知的好奇心というのは、恐ろしいもので、純粋なもので、そして何故か・・・いや、だからこそ?
美しいものだ、と思う。
生まれ備わった、ヒトの欲望。
幼子が「不思議」と思うとそれに吸い付けられるようにして目を輝かす、その情動を、知的好奇心と言う。
生得的なその欲望を、ただ何も考えずに凝縮したら、こうなったというような男が居る。
それがルヴァだった。
聖地に来たばかりの頃、私にここでの過ごし方を控えめな口調でレクチャーした男。
それなりに長い付き合いになった今でも、無遠慮なのか思慮深いのか、さっぱり分からない、この男。
そして、何より、自分の内的な・・・知的好奇心に忠実で有り続ける、この男。
一体全体、アンタの何に惹かれたんだったか。
もう、分からないよ。
・・・ルヴァ。
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「まあ順当ってやつか。」
夢の守護聖は、そこで一度、唇を結んだ。
「聖地に来てから、大分とあんたには世話になったよね。でもってジュリアスと犬猿の仲とか似なくてもいいトコまで似てさ。結構うちらっていいコンビだったと思う訳。こないだの出張なんかさ。・・・・・で。なんか、言うことない訳?」
それから一気に早口で言う。
『この部屋って埃っぽくてやってられないよ。もう少しナントカならないの?!』と来る度に怒っている彼は、けれども守護聖になってからの長い期間、この部屋に通い続けてくれていた。彼が来る度に、私は庇のあるテラスに(日に焼けても問題の無い写本や量産本だけだが)書を持ち出し、何度も二人でお茶をした。
そうこうする内に、やがて、私と彼は、互いの寝室を行き来する仲に発展した。
私が『興味がある』と言い出したのが契機で、彼はそれに軽く応じたのだ。そう、極軽く。だから私は勘違い等しないのだが・・・。
「えーっと、まぁ。もし私の後片付けを手伝って下さるのでしたら・・・。」
私は彼の早口に困惑しながら応じたが、話の途中で、バンッ!!と、言いかけた私の言葉を遮るように、凄い勢いでドアが閉まった。積み方の悪かった書籍がバラバラと崩れる。やや途方に暮れて、自分の肩を叩きながら端末に移動する。
新たな守護聖への引き継ぎが済んでからというもの、私の研究に関するメール以外の、職務に関するメールはぱったりと止み、私のメールボックスの受信は一日に一通あれば多い方となった。この日も何も来てはいなかったが、長年の癖でつい一日に一度は開いてしまう。
勘違い等しないのだが・・・勘違いしてしまいそうになる。彼も、私の退任を惜しんでくれていると。いや、惜しんではくれているだろう、私と彼の関係はベッドのことを抜きにして、良好だったのだから。
ロザリアに、研究関係のメールがまだこちらに来るかもしれないので、外に出てからのアドレスに転送をお願いする旨のメールを書き送って、パタン、と端末を閉じた。部屋を見渡して、果たして徹夜でも片付け終わるだろうかと途方に暮れた。
「えー、まぁ。なんとかなりますよぉー。ええ、ええ。」
私は自分を自分で励まして、トントン、と腰を打った。
翌日。
なんとか一人で片付け終えて、聖地を出た。見送りに立ち会ってくれた同僚達の中に、彼の姿はなかった。
門をくぐってから、やっと彼を思う。
確かに好きだった。彼の明るい金髪も染めた前髪も。私と似た色の瞳も、対照的な豪奢な睫毛も。彼と共にある空気も。
最初に、彼に恋情を抱いてしまったと自覚したのは、とある出張の時だった。私と彼は、ある惑星に赴いて、共に彷徨う魂を鎮めるために、サクリアを送ったのだ。
