大地が渇望するもの。光が慈しむもの。




砂漠の夜はとても冷える。それは孤独の世界。冴え冴えとした空気に、何処までも続く砂の丘。月や星の光が鋭く突き刺さってきます。
そう、夜の光は私の精神を脅かし、昼の光は私の生命を脅かす。

けれども、なんという皮肉。

ヒトは光なしでは居られず、それでも尚、美しいと言って大地からただ、見上げずには居られぬのです。
それで多分・・・。ジュリアス、私は・・・。
そう・・・もし。
もし、私がその名の通り「地の守護聖」なのだとしたら・・・。

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会議が終わり、二人、ジュリアスの執務室で立ち話をしていた。
ジュリアスに珍しく、意見を求められたからだった。
議題は昔・・・、そう、私達がまだ未熟だった頃に、バランスし損ねたサクリアが、長い刻を経て、少々の問題となっていた。
だからだろうか。それとも、珍しく二人になってしまったから・・・?
酷く、昔を思い出して。
それで、沸き上って来たモノを、珍しく胸中に仕舞う事に失敗した。
「昔、『よく知らせてくれた』と貴方は言った。結果は惨憺たるものでした。私も貴方も精神的に未熟で・・・。今よりももっと未熟で・・・。私は、あの時の私を、彼処に置き去りにしてきた。置き去りにしてきたんですよ、ジュリアス。この意味が分かりますか?」
何を言っているのだろう。
自分でも良くわからない。
そしてジュリアスは常のように的確だった。
「私に分かるのは、お前が気に病まずとも良いことを病んでいるということだけだ。」
「事も無げに言うのですね。」
淡白な返事に、少しばかり苦笑する。知らず、唇の端に力が籠る。
「はっきりせぬな。何が言いたい。」
「言いたいことなど・・・何もありませんよ。ジュリアス。私はいつだってそうでした。」
ふ、と諦めに似た溜め息。
「嘘だな。」
きっぱりと私を見返す群青色の彼の瞳。光。確かに其処にある、光。
スタスタと距離を詰めて、私は彼を見上げる。
「貴方はいつでもはっきりとしている。時折、目を開けていられないくらいに。知っていましたか。地の精霊グノームス。或いは智の精霊グノーシスは、地中で暮らすそうです。生来、光が苦手なのですよ。」
誰を追い詰めたがっているのか。
私はもしかして、酷い事を・・・?
「ルヴァ。」
小さく顔を振って、何か諦めたような声音。ジュリアスは、それまでの凍てつく雰囲気を一変させ、まるで道に迷った幼子のような、困りきった顔で、私を見た。
そして、問う。
「私を・・・・・・。恨んで、いるのか?」
ズルい。そんな顔を、貴方がするのはルール違反ではないだろうか。私はジュリアスと同じく途方に暮れる。

何故・・・。

とうとう私は返す言葉を失い、彼への距離を一気に詰めて壁へと追いやる。彼の顔のすぐ側、壁に手をついて彼の袖を強く引き、視線の高さを無理に合わせる。
自分らしからぬ、物騒な振る舞いだと思う。どうして、私はジュリアスを追い詰めたがっているのだろうか。けれども、置き去りにしてきた私が、ジュリアスに悪さをしたがっている。それはきっと確かなのだろう。
「ジュリアス。恨んでなどいません。」
群青の空に浮かぶ光。
見上げるしかできない。ソレ。
「ただ、私が後悔している、この気持ちを、あなたに少しばかり、共有して欲しいだけです。」
私は淡々と告げる。おそらく光の灯らない瞳で。ジュリアスの眉が、居心地悪そうに寄って、私を訝しんでいる。
「後悔?なに・・・ン・・・。」
何をだ、と続く予定だったろうか。私は唇を塞いで彼の言を遮る。驚きで見開かれた群青色の瞳と金色の睫毛に、少しホッとする。
オスカーはこうされるのが好きだったけれど、果たしてジュリアスはどうなのだろう、と小さな仮説を立て、ジュリアスの上顎を舌先で軽く掠める。
ガクン、と膝が抜けて、袖を引いていた左手を彼の背に回す。私が支えなければ、倒れてしまうのではないか、と思うくらいに体重を預けられる。
濃厚な口づけに水音が鳴る。
調子に乗って二度三度と擽ってから、ゆっくりと舌を抜いて、彼の唇の上をグルリと仕上げに撫でた。
ピク、とそんな小さな動きにまで反応するジュリアスは、サービス精神が旺盛なわけではないだろうから、単に身体感覚が敏感なのだろうと私は仮の結論を下す。
「今日はここまでにしましょう。」
私は珍しくキッパリと、彼の唇の先で告げる。
ジュリアスは、驚きのあまり、意味を理解していないようだった。
動かない彼を少々気の毒に思いながら、私は身体を引きはがして、踵を返す。執務室を出てすぐのところで、オスカーとすれ違った。
ジュリアスの執務室から出てくる私がそれほど珍しい訳ではないだろうに、オスカーまで、まるでありえないものを見たように、ピタリと足を止める。私は少し困って、首を傾げるようにして笑んでから、軽く会釈をして彼の隣を通り過ぎた。

