【海底讃歌】
水底--射干玉(ぬばたま)の黒--へ。
全身のばねを使って、ぐんぐんと進む。闇の中、身体を包む水圧だけが、オレに天地の感覚を伝える。
進めば進む程に、頭の芯が冴えて、やがて、脳と心臓だけの生き物になったような感覚に襲われる。
張りつめた静寂の中、自分の鼓動だけが、聞こえる。
寧ろ、鼓動それ自体が生き物であって、オレという思念の固まりは、あるいはその附属物かもしれないと思わせる・・・力強い、鼓動。
そうだ。
きっと、オレは、もともと・・・こういう生き物だった。
奇妙な確信を得て、いずれ浮上しなければならないことなど忘れて、只管に水底を目指す。
どうせ、急速な上昇は自分の身を破壊する。
そう。だから、このままでいい。
そうだ。
このまま、ずっと・・・
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「ティキー?ねぇ、ティキってば。」
場違いなノイズが、突然、オレの『心地よさ』を破壊する。思わず眉間に力が籠る。うるさい、黙れ。
「ティ・キ・ってぇ・ぶぁーッッ!!」
「うるせぇっっ!!」
グイ、と肩を乱暴に揺さぶられる感覚と、自分のがなり声で、オレは不意に現実に引き戻された。
突然訪れたフルカラーの視界には、泣きそうに顔を歪ませた、女子にしか見えない見慣れた男。オレの肩に触れたまま、右手は固まっていて、瞳には、ジワジワと涙が堪り始める。
「・・・だ、だってぇ・・・ティキが、起こせって、言ったんじゃ、んかぁ・・・。」
話しながら、どんどん鼻声になる声を聞きながら、オレは、ほとんど条件反射で前髪を掻きあげ、溜め息を吐いた。
「っだー!泣くな!鬱陶しい!!」
「うー・・・。」
潤んだ瞳をそのままに、こっちをじっと見ながら、唇を噛み締める、いい加減、イイ年をした男-フェニックス。
こいつの細胞はちゃんと酸化しているのか大いに謎だが、まるで見た目はせいぜい十代の女子である。
実年齢が24であることを考えれば、そら恐ろしい話だ。サラサラと纏まる気配のないストレートの黒髪が、一層それを助長するのかもしれない。
どーなってんだ、こいつの身体の構造は・・・と、今更ながら呆れつつ、その顔をまんじりと眺めていると、フェニックスは、デスクに突っ伏して寝ていたオレに視線を合わせる為だったのか、デスクに乗せていた顎を、名残惜しそうに引き上げ、ノロノロと立ち上がる。
「ところで、起こせって言ってたから起こしたんだけど。処理終わってんじゃないの??」
「!!」
その言葉に、急に仮眠を取る前の作業を思い出し、デスク上のキーボードに指を走らせる。コンソールを呼び出して現れたのは、
DONE.
の味気ない文字列。吐き出されたデータを確認するが、問題はない・・・。問題が・・・ない!!