サクリアを送るその時、彼は長い睫毛を伏しがちにして、瞳から焦点を失い、両手を前に緩く突き出す格好だった。執務服ではなく、白い装束に、金をベースに、緑や赤、黒や茶の、艶やかな織の入ったベルトを肩から腰に斜めに巻いて、更にそれがどのような結びになっているのか、腰を一周して膝までダラリと流れていた。夢のサクリアを送る数瞬。地面からまるで風が沸き起こるように、彼の衣装と、金髪と、色づいた前髪を舞い上げ、それはそれは美しく、荘厳で、圧倒的だった。
そして彼は、「おやすみ。」と確かに呟いた。
私が一通りの儀式が終わってから、その事を指摘すると、彼は「そんなこと言ってないよ。」と笑ったのだが。
私は密かにそこで悟った。
夢のサクリアとは、終焉のサクリアではなかったか、と。ヒトは眠りに付く時に、一度死に、そして目覚める時に復活するという、とある理論を思い起こしながら、私は『夢』とは、死に至るそのプロセスの最後に、優しく添えられる何かではないのかと。そして、その『夢』はヒトが目覚める(再び生まれる)と同時に、未来への志向性を伴って引き渡される。
魂の記憶とでも言うべき、何かではないかと。
そう思い至った時には、既に恋に落ちていた。その時既に、私と彼は、同僚という以上に、友情のような感情は共有していたので、私はそれを自分の恋情によって失うことを恐れ・・・けれども、好奇心や情動を抑えられず、私はとても姑息な方法で彼と肉体関係を結んでしまった。興味があるというのは、決して嘘ではなかったけれど・・・。
彼はとても聡いので、恐らく私の気持ち等、幾夜も過ごさぬうちに読み取っていただろうとは思う。けれど、私も彼も、ソレを指摘することはなく、ただ、日中の友情と、夜の関係だけが続いた。
なんとなく、彼が私の気持ちを好意的に思っているのではないか等と、都合のよい事をと考えたこともある。だけれど、もし、仮に万が一、そうだったとしても、どうにも、先がない。彼には明るい未来が似合うと思う。私と彼はどちらかがいずれサクリアを失い、離ればなれになる運命で・・・そんなことをぼんやりと考えているうちに、私のサクリアは減衰し始めた。
考えないようにしていた彼の事を思い始めると途端にせんない後悔が押し寄せてくる。
せめてこの想いを言葉で告げておくべきだったろうか?せめて心置きなく、昨日の書斎で、彼の手を握って、抱きしめておくべきだった?・・・クスッと自嘲する。
こうなると分かっていたから考えないようにしていたのだった!
「一人は、良いものですよ。」
と、自分に言い聞かせるように言ってみる。唇から紡ぎ出した言葉は、思ったより、ずっと空虚に空に吸い込まれてしまった。
「あー。困ったものですねー。」
誤魔化すように私は言い添えて、晴天に向かって大きく伸びをした。それでも、生きていかねば。幸いなことに時間は沢山あり、まだまだ知りたいことが私には沢山あるから。
どこか辺境の惑星にでも移住しようと思っていたのに、結局、自分の知的好奇心を懐柔することを断念し、様々なリソースにアクセスしやすい主星の・・・それでも大分郊外に新たな居を構えた。まずはそこに移動して、僅かばかりの荷物を解く。持ち出す事が許可された書籍類は、後でまとめて届けられることになっていた。
随分、守護聖の待遇に知らぬうちに慣らされていたものか、事前にロザリアに手配されていた屋敷の引き渡し人と落ち合うのにも苦労したが、なんとかキーを手に入れて、屋敷に踏み入る。木造の平屋建ては、一間は「畳敷き」という私がある惑星でいたく気に入った設えで『和室』と呼び、寝室を兼ねる。一間は書斎、そしてリビングとダイニングとキッチンが一体化した部屋の計三部屋。ただし、和室以外は少し贅沢な面積になっており、天井も高い。壁面を使って書籍の収納がしたいからだった。早速背負って来た荷物を『風呂敷』から開けてみる。