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「チェック、ですかね。」
「・・・かかったな。」
「・・・おや、果たしてそうでしょうかねぇ。」
互いに独り言のように呟きながら、私達は盤上で静かに戦う。
あの日の事を、忘れてくれている・・・?
あるいは、忘れたフリ・・・?
どちらでも構わない。
何れにせよ、私は唐突にジュリアスをチェスに誘い、彼はそれに乗った。そしてまるで、随分暫くぶりに執務に関係のない話をしているのに、その事に気づいていないかのように振舞う。
不意に、トントン、と規則正しくはっきりとしたノックの音。
「オスカーです。」
と、扉の向こうから声がかかる。
「入れ。」
と顎に指先を掛けて思案気なポーズのままにジュリアスは返事をする。
「はっ。」
畏まった応答の後、オスカーは扉を開いて、一瞬面食らったように所作を止め、それから何事もなかったかのように、扉を閉め、大きな歩幅でまっすぐにこちらにやってきた。
「お邪魔、でしたか。」
語尾は下がっている。
「いいや。どうした。」
同じく語尾の下がった応答。
ジュリアスは白い手を一度盤上に戻そうとして、途中で、諦めるように腿の上に戻して、何も言い出さぬオスカーの顔に初めて視線をやる。
勝負がつかなかったことを、私は僅かに惜しんで、内心で小さく嘆息した。
オスカーは申し訳なさそうな、シュンとした顔のまま、ジュリアスの視線に応えるように、口火を切る。
「ご依頼のあった件、出張に行った際に調べましたので、報告書を。」
小脇に抱えていた書類をオスカーが差し出すと、ジュリアスはそれを受け取って軽く目を通す。
「やはり想像していた通りだったな。後で子細を確認しておく。また相談しよう。」
書類から目を上げないまま呟いて、側に控えるオスカーを見上げる。
「手間を掛けさせたな。」
微笑が浮かび、オスカーも微笑み返す。
「いえ。それでは」
腰を折る時に、チラリと一瞬、私とオスカーの視線が交差する。
『ここで、何をしている?』
とアイスブルーに問われた気がして、私は曖昧に微笑する。
『忘れ物を、取り戻しに。』
内心で答えて、踵を返す彼の背中を見送る。彼が退室し、パタンと乾いた扉の音を聞く。通り過ぎた沈黙に、ジュリアスが口を開いた。
「チェスをしに来た訳ではないのだろう。」
口元には笑みが浮かんだまま。彼はゆったりとソファの肘掛に右肘を掛けて、指先を額に当てた。
豪奢な金髪は、やはり私には眩し過ぎる。目を伏せて、言葉を探す。
盤上に、闘いの最中で戦意を失った僧侶が佇んでいる。まるで私のようだと苦笑を漏らす。
「あー、そうですねぇ。」
息を継ぎながら、尚も言葉を探していると、クッと喉を詰まらせるような笑い声。
「続きをするか?それとも、後悔の共有とやらの中身を教授願えるのか?」
少しばかり挑戦的な言い方に、視線を上げる。首座に相応しい余裕の笑みがそこにある。
大地が、陽光に視座の高さで敵うはずもない。私はそれをよく分かっている。
彼の言う『続き』はチェスの続きの筈はない。先日の悪さの続き。置き去りになった私の乱心など、彼には何ほどのこともなかったのだろうか。少々苛けた気持ちを味わいながら、私は曖昧に笑んだまま再び盤上に視線を戻す。
「言うつもりはなかったのに。何故でしょうかねぇ。」
心から不思議だった。