一呼吸遅れて、歓喜が身を包む。
「完成した!よっしゃ、計算終了!」
思わず、キャスター付きのOAチェアを、後ろに転がしながら、天を仰ぎ、右手で瞼を覆う。
「ふーん。ティキがそんなに喜ぶの、珍しいね。で、何計算してたの?」
「先週、紹介したろ。あの公理で問題ないか、可能世界を全部探索して、証明してたんだ。これで国際会議一本、やっと確保だ。もーオレは、いっそ全部テーマを変えてやろうかと思ってたところだったからな・・・。あー・・・アスカのモジュール組み込んでマジで良かった・・・。今度アイツに奢ってやらねーと・・・。」
ダラダラとしゃべる俺に、フェニックスは、胡乱げな目つきでこちらを見やり、
「ふーん・・・。」
耳の穴に人差し指をつっこみ、視線を逸らす。
「・・・あんだよ?」
珍しく、オレがお前の相手をしてやってるっつーのに、と言外に臭わせながら、片眉を持ち上げて見やると、
「だって。せっかくティキの眼鏡、隠してたのに、全然気づかなくて面白くないんだもーん。」
と、もはやトレードマークになりつつある、皺くちゃの白衣のポケットから、オレの銀縁眼鏡を耳掃除をした指でつまみ上げてみせた。
「バッ!!てめぇ!!きったねーッッ!!」
ガタン、と音をさせて勢いよくオレは立ち上がり、さっと反射的に手を伸ばすが、オレの華奢な眼鏡はひらりとすり抜けて、フェニックスの頭上に移動する。
「こっちだよん。」
「ったく!子供か!!」
怒りながらも、右手、左手、と、交互に手を伸ばすが、クネクネと奇妙なダンスを踊りながらフェニックスに操られる眼鏡は、なかなか掴まらない。
「はっ!好きにしろ。ガキが。」
諦めて、オレも白衣の両ポケットに、手を突っ込み、肩を竦める。
「ちぇ。つまんないのー。」
ぽい、と突然オレの胸の前に、眼鏡が放り投げられる。
「アブねーだろーがっっ!」
慌てて左手でキャッチしながら、文句を言うが、
「ティキは業績一本確保でご満悦なんでしょー?これくらい、多めにみなきゃ。」
ひらりと白衣の裾を翻して、フェニックスは背を向ける。
「そういうお前は、何も考えずに、コンスタントに成果出してるけどな。」
白衣で無造作に眼鏡を拭いて、それを掛けながら、オレはフェニックスの隣に移動する。
それを横目で確認し、頭の後ろで腕を組みながら、
「何も考えずにってのは、いくらティキでも言い過ぎってやつだよ。僕だってたまには考えてるさ。」
鼻が詰まったような恍けた声で、フォローにもなっていない弁明を繰り広げ、移動し始めるフェニックスに合わせ、オレも歩き始める。
「フッ。違いない。例えば、『今度は眼鏡をどこに隠そうかな』とかな。・・・ところで、どこに行くんだ?」
「そうそう、例えば、『今日のお昼はティキに何を奢ってもらおうかな』って訳でぇ、食事!」
オレは、
「なんでオレがお前に奢るんだよ。」
とぼやきながらも、パンツの後ろポケットに無造作に突っ込んでいた車のキーの存在を無意識に確認する。
「決まってるじゃないかー。成果1!その功労者たる、目覚まし係の僕に報酬を!」
勢い良く天を指したフェニックスの右の人差し指を、
「あーあー。わかったわかった。それじゃあ、優秀すぎる目覚まし様に、今日はマクドナルド等、奢って差し上げますよ。」
恥ずかしいから下ろしとけ、とばかり、左手で無造作に掴んで下ろす。再び竦めてみせた肩に、
「やったね!」
と、拳が当てられる。
白い廊下の大窓からは、午後の麗らかな日差し。
笑い合い、駐車場に向かい歩みながら。ふと、誰かに呼び止められたような感覚に、後ろを振り返る。
そこには、ただ、まっすぐに、麗らかな日差しに照らされた、真っ白な廊下が伸びている。
「ん?どしたの?」
フェニックスの声に応える。
「いや、なんでもねぇ。」
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「だからさぁ・・・んぐんぐ・・。つまりぃ。僕たちがやってるぅ・・・んぐんぐ。数学の研究ってのわぁ・・。」
バーガーを口いっぱいに頬張り、ジュースを飲み、その上、話したがるフェニックスは、相変わらず、落ち着きがない。