まずは、ゼフェルから渡された電気式のケトル。これには何やらよからぬ機能がついていて、私がこのケトルを使っているかどうかが聖地のゼフェルからモニターできるという品らしい。
「一人暮らしのジーさんが勝手におっ死んでないかとかをモニターするために開発されてる量産品を俺様の才能で改良したモンだぜ。」
と素っ気なく渡されたのだが、相変わらずの言い様に苦笑して受け取るしかなかったのだ。他に、カティスの手によるワインが一本。これはマルセルから。あれほど、聖地の遠慮ない酒飲み達・・・オリヴィエ、オスカー、クラヴィス、ジュリアス・・・が空けているというのに、まだ残っていたのかと驚きを隠せなかったが、有り難く受け取った。オスカーからは「アンタに本っていうのは流石にどうかと思ったんだが」と、出張先で見つけたという商用ルートに乗っていない小説が一冊。道中あっという間に読み終わってしまったが、とても興味深い短編小説を編纂したものだった。これは大切にリビングに置いておき、繰り返し読もうと思う。クラヴィスからは、細かい模様が植物で編み込まれた栞。今は何の香りもしないけれど、段々と香りが滲んでくるもので、虫除けにもなるからお前向きだと言われた。ジュリアスからは、日頃の関係性の悪さから、贈り物はない。ただ、執務室を最後に出る時に、わざわざ私の執務室に足を運んでくれ、「世話になったな。」とボソリと言われたのが印象的だった。ランディは私の少し前に退任したのだが、彼が退任時に私に「身体を動かさないと老後が大変ですから」と、掌の中で握ると筋力をトレーニングできる小ぶりの遊具を渡されたので、それを持って来た。そして新任の風の守護聖からは、「ゼフェル様のお勧めで」と、煎餅の詰め合わせ。リュミエールからは、レコードプレーヤと彼の手によるハープとピアノのレコード。そして長く愛用してきた自分の湯呑みと急須、気に入っている茶葉。機能はそれほどないが、調べ物と書き物をするには十分な性能の情報端末。安価なノート一冊と、ペンが一本。意外と重たかったのだな、と荷物を下ろしてみて気づいた。リビングのテーブルに広げてみると、そこに自分の聖地での時間が濃縮されているようだ。
ケトルやレコードプレーヤをリビングやキッチンにセットして、ワインセラーはないので、キッチンのカウンターにボトルを飾った。いつか、特別な日に開けようと思う。
水道も電気ももう来ているので、早速湯呑みを洗って、電気ケトルを『玉露』と書いたボタン(他に、『ほうじ・玄米茶』『煎茶』『上煎茶』がある)でセットして、湯を沸かす。「お、もう着いたのか。」と聖地でゼフェルが笑っているのが目に浮かぶようだった。
「ふふふ。」
と一人笑いながら、茶器を温める為に湯を注ぎ、一度捨てる。茶筒から茶葉を取り出し、急須にセットして、ケトルから新たに湯を注ぐ。緑茶の香りが、フワリと味気ない空間に広がった。じっくり抽出してから、湯呑みに注ぐ。思い立って、和室に煎餅を詰め合わせた缶と、湯呑みを持ち込んで、備え付けの家具の『ちゃぶ台』に置いて、『座椅子』に腰を落ち着け、『縁側』越しに庭を眺めた。小さく、とても美しい庭。聖地の私邸とは異なる風景に、何故か、胸が一瞬詰まる。
「静か過ぎる、と思うのは、少々傲慢でしょうかねぇ・・・。」
フゥ、と両手を温めるように湯呑みを持ち上げ、その中に息を吹きかける。書が来るまで、どうやって過ごしたものか分からず、釣り糸でも垂らしているつもりで、庭を眺め続けるのも良いかもしれない、と思う。