「お前は違うと言うが。あの時のことを、恨んでいるのだろう。それは理解した。・・・別に構わぬ。昔、カティスに窘められた事がある。お前の言い方では人に理解されぬ、と。」
自嘲するような珍しい声音。視線をゆっくりと上げたが、やはりそこには首座の余裕の笑み。
私は僅かばかり混乱し、自分でも何を言いたいのか理解しないままに答えた。
「構わぬ、とは残酷ですね、ジュリアス。」
ジュリアスは少し驚いたように目を見張る。
「そうだろうか。」
「えぇ。」
「それは・・・すまなかった。」
僅かに目を伏せるジュリアス。私は頭を振った。
「謝らないでください。あの時のことを、もし仮に、私が恨んでいるとしたら。何故恨んでいるのですかね?ジュリアス、私には、分からないのです。・・・分からないのですよ。」
ジュリアスは困ったように眉を寄せ、けれども笑んで答える。
「難しいことを言うな。分からぬ。けれども、私の何かが、お前を傷つけた・・・いや、傷つけているのだろう。或いは、今も。」
彼の言い様に、少々意地悪い気持ちになる。
「分からないのに、謝罪する、と?貴方らしくないのでは?」
微笑して言えば、
「けれども、傷つけているのだろうという感覚は、あるからな。」
穏やかな微笑。
私達は、それと知らずに随分歳を取ったのかもしれない。昔話を素直にしようかという気に、何故か、なっていた。
それは、或いはジュリアスに寛容さが備わったせいなのか、それとも、元から寛容な彼を受容できるだけ、私の精神が落ち着いたのか。不思議に思いながら、私は戦意を失った盤上の僧兵を見つめ、昔を思い出していた。
「昔。先代の陛下が、まだ女王候補だった頃。クラヴィスと彼女が恋に落ちたことに、私は気付きました。そしてそれをジュリアス、貴方に伝えた。」
ジュリアスに視線をゆるりと投げると、彼はゆったりとソファに身を預けたまま、まるで眠るように目を閉じた。私は再び僧兵を見やる。午後の陽だまりの部屋。小さな四角い戦場の跡。
「貴方は『良く知らせてくれた』と言い、私はホッとしました。貴方はクラヴィスを弟のように思っていた。そうでしょう。なのに。」
私は一度言葉を切る。ジュリアスの様子を確かめるか逡巡して、結局瞳を伏せたままに、
「なのに、貴方は、先代の陛下の女王着任が決まった後。二人の気持ちを知っていたのに、クラヴィスに、キチンと説明しては下さらなかった。結果としてクラヴィスは心を閉ざしました。」
静かに、ゆっくりと、淡々と続けた。
「恨みに思う?貴方を?」
自ら問うて、私はクスリと自嘲して、ああ、と小さく感嘆してから続けた。
「いえ。寧ろ、心を閉ざしてしまったクラヴィスを、いえ、それよりも、その原因を作ってしまったのであろう私の軽率な行動を恨んだ。そして、俄かには受け止めかね、置き去りにした。クラヴィスを同僚として慕い始めていた自分を。貴方という強烈な光に気後れして置いていた距離を、縮め始めようとした愚かな自分を。そう。もしかしたら・・・貴方達と友人になれるかもしれない等と、愚かな幻想を抱いた私を、私は置き去りにする事に決めた。」
ジュリアスの私室。
中庭から窓越しに差し込む陽だまり。
キラキラと輝く室内の粒子。
安らかに眠っているように私の話を聞くジュリアス。
盤上の戦いの跡。
彼の金髪と象牙の肌。
私の昔話に、時は歩むのを止めてしまったようだった。

