だが。」

―そんな風に、見えないと思うけれど・・・。

ニコニコと機嫌良く隣を歩く、炎の守護聖を見やる。
子供扱いされるのが嫌だと思っていたけれど。意外と子供なのは、この人の方なのかも知れない。
宮殿をなんとか抜けて、馬車に乗り込む。やっと二人になると、さっきまでの騒がしさが嘘のように、沈黙が落ちた。
窓に肘を付いて、オスカーは窓の外を見つめていた。わたくしはその横顔を眺める。カフェの側を走り抜けるとき、オスカーがやっと口を開いた。
「庭園のカフェで、君と俺の故郷の話をしたことがあったな。」
『俺の故郷では、秋になると一斉に、辺りの楓が色づいて、やがて茜色の絨毯を作るのさ。』
その時の彼の顔を、ありありと思い出して、わたくしは答える。
「ええ。」
「あのとき、君は、『それは美しいのでしょうね』と返した。俺は思ったんだ。俺の故郷の茜色の絨毯は、もうない。それと同じように、俺が今更君に恋をしても届かない、と。」
わたくしを見つめる彼に、わたくしは返す。
「あのとき、わたくしは、酷く悲しかったのですわ。」
「悲しい?」
「理由は、分かりません。ただ、その時の貴方の笑顔が、とても悲しくて。」
「そう、か。」
それで、心地よい沈黙を数えながら、わたくしは、燃えるような茜色の絨毯を歩く、わたくし達二人を想像した。
あの時は、きっとオスカーの言うそれは、わたくしの見た美しい茜色とは、比べようもないのだろうと、思った。

・・・けれど。

「主星にも・・・わたくしの故郷にも、美しい茜色の絨毯は、あります。」
「君の実家の領地にか?」
「ええ。そうです。」
「それは、いつか行ってみたいな。」
「ええ。行きましょう。」
彼は、いつだったかのように、薄く瞳を伏せて、笑った。
なのに・・・、わたくしはその笑顔を見て・・・。

『暖かい』と思った。


終。




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