『だから趣味の一つでも見つけろって言ったじゃないのさ!』
不意に、華やかな声を聞いた気がして、リビングを振り返るも、そこにはガランとした空虚な部屋。ふふふ、と自嘲して、
「趣味ならありますよ。緑茶を飲む事、釣りをする事・・・色々とね。」
と、答えて湯呑みの中身を啜る。
いつか、気持ちを振り切らなければと思っていて、それが我ながらの諦めの悪さで、ズルズルとしてしまっていた。寧ろ、これは良い機会だったのかもしれない。彼と、私の時間は断絶され、これからもう二度と、交差することはない。彼の明るい未来を、私は想像する。社交性の高い彼ならば、退任後にパートナーを得る事は容易いだろう。きっと彼の容姿に似合いの、美しい女性を見つけるに違いない。彼の退任時の年齢は定かではないが、今のような若者のままでなかったとしても、壮年でもきっと子供くらい作るのかも知れない。
・・・無責任な夢を見ていると、ふと気づいて、また自嘲した。また彼の声。
『恍けているようで、時々、滅茶苦茶暗いっていうか、ネガティブだよね。アンタってさ。・・・根暗の代名詞、クラヴィスなんかじゃ、追いつかないくらいに!』
あの非難には、どう答えたのだったか。彼の指摘は、いつだって人の図星を付いていて、だから受け止めるのに苦労する。きっと私は誤摩化したに違いない。
「なーに、ボーッッとしちゃってンのさ!全くもー!!暗い!!暗過ぎるっツーの!!」
ますますハッキリと幻聴を聞いて、私は音を伴って湯呑みに苦笑した。
「ふふふ。まるで、本当に彼が居るようですねぇ。私の業も相当の・・・。」
思わず大きな声で独りごちたのだが、途中で目の端に、金髪を捉えた気がして、顔を上げる。
果たして、そこに、綺羅綺羅しい夢の守護聖が居た。
パチ、パチ・・・と、私はゆっくりと二度瞬く。縁側に腰をかけ、こちらをニヤリと見やる夢の守護聖。緩やかにウェーブした金髪も、派手に色づいた前髪も、彼そのものでしかあり得ない。
はて、幻聴だけでなく、幻視まで・・・?
思って、ゆっくりと自分の頬を抓るが、痛みを感じて、もう一度、ゆっくりと瞬く。
「ひゃ、ひゃーーーーー!!!」
素っ頓狂な声が上がって、胸に緑茶をひっくり返し、木の平天井を見つめる。座椅子ごとひっくり返ったのだと遅れて気づいた。
「チョット、アンタって人は!!なにやってんの!!」
子供を叱りつけるような声の後、にょきりと私の視界に横から顔を出す、オリヴィエ。
震える人差し指で、美しく化粧の施されたその顔を指差し、
「お、お、お、オリ、オリ・・・ッッ!!」
裏返った声で名を呼ぼうとするも、叶わない・・・そのうちに、するりと白く細い指が、私の震える指先を包み込む。
「そ。オリヴィエ様だよ。アンタの大好きな、ね。」
ウィンクと共に、もう片方の手が、ツン、と私の鼻先を突いた。もう二度と、感じることができないと分かっていたから、別れ際には触れなかった、暖かな彼の手の感触。
驚きに滲み出るようにして、ゆらりと視界がぼやけ、つ、と一筋、頬を伝う。
そう、私の、大好きな・・・。
オリヴィエが私を座椅子ごと元の姿勢に戻してくれ、一度ニンマリと笑ってから、後ろ髪をばさりと風を通すように両手で一度持ち上げ、
「で?アタシの分のお茶は?」
等と言う。少しばかり首を傾げているその姿は、少しばかり意地悪だと思う。
私は、
「今、お淹れしますよー。ですが、オリヴィエ・・・。」
言いかかった私の言を遮り、
「話は後々!!いいから行った行った!!」