心地よい沈黙を味わっていると、
「そうか。我々は、友人にはなれぬのか。」
とジュリアス。
疲れているのだろうか。目を伏せたまま、ジュリアスは、けれども止まっていた時計の針を、再び動かす。表情は眠っているような穏やかなもののままで、語尾も落胆したようでもなく、かと言って、問うているようでもなく、ただ、事実を受けいれ、確認しているようだった。
まるで、それでは友人になれるものなら、なりたいようではないか、と思ってしまう。
「貴方が、前女王陛下との間柄を、説明して下さるまでは。」
思っていた事とは違う懸念が、私の口をついて出た。どうも、いけない。これではまるで、彼が私と友人になりたがり、私がその条件を提示しているようで。けれども、私の奥底には、そういう意地悪な気持ちがあるのかもしれなかった。
少しばかり驚いたように、ジュリアスは瞼を開けた。
「何?」
「忠誠の指輪の、意味を。教えて下さいませんか。」
私は、促すように首を傾げた。ジュリアスは、渋い顔付きになり、それから、ゆっくりと小さく、首を振った。
「できぬ。」
「でしょうね。それは、その指輪に掛けた、忠誠故に?」
彼の返事を肯定してから、重ねて問う。
「・・・答えられぬ。」
ジュリアスは小さく嘆息した。彼の指に光っている忠誠の指輪をチラリと見やる。
それから、私は口を再び開く。
「私の推測はこうです。クラヴィスへの想いを、先の陛下は貴方に打ち明けた。しかし、それをクラヴィスに明かす事は、忠誠に掛けて、許されなかった。何の為に?それは先の陛下がこの宇宙に愛を注ぐ事への、弊害となるからです。クラヴィスが彼女を想い、彼女がクラヴィスを想う、その気持ちが通じ合っている事は、彼女と貴方・・・ジュリアスの二人の秘密となった。そして、その些細な秘密が・・・この宇宙の礎の一つとなっている。クラヴィスの今なお、消えぬ痛み、閉ざした心と共に。えぇ、ジュリアス。答える必要はありません。これは只の推測です。」
私は、ゆっくりと確かめるような口調で。けれども、間を空けずに一気に話した。それから、パチパチ、と戸惑うように瞼を開閉させる珍しいジュリアスを見つめる。
「ただ、私は、そのやり取りに、図らずも、加担してしまったことを、悔いているのです。」
「・・・何も言えぬ。」
ジュリアスは、瞳を伏せ、再び指先を額に当てた。
「えぇ。聞いて頂きたかった、それだけなのです。私が貴方に対して、距離を置いてきた・・・その理由を。」
私は、遠い昔に置き去りにした、忘れ物を、これほどまでに、取り戻したかったのかと思った。
いつも、彼の顔を見る度に、なんとはなしに思い出してしまう、過去。
それを、どうしても、私は清算してしまいたかったのだろうか・・・?
彼を傷つけてまで?彼の忠誠の証に、泥を塗ってまで?
そう、多分、傷つけてまで。泥を塗ってまでも。
「ジュリアス。過去は、やり直す事が出来ません。」
「・・・そうだな。」
酷く憔悴したような声は、およそ、光の守護聖のものとは思えない。
「けれども、関係は、やり直す事が出来る。そう思うのは、私だけでしょうか。」
再び、彼の群青がこちらを捉え、パチパチと瞬く。
見え隠れする光。私の・・・焦がれて、止まない・・・。
もう、止めにしたいのだと思った。
「もう、止めにしたいのです。貴方に焦がれ、けれども、過去を思い出して畏れ・・・いつまでも躊躇する、この状態を。」
「もう少し、はっきりと言ってくれぬか。」
彼の深い声音。
「私は、置き去りにした私を、今、貴方に明かしました。だからもう、何もありません。貴方に対する蟠りは。ずっと思っていました。貴方に近づきたいと。夜の光は、砂漠の大地に住む人々の精神を脅かし、昼の光は、砂漠の大地に生命の危機を齎す。なのに、見上げずには、居られない。」
私は立ち上がって、彼の椅子の肘掛けに腰を下ろし、右手を椅子の背に付いた。そして、左手で彼の髪を梳き、サークレットにそっと口づける。
近づきたい。その言葉のまま。その欲望のままに。
ジュリアスは私を呆然と見上げ、沈黙を数えてから、クッ、と喉を詰まらせると、ハッハッハと男らしく快活に笑う。
「ルヴァ。私は、お前に恨まれ、疎まれていると思っていた。」
参った、というように、ジュリアスは再び頭を振った。そして、耳に心地よい、深い声で続ける。
「そして、お前は一つ忘れている。」
私には、思い当たる節が無い。彼の白い手が、私の頬に伸びる。
「光は、いつでも大地を慈しむ為に、己の身を焦がしているということを。」
今度は、私が驚く番だった。己の身を焦がす。大地を慈しむ為に・・・?
首座に相応しい、余裕の笑みが、暖かに私を見返す。
先日、追い詰めるようにして奪った口づけは、彼にとって、何程の事も無かったのだろうと、そう思うに十分だと私が結論した、その笑みは。・・・私に対する情愛によるものだと解釈して、良いものだというのだろうか。・・・いくら何でも、都合の良い解釈に過ぎるだろう。
けれどもそれは、少なくとも、光を受ける者達を、慈しむ笑みなのかもしれない。
私は『全く。適わない。』と思いながら。
彼の唇に、二度目となる口づけを落とした。