「分かったから、口の中のものをなくしてからしゃべれ。何を言ってるか分からん。」
指先でつまみ上げた1本のポテトで、その落ち着きの無い様をくるくると指し示してから、オレは、それを口へと運ぶ。ほとんど向かいに座るフェニックスに対し、横を向き、その上足まで組んでいるオレの態度は、フェニックスの落ち着きの無い食べっぷりとは別の意味で食事を食べるためのソレではないのだろうが、生憎、コイツの前ではマナーなど気にした事はない。
ジュルジュルジュー、と盛大な音を立てて、子供っぽさ丸出しでフェニックスはオレンジジュースを飲み切り、口の中のものを洗い流すと、
「だから、僕たちがやってる研究ってのは、世界を作る研究ってことだろ?」
と、人差し指をぶんぶんと振りながら、何やら真剣な表情を作り、顔を寄せてくる。そりゃそうか。内容が内容だ。
こんな台詞を隣のテーブルに座るOLが聞きつけたら、ほとんど、狂人の戯言と思われるわ。
「っとに、大袈裟なヤツだな、お前は。」
はぁ、と溜め息を吐きながら、ポテトをもう一本つまみ上げ、肘をついたままに、口に運ぶ。
「実際そうじゃない。だって、公理系を作ってるてことは、その世界のルールを作ってるってことでしょ?しかも、そのルールに基づく世界が、『果たして破綻してないか』ってことを証明してさぁ。」
「間違っちゃいないが、そうやって量産された世界に、意味があるかないかが問題だろ。特に、何も考えてないフェニックス様に作られた世界の場合。こないだ論文にしてた、アレなんか、一体どんな役に立つってんだ?」
流石に白衣は車の中だ。マクドナルドで、カジュアルな私服--ヤツは黒いタートルに、オレンジのタイトパンツ。薄手のVネックは、銀色で、肩を越すストレートの黒髪を縛りもせずに後ろに流している。オレはと言えば、くたびれたジーンズに黒いランニング。上から白いシャツを羽織り、癖のある金髪は、無造作に三つ編みにしている--に身を包んだ20代半ばの男の二人連れ・・・一体どんな風に周りから見えているのか、あまり想像したくない。
「特に、何も考えてないから、すらすら世界が創れたりして・・・ね。」
ふと、フェニックスが、オレと同様に全面ガラスを通して外の通りに顔を向け、瞳を伏せる。
トーンダウンした声音に気を取られ、オレはポテトを銜えたままに、やけに長い睫毛の下から覗く、フェニックスの灰色の瞳を、視線だけをそっちにやって伺い見た。その感慨深いような、珍しく複雑な表情は、まるで瞬きする間に消えてなくなり、くすっ、と鼻頭に皺を寄せた、ヤツらしい笑顔にとって変わる。
「僕が神様でさ。グルグルと、『ろくろ』を回して、土を捏ねて泥人形を作るでしょ。そしたら、ティキも神様でさ。その泥人形に、フゥっと息を吹き込んで、人間にするの。そういう夢をさ、見た事があって。」
「エジプト神話か?クヌムとヘケト・・・だったか。」
「ふふ。ティキは何でもよく知ってるなぁ・・・。」
オレのポテトを拝借して、手元のケチャップを付けてから、フェニックスはそれを口に運ぶ。鬱陶しいのか、落ちてきた髪を、耳に掛ける。
「神様なんてのはさ。居ない方が、いいよね。」
さっきから、話が妙なところにばかりいっている気がする。オレは、ポテトを機械的に口に運びながら、日の光に照らされる、ヤツの白い顔を、ただ、眺める。
「神様にとっても。作られた人間にとっても。」
「・・・。」
「見てよ。ガラスの向こう。このガラス一枚の向こうで、通り過ぎる、名前も知らない人達。一人の人が居なくても、きっと分からない。でも、一人一人がその時、その場所に、確かに、『居る』。その絶妙なバランスで、『今』が構成されてる。だけど・・・このガラス・・・。」
言いながら、フェニックスは、その全面ガラスに、ペタリ、と左手をあて、少し俯いて・・・。
それから、笑った。
「このガラスが、邪魔だよね。」
瞬間。
視界が白黒になり、フェニックスの左手の先で、
『ピシッッ』
という、微かな、けれども世界が割れるような、そんな音を立てて。
ガラスに、大きな亀裂が走る。
ヤメロ・・・・。ヤメテクレッッ!!