シッシッ、と右手を振られる。私はウーン、と謎の呻き声を発すものの、リビングに追い出されてしまった。先程と同じように、お茶を淹れようとして、急須はともかく、湯呑みが無いことに気づく。そうか、来客の事を考えていなかった・・・と思ったが、視線をやった食器棚には、いくつかの食器が用意されている。家具と同じく、ロザリアが気を利かせて備え付けてくれたものだろうか、と思いながら、そこから湯呑みを一つ拝借して、茶を淹れる。
和室に戻ると、彼は縁側でサンダルを脱ぎ、子供のように裸足をぶらぶらさせていた。自分の分の湯呑みも持って、彼の隣に腰を下ろし、「どうぞ。」と彼に湯呑みを渡す。
「フフッ、良い香り♪・・・ンー。ギョクロ、だっけ?アンタの淹れたこれだけは、本当に最高!」
そういえば、普段に飲むのに玉露は適さないと知り、煎茶を好んでいたのに、彼がこういうので、普段から玉露ばかり飲むようになったのだと思い出す。
「ふふふ。」
と合わせて笑ってしまう。暫くそうして、爽やかな風に当たっていて、不意に、
「あー、そういえば。『話は後』と貴方は言いましたね。一体全体、どうして貴方がここに?」
本題を思い出して、聞いてみることにした。彼は、美しい睫毛を伏しがちにして、庭を見たまま、
「そうねぇ。主星の中では頗る遠いトコに越してくれちゃったけど、会いに来れない訳じゃない。だからさ。」
遠い、昔話を思い出すような口調。私は笑った。
「あっはは。それはあんまり感心しませんねぇ。ジュリアスがまた怒りますよー?」
首を傾げて彼を覗き込むようにすると、予想外に、彼は切なげな表情で私を見やる。
「また・・・戻っちゃう訳。」
色づいた唇から漏れ出るのは、落胆したような、小さな呟き。私は、キュ、と胸が押さえつけられるような、息苦しさを覚える。
「戻っちゃう・・・?」
ほとんど無意識に繰り返す私に、
「んー。参ったねぇ。」
彼はまた庭を見て、笑った。縁側に置かれた緑茶をもう一度取り上げて、彼は啜る。
「じゃあ聞くけどさ。さっきは、何で泣いた訳?」
笑顔で宣ってから、彼は自分の右目を指差して、私を振り向く。彼の優しく垂れた目尻に当てられる、美しい指先。今日は綺羅綺羅と細かく光る、淡いピンクだった。
風が少し強く吹いて、彼の金髪を弄び、彼は戯れるように髪を掻きやる。それで私は、自分が沈黙していることに気づいた。
―――何故、泣いたのか。
「私には、答える権利が・・・ありません。」
ポツリ、と言って、下を向くと、
「だーーーーー!!!!もーーーーーーー!!!!」
両手を上に向け、何かを掴むようにワキワキと彼は苛立つように開閉する。この先、彼の望む対話を続けられる自信がなく、ますます私はいじけるような気持ちになってしまう。
「アタシに、婉曲表現とか期待しないでよね?アンタとジュリアスとか、リュミちゃんとクラヴィスじゃないんだから、隠喩使ってイヤミったらしいやりとりなんか、できやしないんだからさ。」
オリヴィエは一気に言うと、
「アタシは、アンタとちょっとでも一緒に居たいと思ってる訳。だから、アンタが退任しようが、会えるうちは会いにくるよ。で、アンタは?」
畳み掛けるように問う。私は、ツン、とまた鼻が詰まったような感覚を覚えた。
「わ、私・・・は・・・。だ、だって、オリヴィエ・・・。」
年甲斐も無く、咽ぶように泣いてしまう。だってオリヴィエ、私は・・・。
「・・・言わなきゃ分かんないよ。いつまででも待つから、言葉を補って。」
優しく目を細めるオリヴィエ。どうしようか。どうしようか。もう、ここにあるもの総てを、彼にぶちまける事が許されているのだろうか。本当に?・・・本当に?