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数日後。
「よぉ。」
たまたま、目が疲れ、お茶でも入れますかね、と思っていたタイミングだったので、私は掛けられた声に反応することができた。書籍から視線を上げ、
「おや。」
と訪ね人を認めてから、思わず、へらりと笑う。
開きっぱなしの扉に身体を預けていたオスカーが、微笑んで私の応答を受け止めてから。
「ここに来るのは随分、久しぶりな気がするな。」
言いつつ、つい、と自然な動作で私の書斎に入ってくる。『よくもまー、ああも相手に合わせて、馴れ馴れしいと思わせないギリギリで、親しみやすい空気、作るよねぇ!』とオリヴィエは彼を評し、『優秀な人誑し』と揶揄していた事を思い出す。彼らのコミュニケーション能力の半分も身についていない私には、なかなか理解しにくい話だった。それでも、こんな時のオスカーは、私には気楽な相手の一人だということも確かだった。
彼の居る私の書斎という風景を、私は好ましく思っているので、知らず上機嫌になる。
「あー、お茶でも入れましょう。少しお待ちくださいねー。」
立ち上がって茶器の準備にかかる。部屋に備えてある小さな手洗い場から、水を汲み、ゼフェルの持ってきた瞬間湯沸かし器を使ってみようと、周りの本をどけて、水をセットする。習った通りに温度設定をしてからスイッチを入れると、数秒で湯が沸いてしまった。少しばかりの味気なさを感じつつも、茶筒から茶葉を取って急須に入れる。入れてから、部屋を見回すが、書籍や資料の山ばかりで、オスカーの姿は見えない。どこかに腰を落ち着けていつものように何か読み始めたのだろう。少しだけ大きな声で、
「オスカー?緑茶でいいですかー?」
と聞くと、
「ああ。」
とこれまた味気ない返事が返ってきた。味気なくぶっきら棒な少年と、私は縁があるのだろうか、などと思ってから、オスカーに少年などと言ったら怒り出すだろうと思い至って苦笑する。
少しぬるめの湯を急須に入れて、蓋を閉めて蒸らす。二つの湯のみを温め、交互に少量ずつ茶を入れて、私は両手で二つの湯呑みを持ち上げ、オスカー声がした場所に向かった。
「あー、その本ですかー。」
言いながら、彼の前のテーブルに湯のみを置こうとして、床に置きっぱなしにしていたらしい、本に蹴躓いて、バランスを崩す。
オスカーが素早く手にしていた本を横に置き、湯呑み二つに手を添えてくれ、角度が垂直に保たれた為、お茶を書籍にかける惨事は免れた。
二人、両手を使って二つの湯呑みを支える奇妙なポーズで固まってから、同時にやや大袈裟な安堵の息を吐く。
「貴重な資料もあるだろうに、あんたは書斎で茶を飲むのは止めといた方がいいんじゃないか?」
呆れたような彼の声音に、私は彼に湯呑みの片方を手渡して、隣の小さな丸椅子に腰を下ろす。
「あー、実は希少図書はこちらの書斎には置いていないのですよ。こちらは写本の類ばかりです。」
自分のおっちょこちょいぶりに少しの言い訳をして、両手で湯呑みを傾け、一口茶を口に含む。
土の曜日の昼下がり、穏やかな日の光。
そう、日に焼けても構わないものしか、こちらには置いていない。
「それで?今日はどのような用件で足を運んでくれたのですか?」
彼の向こうから日が差しているので、少々眩しいと思いながら、私は彼の横顔を見やる。少し意地悪な色を灯して、彼は切れ長の瞳をこちらへ寄越した。まるでキスを強請っているような顔ですね、と思ってから、私は自分の思い付きを内心で笑う。彼は無意識か意識してか分からないけれど、こういった顔をよくしている。相手がその気になるかどうか、試しているような、そんな。
「俺は用事がなければ此処に来ないか?」