「って、聞いてんのー?ティキ?」
急激に襲ってきた悪寒と、ガクッ、と頬杖から顎がズレ落ちる感覚に、覚醒する。
「・・・。いや、すまん。」
・・・白昼夢?・・・いや。
「すまんって・・・。睡眠時間足りてなさすぎるんじゃないのー?」
呆れたように息を吐き出しながら、
「だからさ。えーっと、どこまで聞いてたかわかんないけど・・・。
つまり、このガラス一枚があることで、まるで向こうとこちら、別世界みたいに感じるでしょ? でも本当は、仮に『神様』ってのが存在するとしたら、その存在世界と、『現世界』ってのは、このマクドナルドの内と外みたいに、どこかでは繋がっていて、一続きの世界として捉える事もできるはずなんだよね。もし仮に、その『神様』ってのが、この『現世界』に影響を与えうる存在ならば・・・だけどさ。」
続けられる言葉は、含蓄があるのだか、適当な与太話なのだか、睡眠時間の足りない頭には判然としない。
「言ってる事が哲学的すぎて分かんねーぞ。フェニックス先生。」
考えるのを拒絶している脳みそを自覚しながら、茶化して言えば、
「いいや。よく分かってるよ。ティキは。」
仕方ないなあとばかりに、苦笑される。
「知ったようなことを、言うじゃねぇか。」
ポテトを取ろうとトレーに指を伸ばし、空振りに終わり、慌ててトレーの上を確認すると、既にオレのポテトはフェニックスに喰い尽くされていた。
「お前・・・オレ、まだ半分も食べてねーぞ!?」
「やだなぁ。先生ともあろう者が。マックのポテトくらいで・・・。」
おばちゃんのような仕草で、パタパタと手を縦に振ってみせるフェニックスの額に、ゴツ、と怒りの鉄拳を振り下ろす。
「いったーーー!!何すんのさっ!頭悪くなったら、責任とってくれるんでしょーねっっ!」
突然、オカマ口調で涙目になって叫ぶ男に、「声がでかいわ!」と今度はデコピンをかます。
クスクスと周囲から笑い声が聞こえ、オレは自分の頬と耳が不本意に紅潮するのを自覚する。
「行くぞ!」
「えー。追加注文しないのぉ?」
等と宣うフェニックスの首根っこを掴んで、無理矢理、引きずりながら、二人分のトレーを片手で我ながら小器用に片付ける・・・と。やがて、フェニックスも諦めたようにパーキングに向かい歩み始める。
外に出ると、明るい日差しの下、前を歩くフェニックスが艶めく黒髪を揺らし、後ろで腕を組んで、くるりと、踊るようなステップで振り返る。
「ティキにはさ。似合わないよ。」
軽く傾げられた首。チラリと覗く白い歯。
「何がだ?」
「暗くて、ストイックなヤツ。」
「ああ?」
意味不明な台詞に、片眉を跳ね上げてみせたが、
「だからさぁ。僕は、ずっと一緒に居てあげるね。」
ますます意味不明な台詞が継がれるが、不意に車のボディに反射した陽光に、網膜が焼かれ、悪態を付きそびれる。
目が眩むと同時に、ジン・・・と。脳裏に、痺れるような感覚が走る。
それは、瞳が焼かれたせいだろうか。
それとも・・・。
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暗闇の中、全身のばねを使って、ぐんぐんと進む。
進めば進む程に、頭の芯が冴え、やがて、脳と心臓だけの生き物になったような感覚に襲われる。
鼓動。
オレという思念の固まりは、あるいはその附属物かもしれないと思わせる・・・力強い、鼓動。
そうだ。きっと、オレは、もともと・・・こういう生き物だった。
奇妙な確信を得て、只管に水底を目指す。
そうだ。このまま、ずっと・・・
不意に、鼓動に微かなブレを感じる。
ドク、ドクン。
ドク、ドクン・・・。
オレの他に、誰か・・・居る?
脳と心臓だけになったオレに。いや、既に心臓の鼓動だけになったオレに。誰かの鼓動が、確かに、寄り添っている。
『僕らは、神様なんかじゃ・・・ないよ。だから、何度でも、やり直そう。終わりのない戦いなんかじゃない。 ちゃんと、きっと。僕らが、いつだって、「今」を楽しむ余地を、見出せるように。そこに、僕らの求める、答えはあるから。』
どこからか、無責任で楽観的な、声がする。
目指す先に、チカリと微かな、ほんの僅かな輝きが、弾ける。
そうだ。
確かに、オレは、そういう生き物だった。
奇妙な確信を得て、オレは、再び、力を漲らせた。
終。
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