いつの間にか、どこから探し当ててきたのか、オリヴィエが美しい刺繍の施されたカバー付きのティッシュボックスを私の横にポン、と置く。私は遠慮なく、ブビーと音をさせて鼻を噛んで、スン、と一度鼻を啜った。
「時々さ。アンタの鈍さって、なんていうのかな、質が悪いよね。そーゆーとこ、オスカーに似てる。」
思いもかけない人物の名が出て、
「えぇ?」
またも頓狂な声を上げてしまう。確かに、私の鈍さは酷く罪深いものであることは、時折自覚するのだけれども。しかし、それがオスカーと同種とは?
「ふふ。分かんないよね。えーっとねぇ、だから、アンタが頓着しないところで、意外と皆、アンタの事を思ってるってことさ。大切にされてる。アンタが思うより、ずっと。」
「私は、皆に大切にされていること、理解しているつもりですけれども・・・。」
「だから、思うより、ずっと!って言ってるじゃん。」
キッパリというオリヴィエは、更に続ける。
「だから、良いんだよ。アンタは、アンタの思うままに振る舞えば。何も、胸に閉じ込める必要がない。何故なら、そのままのアンタで、皆は受け止められるように準備しているから。なのに、アンタが思ってることを言わないっていうのは、ある種の傲慢だとは思わない?」
真摯な言葉は、けれども歌うような口調。
「勿論、アタシもね。」
言い添えられて、私は、ジッと彼を見つめた。それから、スゥ、ハァ、と両手を使って大きく深呼吸する。それで、覚悟を決めて、ターバンをゆっくりと取り、自分の隣に畳んで置く。それから、彼の両肩に手を置いて、一度目をギュッと瞑ってから、開いた。長い睫毛に縁取られた、美しいダークブルーを見つめる。
ドキン、ドキン、ドキン、と喉で心臓が鳴っている。
「オリヴィエ。貴方が、好きです。」
意を決して、唇を開く。ぱちくり、とオリヴィエが瞬いた。それから、ゆっくりと蕩けるような笑顔になる。
「やーーーーーーっと言った。アッハハ。」
首を傾げてケラケラと笑い始めるオリヴィエに、ちょっぴりいじけた気持ちになる。両肩から手を外し、鼻先を掻いてしまう。
「人が・・・真剣に・・・。」
「だってさ。」
目尻に指を当てて、それからオリヴィエは私を正面から捉え、
「アタシも。」
と一瞬だけ真剣な顔で言ってから、すぐにまた笑顔になって、チュ、と顔を傾けてキスをする。極軽いキス。けれど、一瞬の真顔が、冗談ではないと告げられたようで、私はカーーーッと頬が紅潮するのをどうすることもできない。
それから、彼は私をまっすぐに見つめて、私の両頬を両手で挟み込むようにして、子供に言い聞かせるように、告げる。
「ねぇ、ルヴァ。アタシとアンタは、たった今、両想いってことになった訳。だけど、アンタは退任して聖地の外、アタシは普段は聖地の中で過ごす。だからね。きっと、アンタはすぐに絶望する。だけど、覚えてて。今、アンタの想いが、ここに届いて。」
オリヴィエは、片手を離して、自分の胸を指差し、
「アタシの想いが、アンタのここに届く。」
その指先を、私の胸に当てる。それから、もう一度、私の両頬を包んだ。
「それが、これからも・・・限りはあるかもしれないけど、何度も続く。オリヴィエは、それで十分幸せなんだって。それが、とても幸せなんだって、覚えてて。」
コツン、と額と額がくっついて、オリヴィエが瞳を伏せる。
じんわりと伝わるのは、互いの体温。もはやタダのヒトとなった私と、守護聖のままのオリヴィエ。なのに、互いの体温は、ヒトとヒトのそれだ。それが、嬉しくて、けれども切なくて、私は縁側に両手を付いたまま、また泣いた。私はなんと素晴らしい男を好きになったのだろう。そして、その素晴らしい男は、何故私を選んでくれたのだろう。それが嬉しくて、ますます泣けた。