そして、少し身体を前に倒し、腿に両腕を付くような格好から、私を見上げるようにして。やはり自信ありげな笑みを携えて誘っているような事を口にする。躊躇いもなく。私は小さく笑って受け、
「あー、そうですね。肉体的な関心の場合もありますけれど。貴方の訪問には、なんらかの意図は、いつもあるように感じていますよ。えぇと。違い・・・ますかね?」
途中で彼の眉がクイと訝しむように跳ね上がったので、思わず後ろが狼狽えたようになる。フン、と彼の鼻が不本意そうに鳴り、グシャと乱暴に彼は髪を潰した。
「違わないだろうぜ。」
続いた肯定に、私は思わずホッとため息を吐く。
「それで、今日はどのような?」
曖昧に再度問う。珍しく言い淀むように口元を歪めて沈黙を数えてから、
「ジュリアス様と。」
と言いかけ、一度彼は言葉を切った。ドキリと心臓が踊る。視線を合わせたまま、彼は真剣な面持ちで、続ける。
「ジュリアス様と、何を話しているんだ?」
私は、何処かで、こう問われることが分かっていたような気がする。そう、ジュリアスの私室で、『ここで、何をしている?』と目で問われた、その時から。
だというのに、何を動揺しているのだろう。そう、あの時は・・・確かこう、内心で返答したのだ。
「忘れ物を、取り戻したくて。」
私は一度、彼の強い瞳から逃れて、灰渋色の湯呑みの中の、緑色した液体を見つめる。
「忘れ物を取り戻す為に、彼と話していたのです。」
「なんのだ。」
きっぱりとした問いは、責めるような口振り。マルセルが此処に居てくれたなら、ルヴァ様を苛めないで下さい、とでも擁護してくれただろうか。私は苦笑した。
「なんの・・・。置き去りになった・・・。遠い昔に、構築し損ねた、友情、でしょうかね?」
誤摩化すように笑んで、彼に視線を戻すと、彼は苦々しげに顔を顰める。それは痛みに耐えるような顔でもあった。
「は、はは。」
彼の渇いた笑い声。それは愉快そうでなく、無理矢理に絞り出されるような声でもある。
「アンタがジュリアス様と今更、友達になりたかったとは。ハッ、全く。驚きだぜ。」
頭を振って、続けられた偽悪的な台詞に、私はとても心配になる。それと同時に、私が彼を心配するのは、あまりに彼への侮辱ではないか?とも思う。
けれども、彼はらしくもなく、目を合わせずに何事か続けようとして、口をキュ、と噤むと、再び私の顔を見た。
まるで、今にも泣きそうな少年のような顔つきに見えてしまう。そんな顔をオスカーがするはずもない。
私は驚いて、ただ、目を瞬く。
「なら、質問を変えよう。アンタと俺は、『友達』か?」
質問の意味が分からず、言葉に詰まる。こんな問い方は、いつもの明瞭な彼のものとは思えない。いつだって、彼の質問はもっとずっとはっきりとしている。
困惑したままに、瞼の開閉ばかりを繰り返していると、オスカーは、私には宛てたことのない、少しばかり歯を見せた、柔らかな笑顔になる。
「馬鹿みたいな質問をしているな。」
自嘲するように彼は続け、
「忘れてくれ。」
爽やかに言うと、湯呑みの中身をグイ、と一気に飲み干した。
その様子に、何か言わなければ、と今更ながら、私はとても焦る。
「あ、あのー。オスカー。」
トン、とオスカーは湯呑みをテーブルの空いたスペースに置いた。そして、自然な所作ですらりと立ち上がって、振り向く。
そして、笑んだまま、少し首を傾げて私を見やる。見上げる彼は燃えるような紅い髪と、慈愛に充ちたようなアイスブルーの瞳。明るい陽だまりの書斎に、私よりずっと似合っている彼の存在。
私は口を開いて・・・それから、続ける言葉を無くして、視線を落とした。
「ごちそーさん。」
彼の小さな挨拶におずおずとやっとの想いで顔を上げると、書斎のドアがパタン、と閉まるところだった。
彼が居なくなった陽だまりの書斎が、何処か、自分の部屋ではないような気がして。所在を無くしたまま、私は暫く、木製のドアを見つめていた。

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「はぁーい。全く分かりやすいね。アンタって男は。」
何でこの男と外で飲む事になったのか、さっぱり分からない。ただ、金の曜日の執務終わりに、「今日の夜、どぉ?」と言われたので、「あぁ。」と生返事して、なんとなく、この男の私邸に寄った。
出迎え頭に、この上なく明るい声を掛けられ、この男と今日飲むのは失敗だったのかも知れないと今更に思う。
「いいのが入ったンだよー。アンタも好きそうなヤツ。」
言いながら踊るように踵を返す男の背に続いて、屋敷の廊下を進む。まあ良いさ。良い酒にありつければ。俺は忠誠を誓ったその人とは違った色合いの金髪が揺れるのを、やや重たい足取りで追う。
「で?今度の失恋のお味はどーよ?」
通されたのは、プレイルーム。既に酒のツマミはテーブルに並んでいる。早速ワインの口にナイフを滑らしながら、軽やかに問う男を、テーブルに肘を付いて、漫然と見上げる。
「失恋?」
髪を掻きあげて問う。
「じゃないの?」
やや、驚くような表情。全く、変な所で察しのいい男は、これだから嫌になる。フン、と俺は鼻を鳴らす。
「始まってすら、いなかったからな。」
酒を入れる前から、こんな話をしなくてはならんとは。俺は行儀悪く、フィッシュ&チップスの皿から、ポテトを摘んで口に放り込む。食事を摂る気分じゃないが、腹は減っていた。
「始まってすらいない恋が終わるとは!流石!!」
戯けたように肩を竦められて、俺は長々しく溜め息を吐く。
グラスに注がれたワインは、深いボルドーの色合い。互いにグラスを申し訳程度に持ち上げて、一口飲む。
「確かに。『いいの』だな。」
と俺は片眉を持ち上げて評す。
「でしょ?」
と得意げに首を傾げる男。プッ、と吹き出して笑い、思い思いにツマミとワインを自分のペースで空け始める。話題はこのところの議題だった惑星群の話になり、自然と年長者三人の話に至る。
ワインは既に空いてしまい、別のものに切り替わっていた。
「だから深入りしない方が良いって言ったんだけど。」
男はやや感傷的な顔つきで、グラスに瞳を落とす。そんな忠告を、以前、受けたような気もする。
「深入りしたつもりは無かった。」
素直に零す。やはり、この男の勘の良さは普通じゃない、改めて思う。
「見りゃ分かるじゃないか。あの、物言いたげな、距離感・・・さ。」
ルヴァのジュリアス様への視線のことを言っているのだろう。そう、俺だって、分かっていたはずだった。種類はともかく、ルヴァはジュリアス様に、蟠りがある。そんなことは自明で、だから自然と、ジュリアス様とルヴァの間を、俺達が取り持つ事等なかったのだ。
「だから、深入りするつもりもなかったし、何も言わなかった。何の約束もしていない。」
「で、始まる前に終わったと。」
溜め息混じりの台詞に、睨みつけるように瞳を上げると、また無言で肩が竦められる。俺は注がれたワインを、くい、と傾けて飲み干す。
「あのさ。」
オリヴィエが呆れたように、テーブルに肘を付いたまま、俺を見やって重たげに口を開く。
「なんだ。」
不機嫌を隠さずに問う。どうせ、繕ったところで、この男には全てお見通しなのだ。隠す必要もあるまい。
「アンタってさ。自分で思う程、器用じゃないと思うよ。いい加減、それ分かってていいと思う。」
「どういう意味だ。」
再び片手で無作法に注がれたワインを、こちらも不調法に空け、据わっているだろう目で問う。
「フッ、ふふ。」
柔らかく仕方なさそうな笑み。ピンクに染められた前髪が揺れる。
「身体と心は、アンタの場合、一体ってことサ。」
「お前は違うのか。」
酔っているな、と自覚した。勢いよく飲み過ぎたのかも知れない。
「さぁ。どうかな?自分の事は、他人の事ほど、よく分からないからね。」
やけに男前な笑みに、俺は「ハッ。」と嗤って、椅子の背に身体を投げる。クッション性の良い背もたれは、ふんわりと身を包む。テーブルを回り込んで来たのか、男は俺を見下ろして、妖艶に笑った。男の顔の上に、豪奢なシャンデリアが眩しい。
「試してみる?」
落ちて来た唇を受け止めて、舌を絡ませる。少しばかり顔を持ち上げて、再び、試すように、問うような瞳に、
「節操無しめ。」
と俺は毒づく。ちょっとばかり、目を丸くして、
「誰が?」
と問う華奢な男。
「誰も彼も、だ!」
俺は噛み付くように応えて、男の金髪をやや乱暴に引き寄せた。