私の涙を、オリヴィエの繊細な指先が拭い、
「聖地を出る時は、涙一つも零さずに、仏頂面のままで出て行った癖に。アタシ、すっごい腹立ったんだから。」
クスクスと笑いながら、目尻にキスを落とす。紅くなっていることを自覚しながら、私は片目を開ける。愛しげに私を見つめる、ダークブルー。
「えぇと・・・・。ごめんなさい。」
まるで子供の謝罪だ。ますます所在を無くし、耳まで熱くなってきた。
「いいの。いいんだ。・・・ふふ。アンタのどこに惹かれたんだか、もう分からない。だけど、アンタの、そういう訳分かんないトコで強情なトコもさ。アタシ、多分、好きだから。」
ボッと極めつけの音がするようだったが、私はそれを隠すように、彼に顔を近付ける。少し傾けて、彼と唇を食む。また、きっと口紅がついてしまったのだろうと思いながら、けれども、それを舌でいっそ拭い去ってしまうように。彼の口が開いて、熱い舌が絡まり合う。いつの間にか、縁側で、彼を押し倒すような格好になっている。裸足の彼の両足が、私の腰に回る。私は両手を突っ張るようにして、彼を見下ろす。
「ここじゃ痛いな。せめて、タタミに移動しないかい?」
これ以上無い程に垂れている彼の両目は、こんなとき、無邪気なのか、妖艶なのか、よく分からない。私は、
「ちゃんと布団を敷きますよ。ただ、もう一度だけ。」
生真面目に返してから、もう一度だけ・・・彼の唇を深く深く、味わう事に専念した。
おそらく、私は彼の言うように、すぐに絶望するのだろう。年を取らぬ彼と、止まっていたかのような年齢を、急速に重ねる自分との間で。それでも、彼は言ってくれたのだ。
『それで十分幸せ』と。
『それが、とても幸せ』と。
だからきっと・・・。
私は何度もそれを思い出して、彼に会う度に幸運と幸福を噛み締めるに違いない。
「ルヴァさん?今日も草むしりですか?精が出ますねぇ。」
隣人に言われて、笑って応える。
「ええ、ええ。時折、孔雀が訪れるのですよー。ですから、縁側だけは、入りやすくしておこうと思って。」
「孔雀?」
怪訝な顔に、首から下ろしたタオルで額を拭う。
「ええ。それは美しい、孔雀です。」
いつか来る、私の終焉にも、きっと彼はとっておきの夢を用意してくれるに違いない。
それで私は、いつか彼に、『おやすみ』と言われるその瞬間まで、きっと笑って過ごすのだろう。
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最初はこんな堅いモンで寝るのかい?と思って止まなかった、この寝具にも、アタシも大分慣れてしまった。外に繰り出すのは御法度だけれど、なんだかんだで結構な頻度でアタシは外に出てる。元々そうだったけど、ほとんど毎週。変わったのは、酒場じゃなくて、和室のある家に泊まってるってこと。
飽くなき探究心で、この男は話題にしろ、夜のことにしろ、アタシを飽きさせる事が無い。今日は『体力の差に配慮した方法を試そうと思います』と生真面目な顔で提案されて、随分翻弄されてしまった。
庭から聞こえるのは、リーリーリー、と聖地では聞く事の無い虫の声。
浴衣というらしい、この男の好む寝間着をはだけたまま、アタシは縁側で片膝を立てて耳を澄ます。
リーリーリー・・・
キュキュキュ・・・・
リーリーリー・・・
もうきっと、数回しか残されていない逢瀬。それでもいいと思った。
いつまでも、子供のように、目を輝かせては知識を貪る控えめで強欲な男と、畳の香りと満天の夜空と虫の声。
ああ、今日もアタシは幸せだ。
終。