ルヴァの蟠り。
物言いたげな距離感。
ジュリアス様の視線の先にあった、ルヴァの背中。
だから、いいんだ。
ルヴァの忘れ物が何か知らない。
でも、見つかった。
見つかったのなら、それでいいさ。

「泣いても良いのに。」
縺れるようにソファに二人沈んでから、優し気に微笑む男は、やはりどこか、腹が立つ。
「誰がだ。」
苛立つような俺の声。
「弱みに付け込むのは、趣味じゃないんだけど。」
「誰が弱っている。」
畳み掛けるように、俺は目の前の男に噛み付く。
「ふぅん。じゃ、この関係は今日が始まりってことでいい?」
にこやかに尋ねる男に、俺は少しばかり逡巡する。
約束しなかった。何も言わなかった。あの男とは。
「そうだな。身体に聞いてくれ。」
キッパリと返事をする。
「俺は、俺が思うより、身体と心が一体だそうだ。」
と、生真面目に付け加えると。男は目を丸くして絶句してから、声を失って、俺の胸の上で笑った。
運動すればまた腹が減る。
ツマミとワインの続きは一戦交えた後で構わないだろう。

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土の曜日の夜。私はジュリアスの寝室に上がり込んで居た。
ジュリアスの中をオイルに濡れた指で掻き回す。
「初めてではないだろう、と思っていました。」
「期待、に・・・。添えなかっ・・・はっ・・・た、か?・・・ンンっ・・・。」
振り乱れる金髪、象牙色の肌は、今は桜色に染まり、汗がしっとりと浮いている。
誰と?と。
問い詰めてしまいたいような気持ちもあり、けれど、聞かずとも見当が付いてしまうような気もした。
それで結局、誘うような群青の揺らめきに堪えかねて、それまで避けていた場所を、思い切り擦る。
「アァックゥッ!」
私に上半身を預けたまま、もっと、と強請るように腰が揺れる。指先で挟み込むようにして、しつこく振動させてやってから、少し乱暴に、ガリ、と掻くように刺激する。
「・・・・・・・ッッ!!!!」
ガクガクと痙攣する身体。けれど、彼の先端から白濁は流れない。力一杯、ターバンを掴まれてしまい、ズルリ、とそれがずり落ちる。ああ、そうだったと思い至る。ベッドに入る前に、ターバンを取ろうと思っていたはずだったのに。
私は渇いた片手で、ターバンをベッドの脇に軽く畳んで置きやり、彼のぐったりして汗ばんだ身体を再び抱く。
「ジュリアス。」
名を呼んで、彼の意識を呼び戻す。無意識か、意識的か。彼はフッ、と口元だけで笑った。
桜色に汗ばんだ彼は、普段の研ぎすまされた首座の守護聖の雰囲気とは真逆に、酷く淫靡で。
眉間に寄った皺の意味合いも、全く異なる。
私は煽られるようにして、やや乱暴に彼の両足を開く。
けれども、瞳の光は淫靡な雰囲気に似合わぬ柔らかさで。
「ルヴァ。」
来い、と呼ばれたような気がして。私は彼の中に一気に押し入る。
何をしても、彼にとっては何程の事も無い事なのではないか・・・と酷く不安になり、めちゃくちゃに腰を振り回して、自我を失う。
微かに、許してくれ、と言う懇願が聞こえるまで、私は彼の身体を離さなかった。

互いに疲れ果てて、汗塗れの身体を横たえて。

私は遠い昔の夢を見た。
守護聖になったばかりの頃。
私よりずっと守護聖として古株の、けれども、同年代に見えるクラヴィスとジュリアス。
彼等が何か些細な事で言い合っている。
私は声を掛けたくて、それで、声を掛けられずに。
ただ、胸に抱いた本をソワソワと忙しなく抱きしめ直す。
程なく、ジュリアスが気づいて、私を見やる。
群青に輝く瞳。
私は何事か、言おうとして口を開くが、うまく言葉が出ない。
すると、ジュリアスは。
険しく寄せていた眉間の皺をするすると解き、やがて、陽だまりの笑顔を見せた。
豪奢な金髪以上に、その表情は眩しい。
「ルヴァ!」
親しげに呼ばれる私の名前。

ただ、胸が詰まった。

ジュリアスの寝室で朝を迎える。
「友人となれば、お前はクラヴィスも抱くのか?」
気怠い身体を起こすと、隣でジュリアスも目を覚ましたのか、唐突に尋ねられた。
「はい?」
意味を取りかねて、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「そうなのであろう。」
決めつけるように嘆息される。
「・・・分かりませんが、或いはそうかもしれませんね?」
首を捻りながら返すと、ジュリアスは常の重々しい口振りで、身体を起こしてから結論した。
「それは・・・由々しき事態だな。」
私は朝日に神々しく輝く豪奢な金髪に目を細めて、苦笑した。

砂漠の夜はとても冷える。
それは孤独の世界。冴え冴えとした空気に、何処までも続く砂の丘。
月や星の光が鋭く突き刺さる。
そう、夜の光は私の精神を脅かし、昼の光は私の生命を脅かす。

けれども、なんという皮肉。

私はその名の通り、地の守護聖であり、光を厭い、地中に身を隠していた。
なのに、焦がれずに居られず、陽だまりを求めて、朝日に焼かれるが為、こうして這い出して来てしまった。
実に矛盾した・・・けれども、素直な私の気持ち。

「もし、貴方がそれを厭うなら。」
私が苦笑顔のままに、口を開くと。
「厭う故に、私とお前は友人ではない。」
弾ずるようなハッキリとした言い様に、私は少しばかり脅かされる。
「恋仲、という事にしたい。」
続いた言葉に、私は、やはり適わない、と。
大地を慈しむという、陽の光の中で、再び笑った。


終。

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